小国喜弘『戦後教育のなかの〈国民〉-乱反射するナショナリズム』(吉川弘文館、2007年9月)を読みおわった。スマートだとは思うが、納得がいかない。
目次は次の通り。
はじめに
第1章 もう一つの教育基本法-教師達の戦後責任とナショナリズム
第2章 国民内部の一体性-加藤文三「石間をわるしぶき」
第3章 国民史の起源と連続-月輪古墳発掘運動
第4章 国民的記録の揺らぎ-本多公栄「ぼくらの太平洋戦争」
第5章 反復される記憶-地理的統合とポスト植民地主義
第6章 「国民」を創造する送致としての学校教育
おとがき
本書についてのコメントは、日本教育史往来にもあったが、そのコメントは良く本質を突いているような気がする(要するに、「国民国家論」という今日の視点から、戦後の教育の歴史と実践を後から批判的に検討するというもの)。筆者のstandpointが、歴史の主体や現実に遭遇してそれを解決しようとするものに即して思考するということではなく、そこからはなれて、「傍観者」的な目で見ているように思えるのである。しかし、それはそれで重要であるとも思う。主観的な語りが幅をきかしたり、ファナティックな歴史教育論(藤岡信勝やつくる会の教科書など)が出現している中で、このような冷徹な実践分析と教育論は必要かもしれない。
目次は次の通り。
はじめに
第1章 もう一つの教育基本法-教師達の戦後責任とナショナリズム
第2章 国民内部の一体性-加藤文三「石間をわるしぶき」
第3章 国民史の起源と連続-月輪古墳発掘運動
第4章 国民的記録の揺らぎ-本多公栄「ぼくらの太平洋戦争」
第5章 反復される記憶-地理的統合とポスト植民地主義
第6章 「国民」を創造する送致としての学校教育
おとがき
本書についてのコメントは、日本教育史往来にもあったが、そのコメントは良く本質を突いているような気がする(要するに、「国民国家論」という今日の視点から、戦後の教育の歴史と実践を後から批判的に検討するというもの)。筆者のstandpointが、歴史の主体や現実に遭遇してそれを解決しようとするものに即して思考するということではなく、そこからはなれて、「傍観者」的な目で見ているように思えるのである。しかし、それはそれで重要であるとも思う。主観的な語りが幅をきかしたり、ファナティックな歴史教育論(藤岡信勝やつくる会の教科書など)が出現している中で、このような冷徹な実践分析と教育論は必要かもしれない。