安田三代記の『ゾルゲをたすけた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち』(青土社、2020年)をようやく読み終わった。はじめは、どうなることやらと思ったが、第二次世界大戦前後の京都や東京での諸々が書かれて、おわりの方では面白くなってきた(時々、話がそれるので読みづらいが)。いろんな人がでてくる。気になっている人では、太田典礼(武雄 安田徳太郎の親友、京都の天野橋立の出身、旧制三高で安田の1年下、九州帝国大学医学部をでて京大病院で産婦人科を専攻、p.237-238)、また最近日本国憲法の制定の際の重要な人物となった鈴木義男(当時、弁護士で、ゾルゲ事件でつかまった安田徳太郎の弁護人となるが、あまりしっかりした弁護をしなかった。それがよかったのかどうなのか、尾崎秀実との対比で考えさせられる.p.265-267)などがいる。しかし、教育史としては、やはり山下徳治と安田徳太郎のところが興味深い。その部分だけ、備忘録として記しておきたい。
昭和5年9月26日、秋田雨雀と山下徳治がプロレタリア科学研究所関西支部記念講演会に出席するために、京都に来た。秋田曰く「山下君は篤実な人で、たえず学問の話をしている」と。安田家だけに泊まり、徳太郎と話をする。そこで徳太郎は、上京の決心をすることになる。山下の家の近く、東京府豊多摩軍中野町に手頃な借家をみつけた。山下がみつけてくれた日本橋の優生病院に勤めた(昭和5年10月7日)。
ここに出ている山下徳治は、明治25年に鹿児島に生まれた鹿児島師範学校を大正8年(1919)年に卒業し、,同士の西田小学校に勤めたが、同郷の先輩小原国芳にその才能を認められて、小原が主事をしていた成城小学校に招かれた。ところが、生徒の母親とスキャンダルを起こして、成城小学校にいられなくなり、大正11年その母子を連れてドイツのマールブルク大学のパウロ・ナトルプ教授のもとに留学し、ペスタロッチを研究した。ナトルプは新カント派の哲学者であったが、社会主義に対する関心を隠さなかった。それで山下は時代にソビエトの教育に関心をもつようになり、昭和2年ソビエトの教育の視察に行った。帰国後は自由学園に移り、再びソビエトの教育の視察に行き、その結果をもとにして、「新興教育」を唱えた。それは、唯物史観による教育があった。ここに山下が秋田、徳太郎と結びつく接点があった。
山下をスカウトした小原は、広島高等師範を経て、京都帝国大学文学部で教育哲学を学び、大正8年に東京牛込にあった成城小学校の主事になった。しかし彼は、明治時代には軍関係の学校への予備門として非常に有名だった成城学校がこの時代には落ちぶれているのを慨嘆して、その再生を企て、当時原野であった東京吹田多摩郡・・の土地に、小田原急行電鉄の線路が敷かれ、やがて小田原まで延伸されることを見越して40万坪の土地を買い、将来小学校、中学校、旧制高等学校とつらなる成城学園をつくることを計画し、整然たる区画整理をした。それで駅名だけでなく。やがてこの周辺一体は町名までも成城になり、後に東京の高級住宅のひとつとなった。後に小原は玉川学園を作り、戦後玉川大学学長になった。つまり、小原先生は教育哲学者であり、スカウトの名人であり、ディベロッパーである稀有の人物だった。(pp.141-142)
ある時の夏私達は、先に述べた山下徳治さん夫婦に招かれて、千葉県の飯岡にいったことがある。山下徳治さんの夫妻が夏のバンガローを借りたのだろう。・・・山下さんの家の朝食は、ドイツにいたせいか、パンにバターにベーコン、コーヒーであって、私達の家では普通の、ご飯に味噌汁とか、関西風のお茶漬けとかと違うので、うらやましかった記憶がある。云々 P.180
昭和5年9月26日、秋田雨雀と山下徳治がプロレタリア科学研究所関西支部記念講演会に出席するために、京都に来た。秋田曰く「山下君は篤実な人で、たえず学問の話をしている」と。安田家だけに泊まり、徳太郎と話をする。そこで徳太郎は、上京の決心をすることになる。山下の家の近く、東京府豊多摩軍中野町に手頃な借家をみつけた。山下がみつけてくれた日本橋の優生病院に勤めた(昭和5年10月7日)。
ここに出ている山下徳治は、明治25年に鹿児島に生まれた鹿児島師範学校を大正8年(1919)年に卒業し、,同士の西田小学校に勤めたが、同郷の先輩小原国芳にその才能を認められて、小原が主事をしていた成城小学校に招かれた。ところが、生徒の母親とスキャンダルを起こして、成城小学校にいられなくなり、大正11年その母子を連れてドイツのマールブルク大学のパウロ・ナトルプ教授のもとに留学し、ペスタロッチを研究した。ナトルプは新カント派の哲学者であったが、社会主義に対する関心を隠さなかった。それで山下は時代にソビエトの教育に関心をもつようになり、昭和2年ソビエトの教育の視察に行った。帰国後は自由学園に移り、再びソビエトの教育の視察に行き、その結果をもとにして、「新興教育」を唱えた。それは、唯物史観による教育があった。ここに山下が秋田、徳太郎と結びつく接点があった。
山下をスカウトした小原は、広島高等師範を経て、京都帝国大学文学部で教育哲学を学び、大正8年に東京牛込にあった成城小学校の主事になった。しかし彼は、明治時代には軍関係の学校への予備門として非常に有名だった成城学校がこの時代には落ちぶれているのを慨嘆して、その再生を企て、当時原野であった東京吹田多摩郡・・の土地に、小田原急行電鉄の線路が敷かれ、やがて小田原まで延伸されることを見越して40万坪の土地を買い、将来小学校、中学校、旧制高等学校とつらなる成城学園をつくることを計画し、整然たる区画整理をした。それで駅名だけでなく。やがてこの周辺一体は町名までも成城になり、後に東京の高級住宅のひとつとなった。後に小原は玉川学園を作り、戦後玉川大学学長になった。つまり、小原先生は教育哲学者であり、スカウトの名人であり、ディベロッパーである稀有の人物だった。(pp.141-142)
ある時の夏私達は、先に述べた山下徳治さん夫婦に招かれて、千葉県の飯岡にいったことがある。山下徳治さんの夫妻が夏のバンガローを借りたのだろう。・・・山下さんの家の朝食は、ドイツにいたせいか、パンにバターにベーコン、コーヒーであって、私達の家では普通の、ご飯に味噌汁とか、関西風のお茶漬けとかと違うので、うらやましかった記憶がある。云々 P.180