フェンネル氏の奇妙な生活

気付いた世界の中の小さな出来事と水彩画と時たま油絵と思いついたことを爺さんが一人語りいたします。

言葉(倭人語)

2008-08-28 10:12:44 | Weblog
卑弥呼が使っていた言葉は、日本語?という本があって「倭人語」というのだそうだが、言葉は民族の根幹だから日本人が日本語を失うときに日本人でなくなるというのは誰が言ったか知らないけれど本質をついた言葉だと思う。かつて、サンフランス講和条約締結のさい時の首相 吉田茂がアメリカ人にわかり易いように英語で演説をしようとしたところ英語が堪能な白州次郎が「日本語でやるべきだ、それが、日本民族の誇りだからだ」といって日本語でスピーチさせた話は有名だ。かつて卑弥呼の時代から500年経ってできた万葉集の解読が朝鮮語でできるような本がベストセラーとなって言語に対する歴史ロマンがひろがったものだが「万葉集は、朝鮮語では解明できない」という反論の本は、ベストセラーにならなかったから読んでないけれど、日本語は、流動的だから、大陸的な発想の原語では、解明には無理があるだろうと推察していたので後の反論の本のほうが正解なのだろう。言葉が、民族というのなら多民族の結集に言語は変化させないものだ。だから英語は、あまり、変化なく進んできている。日本語は、単一民族の特質か、侵略征服されたことがない歴史からか自分を取ってみても祖母が使っていた日本語と少し違うものを使っているし、親とも違う日本語を取り混ぜて使っている。ましてや、卑弥呼の時代となれば、どんだけ変化してきたことやら。それでも、外国語よりは、理解できるのだろうけど、音も意味もちがうだろう。でも、日本語だ。平仮名が平安時代といわれているからそれまでは、漢字表記だったのか。面白いことに奈良時代に使われていた日本語は、おおーとか いいーとか語尾をのばして話すのが特徴だったらしいから、先祖がえりというかこのまえまで、女子学生やなんかが話していた「わたしがー」とか言う言い方はまさしく倭人語の流れを汲む者だね。これが、民族の血なのかな。
コメント
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