「Touchez par au grisbi」Jean Gabinの痺れるようなフィルムノワール。ハリウッドのギャング映画と違って大人の哀愁というか気品というか質の良いスーツを着た落ち着いた気分になる映画。フランスのギャング映画ってなんか男の背中で語るようなyところがあって僕は好きだったね。金塊を強奪して部屋に帰ってくるワインの栓を開ける音、チーズを薄く切るナイフの動かし方。ブッキラボーな言い回しのセリフ。さりげない日常、老いの悲哀、見捨てない仲間への絆。そしてなによりハーモニカが奏でる「グリスビーのブルース」。秀逸だったねこの映画。フランスの原題は即物的だから「戦利品に触れるな」だけどさすが日本人だね。「現金(ゲンナマ)に手を出すな」という邦題で大ヒット。ジャンギャバンの戦後の代表作、リノヴァンチュラの出世作となった。ジャンヌモローも出てたね。ところが若かったダニエルコーシーが出てたなんて記憶にない。多分チョイ役だっただろうけど。そのダニエルコーシーが亡くなったって。90歳だったって。それがなんとコロナで死んだというからビックリ。「コロナに手を出すな」と言われてもなぁ。フランスも感染者が多いから。今日からだったっけフランスで自宅から半径100㎞の移動は自由っていうのは。フランス人ってロックダウン守ってたのかな?ロシアで感染者が多いのは国境付近で中国人が出たり入ったりを勝手に繰り返すからだと聞いた。東京は4月29日から中国人を完全にシャットアウトしたから感染者が減ったというネットのウワサ。やっぱり中国の元から断たなきゃダメってことかいな。と5月の空を見上げつつ頭の中はハーモニカのメロデイが流れる。孤独とダンディズム、男はこれだよね。
家にいたらセッちゃんから電話があって「来ユウかね」「どこへ?」「今日からやりゆうで」「緊急事態宣言やにやるかね」「やるやる」と絵画教室の再開を告げるファンファーレ。家から歩いて10分なので絵と道具を持ってヨッコラショと出かける。久しぶり感はある。2週間の自粛だっただけなのに可笑しなもんだね。教室に入るとほぼ全員来てる。みんなヒマに耐えかねてたんだね。一応入り口に消毒があってみんなマスクはしてるけど「おしゃべり」は変わらない。 <
絵を描きながらも孫がミルフイーユを作っただのマスクを縫っただのとコロナでの自粛生活の話題が続く。あんだけ話題と人の噂に事欠かない情報通のセッちゃんが自粛のせいで人との交流がなかったからか何一つ情報を持ってないことが可笑しかった。普段それだけ人と交流してたんだとビフォアコロナの暮らしぶりを思う。アフターコロナというかポストコロナというかこれからは生の情報は入りにくいんだからと、ふと、そんなこと思ったりして。人がコミュニケーションがとれない世界が出現するなんて誰が想像できたでしょうね。整理された情報しかないなんて冷めたステーキみたいだね。三人寄れば文殊の知恵というように人は寄って温もりを感じながらアイデアを出し合うんだよね。ソーシャルディスタンスは他人と他人の考えを疎外するからね。「太刀結ぶ剣の下こそ地獄なれ、一歩進めば、あとは極楽」で生きてきた「阿吽」の呼吸がその距離では取れないんだよね。さりとてコロナにやられるのも嫌だしね。どうしたもんかとこれから少し悩むのかな。まぁ、今日はみんなと絵が描けて良かったとしよう。

僕らが若い頃見てた映画が今では「クラシック」と言われるんだってね。1960年代、1970年代なんだけどなぁ。知らなかったなぁ。フランスの新聞見てたら「ベルモンド」が載っててね「ナニナニ?」とページを開けたら今パリではconfinementで楽しさを家庭に届けるということでベルモンドの「リオの男」とかリノヴァンチュラのなんとかとか60年代70年代の男が輝いていた時代の映画をテレビでやってるんだって。結構フランスの若者が憧れを持って観てるとのこと。いい傾向。あの時代の男たちはどことなくエレガンスがあったからね。それにしても「クラシック」とはなぁ。年を取ったもんだ。「リオの男」も「冒険者たち」も僕の中ではまだ現役なのに。クラシックっていうのは白黒でさフィルムに雨が降ってるような映画をいうのかと思ってたよ。ジャンギャバンの「現ナマに手を出すな」とか「ペペルモコ」とか「ヘッドライト」とかさ。これはこれで傑作なんだけど自分の中ではクラシックの範疇なんだ。60年、70年がクラシックと言われて、そうか自分たちも「クラシック」と言われるようになったのかと新しい発見をした気分。なんか気持ちだけで支えてた梁が折れたような、まぎれもなくクラシックだと開き直るような、複雑な心境。それでも自分の中ではまだ現役のドロンやベルモンドを真似てカッコいいジジイを演じてみるかと一人励ます。「年寄りは、ときおり空を見上げつつ」だ。元気出していこう。
山の畑でムベの花が咲きました。漢字では郁子と書くのでしょうか。アケビの一種だと思いますが「ここぶ」とか「こぶと」とか地方では呼んでますね。僕は呼び名にあまりなじみがないから「ムベ」と言ってます。アケビより野趣ですが万葉からあるとも聞きました。花を見たのは初めてです。アケビは上品な深紅の花が1輪咲くのですがムベの花はたわわです。
昨夜は月がとってもきれいでしたから「スーパームーン」かと思いきや「フラワームーン」と言うのだそうで。なんで英語なんでしょうとブツブツ。月と共に生きてきたのは日本人で西欧は太陽と生きてきた民族なんだからなぁ。月と言えば星、星と言えば、スター。僕らの時代のスターである「ブリジットバルドー」がまたまたオサガワセ。85歳になるバルドーは動物愛護家として活躍してるのだそうだがフランスの新聞によると「人種差別発言」で何とか島の裁判所に訴えられたってね。詳しくはフランス語だから例によって分からないがその島の住民が犬を食ってたらしいね。だから犬を守るべく立ち上がったのがバルドーなんだ。その時、書簡かなんかで「人食い、野蛮、退廃」とか言ったらしい。それで島民を侮辱した罪で召喚となったらしいよ。犬の為に体を張るなんてバルドー健在だね。彼女は人間より動物が好きだからね。おいらもどっちかと言うとそうだけど「野蛮人」って 言ってはいけないんだよな。必死だったんだろうけど。レイシズムには敏感だからね。社会は自分たちのことは棚に上げて他人を罰するのだから。多分裁判では勝てないだろう。でも、バルドーはバルドーらしくていいんじゃないかな。自然派だから顔なんかグチャグチャなんだけどやぱりチャーミングだね。スターはどこまでもスターなんだ。

今日から高知は休業要請解除といいますか解除って言うのもヘンですけど要請ですからね。それでも不確かながらも「やれやれ」感はありますね。でもまだ国の緊急事態宣言は延長ですからself-controlヨロシクなんですけど。「俺の目を見ろ何にも言うな」じゃないですけどナント「あやふや」な指示でしょう。これって日本人特有だから高知にいる外国の人には分からないかもしれない。店は開いてもいいよ、買いに行くな。と言われてもなぁ。フランスのように「自宅から半径100㎞は移動自由」と言われた方がいいかといえば、こちらも100㎞が分からないからどっちもどっちかな。不確かといえばコロナの症状もいろいろわかってきたね。まぁコロナだろうということで。発熱、息苦しさ、だるさ、咳、下痢、匂いがない、味覚異常、発疹、結膜炎。脳梗塞、骨髄炎、心筋梗塞、壊疽とかの症状が挙げられてる。どこでどうウイルスが関わっているのかまだはっきり分かってない症状もあるってことで情報も錯綜してますがだんだんと正体が見えてきたような期待感もあります。敵を知らないと勝てませんからね。今日でしたっけレムデシビル承認というのは。この薬も不確かなところはあるんですがやってみないと始まらないかな。この閉塞感を打ち破るためにも。
薔薇が咲いている。木瓜薔薇もナニワノイバラもこの世の春とばかり。Rosed Mayとはこのことか。子供の頃よく学校で歌ったのが「童はみたーり野中のばーら」だった。ウェルナーとシューベルトの曲があったね。ゆったりしたのがヴェルナーでこの方をよく歌ったなぁ。オレたちの時代は「バラが咲いた」がヒットしたんだけどそれじゃなくて「野ばら」を口ずさむ。やっぱり小学校唱歌の底力かな。
童は見たり 野中の薔薇 清らに咲ける その色 愛でつ
飽かずにながむ
紅(くれない)におう 野中の薔薇
手折りてゆかん 野中の薔薇 手折らば手折れ 思い出ぐさに
君を刺さん
紅(くれない)におう 野中の薔薇
童は折りぬ 野中の薔薇 折られてあわれ 清らの色香
永久にあせぬ
紅(くれない)におう 野中の薔薇
こんな文語体の詩を歌ってたのですよ童(わらべ)が。覚えておいてもらうためにキミを刺さんだなんて「殺し文句」だよね。もちろん当時はわけなんか分からず美しいメロディを歌っていただけですけどね。教育水準高すぎと思いませんか。早く大人になろうとちょっと背伸びするのが美しい時代でしたからね。・・・。どこではぐれたんでしょう?唱歌を歌わなくなってからでしょうかね。夢と抒情に溢れてたあの頃がバラの香りと共に懐かしさを運んできますね。
童は見たり 野中の薔薇 清らに咲ける その色 愛でつ
飽かずにながむ
紅(くれない)におう 野中の薔薇
手折りてゆかん 野中の薔薇 手折らば手折れ 思い出ぐさに
君を刺さん
紅(くれない)におう 野中の薔薇
童は折りぬ 野中の薔薇 折られてあわれ 清らの色香
永久にあせぬ
紅(くれない)におう 野中の薔薇
こんな文語体の詩を歌ってたのですよ童(わらべ)が。覚えておいてもらうためにキミを刺さんだなんて「殺し文句」だよね。もちろん当時はわけなんか分からず美しいメロディを歌っていただけですけどね。教育水準高すぎと思いませんか。早く大人になろうとちょっと背伸びするのが美しい時代でしたからね。・・・。どこではぐれたんでしょう?唱歌を歌わなくなってからでしょうかね。夢と抒情に溢れてたあの頃がバラの香りと共に懐かしさを運んできますね。
今日は「こどもの日」。「コロナの日」ではないのだが子供の姿は見えない。赤痢が流行ろうが、はしかになろうがそんなに疫病から守られてなかった自分たちの「こどもの日」を振り返って思い出してみる。亡くなったオヤジに1回だけ遊園地に連れて行ってもらったことと5月4日が普通の授業で「鯉のぼり」の歌と「背くらべ」の歌を何回も歌わされて途中で飽きて教室の窓の外を見ながら「明日は休みか」と思ってた記憶しかない。もちろん昔のことだから「柏餅」とか「菖蒲湯」とか「ふらふ(のぼり)」とかあったんだろうけど特別な感覚はなかったなぁ。その頃と言えば子供はオヤジのげんこつの下にいたから「自分たちの権利だ、こどもの日だ」って意識はなかった。「フ~ン」ってなもんだ。あの頃からお上の言うことは何でも「フ~ン」と聞くようになったのかな?そう言えば昨日「緊急事態宣言」が延長されたってね。死活問題だって騒いでいるのに。給料が何一つ減らされることなくコロナ手当までついてる人たちが収入の道を断たれた人たちに向けて「延長」って言うんだ。「延長」はいいよ補償ができてればね。オレたちも延長だからさらに10万円貰えるのかな?と素朴な疑問。ここらへんがハッキリしないんだよな。西村という人もアベちゃんも。いくら「欲しがりません勝つまでは」が日本人の特質だと言われてもなぁ。こればっかりは「フ~ン」で済ましてはいけないと思うんだけど。屋根より高ければ子供も育てられる鯉のぼりと違って低い屋根の下で無収入でいたなら子供も育てられないよとブツブツ。
川の絵を描いた。特に名所でもなく普段よく見る川だ。道路から見える川だ。時たま下りて河原に行くこともあるがわざわざ感がある。本流から離れた支流だから誰も気に留めない。本当はきれいな川なのにと写真を撮る。なんだか自分だけの川を撮った気がする。ここが僕のアウトドアステージ。太陽の下の隠れ家だ。というほど大げさなものではないけど。畑に行く、買い物をする、絵を描く、登山する以外のときは川っプチにいることが多い。年寄りはヒマだからね。切羽詰まった用事ってないから。
川を見ながらお茶なんかして鳥の鳴き声、風のささやきなんか聞いていると世の中のこと大したことのように思えなくなってくる。ここではマスクもないし、ソーシャルディスタンスもない。手に草の汁がついても洗わないし顔も触る。自由ってこのことなのかとふと妄想にふける。いやいや、ベアにしろエドにしろサヴァイヴァルの達人たちは家に無事に戻ることを願ってアウトドアに出かけるんだからと苦笑。昨日咲いたアミノひなげしの花、雨に打たれてその日のうちに散った。諸行無常かな。

将軍様が現れたってね20日間ぶりに。影武者かCGかと思うよね。すぐバレル嘘を平気で通す国だからね。彼をここ数日追ってた日本の大学で教えている韓国人の教授も「それを言うと迷宮入りするから」と言ってたね。アメリカナンカはもう分かっているんだろうね。政治的な判断で行くんだろうな。もう一つウガッタ見方をすればこのお隠れは将軍様の真の敵を炙り出すということかいな。自分が姿を消すと誰が誰を担ぐのかと見定めようと。ノコノコと金平日って彼の叔父さんが出て来てたね。コイツの粛清があったらこの件はこの件だったということだが今回のことは影武者でギリギリまで引っ張るという金与正の計画かなという線が消えないね。影武者は目が優しいんだよ。体はちょっと太めでさ。と憶測が憶測を呼ぶからさすが将軍様だね。ネットの「金正恩・脂肪説」には笑っちまったけど。自粛自粛でみんな退屈してコロナの話題なんか聞きたくもない時に脂肪たっぷりの話題を提供してくれてありがたいとネットの住民も言ってるだろうな。この話題、当分燃え上がるだろうなアブラだけに。
Frida Kahloがlockdownの中で人気なんだってね。彼女の短い人生の中で病気やらケガやらでほとんどベッドの上で暮らしていたんだけどその「閉じ込められた空間」から芸術へと飛翔したからだって。僕は前からフリーダ・カーロは好きなんだけど「閉じ込められた」とは思っていなかった。それくらいフリーダの絵はインパクトが強かったから。伝記も読んだ。もう昔のことだからほとんど覚えてないけどすさまじい人生を送った人と言う記憶はある。美人なんだけど「一本眉」が特徴でさ、まるで池波正太郎の小説に出てきそうだなぁと自画像を見て思った。なんでも子供の頃ポリオにかかって片方の足が少し短かったということだったけど若いころから絵が上手かったってね。夫が有名な壁画描き立だったっけ。その夫と出会ってから絵が変わっていくんだ。エログロというか怨念というか「正直」というかとってもシュールな雰囲気にそれをフリーダはこう言ってる。「想像で描いたんじゃないわ。リアルを描いたのよ」と。色がいいんだよなぁ、メキシカンカラーなんだけど中間色で。じわっとさせるような色で心に突き刺さる狂気なメッセージ。ベッドの上で何を思い何を見てたんでしょうね。Feet,what do I need you for when I have wings to fly?(足よ、私は翼を持ってるのにどうしてあなたが必要?)ってフリーダの言葉lockdownの中サンフランシスコの美術館のディレクターのインスピレーションマントラになってるって。芸術という翼は外出を禁止しない。想像力を羽ばたかせるのは今だと教えてくれている。僕もマントラにしよう。フリーダマントラっていいかも。