ブログ管理人がチームAのメンバーのMCを聞いて、本人達、どれほど一般人から離れてしまっているか分かってるのかな?という感想を書いている。
私は、ブログ管理人とは、全く正反対の感想を持っている。
AKB48は、芸能人にしては、一般人に近すぎるのである。それがファンへのアピールになっているし、一方芸能人としては弱点でもある。だから素晴らしいのだとも言い切れないし、だから駄目なのだとも言えない。しかし、ブログ管理人の
「この人達、もう普通の生活に戻れませんね」
というコメントに対しては、そんなアコギな働かせ方は、よくも悪くもさせていないし、(正確に言うと、そんな働かせ方をさせるほど、芸能人として売れていないし)
「背水の陣、と言う人生を垣間見た公演でした」
というコメントに対しては、背水の陣(失敗したら人生おしまい)と感じさせる凄みのある場面には遭遇したことはない。
ブログ管理人の「一般人から離れてしまっているか」を、社会的常識があるか否かと定義する。
どの組織でも、構成員の社会的常識の有無には、個人差があるので、個人の発言より組織を論じると議論が極端に触れるので、AKB48という組織の平均像が、(「芸能人」のように)社会的常識に欠けているかを相対的に論じたい。
つまり、小林香菜の発言から、AKB48は言葉を知らないと論じたり、佐藤夏希が早稲田大学に合格したから、あるいは早野薫の発言から、AKB48は勉強ができると論じるようなことは避ける。
(「芸能人」のように)と括弧書きにしたのは、そもそも全ての芸能人が社会的常識に欠けるかは論議の余地があるのだが、仕事の性格上、社会的常識を得るチャンスを与えられなかった芸能人を、「芸能人」と記載して論をすすめる。
社会的常識を得るチャンスを与えられた一般人でありながら、社会的常識のない人もいるが、そういう人は一般人の定義に含めて議論する。
私が概念としてもっている、社会的常識の欠けた「一般人から離れてしまった」芸能人像とは、「人を人と思う能力を失ってしまった」芸能人である。
芸能人は、人から美しいと言われることで、ますます美しくなるし、
人からビッグだと言われることで、存在感が増していくし、
人からちやほやされることで、輝きを増していくものなのである。
つまり、自分は他人とは違う、存在であることを刷り込まれることで、ファンへのアピールがさらに増し、
結果として、自分を中心に世界は動いており、人を人とは思えなくなってくるケースも出てくる。
これが極端に進むと破綻するおそれもあるのだが、常識は失っても破綻せずに踏みとどまるかは個人差がある。美しい、ビッグだと言われ、ちやほやされ続けて、それでも社会的常識を持ち続けるのは、よほどの素質と強い意志がないと難しいと想像する。これが、社会的常識を得るチャンスを与えられなかった「芸能人」のイメージである。
では、AKB48は、「芸能人」なのだろうか。
私にはそうは見えない。彼女たちは学校に通い、職場には電車で通い (急がないと間に合わない時はタクシーを使うとMCでは言っていた)、仕事としては芸能人という集合に属するが、その中で「芸能人」からは遠く、一般人に近い。
そもそも、「芸能人」であれば、一人で、電車に乗ったり、タクシーに乗ることはできない というのが私の「芸能人」に対するイメージなのだ。
では、過去のアイドルは、「芸能人」だったのだろうか。多くはそうであっただろう。さらに、
破綻するほど、働かされたアイドル
破綻するほど、ちやほやされたアイドル
も中にはいたであろう。例えば、天地真理や、ピンクレディは、人気絶頂の時は、テレビを見ているだけで、すれすれであるという凄みを感じた。彼女たちは人間なのだから、仕事休ませて、寝かしてあげて欲しいと思わせるほどの凄みである。
84年にデビューした岡田有希子が自殺した時に、芸能関係の仕事をしていた女性の友人から、「彼女は、あまりにちやほやされて、自分自身を失ったのではないか。芸能界とはそうやってスターを作りあげ、金儲けの仕組みに組み込みこわさがあるから。」と言われた。
岡田有希子があまりにも、常識人・一般人で、芸能界という仕事の仕組みについていけなくなったという視点は、新鮮だったので、はっきり記憶に残っている。
岡田有希子こそ、ブログ管理人が表現した「背水の陣、と言う人生を垣間見た」アイドルなのだろうが、本人のことを考えると、戦いから降りて、常識人・一般人に戻ることができていればよかったに、と思う。おそらく、戦いからは降りられない仕組みの中で、蜘蛛の糸にからんで逃げ出せない蝶のような精神状態にあったのだろう。
AKB48には、このような芸能界の暗闇を感じることができない。
つまり、ファンの立場からすると、安心して見ることができるアイドルでもあり、一般人であるファンに近く、「芸能人」ではないところが魅力なのである。
その一方、美空ひばりのようなビッグな芸能人は、この中からは出ないだろうなあと思う。
美空ひばりのようなビッグな芸能人を生み出すには、芸能界の暗闇に入り込んでいく必要があるのに、あまりに常識人・一般人に近く、「芸能人」からは遠いところにAKB48の弱点があるとも言えるのである。
私は、ブログ管理人を個人的に知っているので、何故彼がMCを聞いて「一般人から離れてしまっている、普通の生活には戻れない、背水の陣」と感じたかも、分かるのである。
彼の一般人の中での位置は、あまりに常識人の中心にあり、ちょっと自分の価値観とずれたことを聞くとおかしいと感じてしまう。
私は一般人であるが、ポジションとしては、かなり常識からはずれたところに位置している(正確に言うと、本質的にはいちゃっているのだが、社会生活を営むための手段として常識的な行動をとることができるので、周縁から常識人に少し近づいたところに位置が戻っている)ので、人というのは(職業が芸能人であろうとなかろうと)、ぴったし常識の中心にいる人は少数で、中心からずれている方が多数だと思っている。
なので、私なら、メンバーのMCの内容が相当に変でも、 「今時の高校生はこんなのか」
と思うだけで、AKB48に一般人からかけ離れてしまった「芸能人」の姿は見出すことはできない。
芸能界で働いているというハンディキャップはあるので、一般人の平均よりは常識がずれた軸に位置しているだろう。
しかし、「かけ離れた」ところにいるとは、思えない。
例えば、マネージャーとの人間関係すら構築できなかったと(あくまでマスコミ報道情報で、真実かどうかはわからないが)言われる 中森明菜 や 南野陽子 のような、「かけ離れた」子がいるようには見えない。
KC
追伸
言葉を選んで書いたので、たいへん理屈っぽく、読みにくい文章になってしまったことをお詫びします。
尚、ブログ管理人が過剰反応したチームAのMC人間の食べ物で無い物を食べる話は、ネタ(つまり嘘)だと思う。
私は、ブログ管理人とは、全く正反対の感想を持っている。
AKB48は、芸能人にしては、一般人に近すぎるのである。それがファンへのアピールになっているし、一方芸能人としては弱点でもある。だから素晴らしいのだとも言い切れないし、だから駄目なのだとも言えない。しかし、ブログ管理人の
「この人達、もう普通の生活に戻れませんね」
というコメントに対しては、そんなアコギな働かせ方は、よくも悪くもさせていないし、(正確に言うと、そんな働かせ方をさせるほど、芸能人として売れていないし)
「背水の陣、と言う人生を垣間見た公演でした」
というコメントに対しては、背水の陣(失敗したら人生おしまい)と感じさせる凄みのある場面には遭遇したことはない。
ブログ管理人の「一般人から離れてしまっているか」を、社会的常識があるか否かと定義する。
どの組織でも、構成員の社会的常識の有無には、個人差があるので、個人の発言より組織を論じると議論が極端に触れるので、AKB48という組織の平均像が、(「芸能人」のように)社会的常識に欠けているかを相対的に論じたい。
つまり、小林香菜の発言から、AKB48は言葉を知らないと論じたり、佐藤夏希が早稲田大学に合格したから、あるいは早野薫の発言から、AKB48は勉強ができると論じるようなことは避ける。
(「芸能人」のように)と括弧書きにしたのは、そもそも全ての芸能人が社会的常識に欠けるかは論議の余地があるのだが、仕事の性格上、社会的常識を得るチャンスを与えられなかった芸能人を、「芸能人」と記載して論をすすめる。
社会的常識を得るチャンスを与えられた一般人でありながら、社会的常識のない人もいるが、そういう人は一般人の定義に含めて議論する。
私が概念としてもっている、社会的常識の欠けた「一般人から離れてしまった」芸能人像とは、「人を人と思う能力を失ってしまった」芸能人である。
芸能人は、人から美しいと言われることで、ますます美しくなるし、
人からビッグだと言われることで、存在感が増していくし、
人からちやほやされることで、輝きを増していくものなのである。
つまり、自分は他人とは違う、存在であることを刷り込まれることで、ファンへのアピールがさらに増し、
結果として、自分を中心に世界は動いており、人を人とは思えなくなってくるケースも出てくる。
これが極端に進むと破綻するおそれもあるのだが、常識は失っても破綻せずに踏みとどまるかは個人差がある。美しい、ビッグだと言われ、ちやほやされ続けて、それでも社会的常識を持ち続けるのは、よほどの素質と強い意志がないと難しいと想像する。これが、社会的常識を得るチャンスを与えられなかった「芸能人」のイメージである。
では、AKB48は、「芸能人」なのだろうか。
私にはそうは見えない。彼女たちは学校に通い、職場には電車で通い (急がないと間に合わない時はタクシーを使うとMCでは言っていた)、仕事としては芸能人という集合に属するが、その中で「芸能人」からは遠く、一般人に近い。
そもそも、「芸能人」であれば、一人で、電車に乗ったり、タクシーに乗ることはできない というのが私の「芸能人」に対するイメージなのだ。
では、過去のアイドルは、「芸能人」だったのだろうか。多くはそうであっただろう。さらに、
破綻するほど、働かされたアイドル
破綻するほど、ちやほやされたアイドル
も中にはいたであろう。例えば、天地真理や、ピンクレディは、人気絶頂の時は、テレビを見ているだけで、すれすれであるという凄みを感じた。彼女たちは人間なのだから、仕事休ませて、寝かしてあげて欲しいと思わせるほどの凄みである。
84年にデビューした岡田有希子が自殺した時に、芸能関係の仕事をしていた女性の友人から、「彼女は、あまりにちやほやされて、自分自身を失ったのではないか。芸能界とはそうやってスターを作りあげ、金儲けの仕組みに組み込みこわさがあるから。」と言われた。
岡田有希子があまりにも、常識人・一般人で、芸能界という仕事の仕組みについていけなくなったという視点は、新鮮だったので、はっきり記憶に残っている。
岡田有希子こそ、ブログ管理人が表現した「背水の陣、と言う人生を垣間見た」アイドルなのだろうが、本人のことを考えると、戦いから降りて、常識人・一般人に戻ることができていればよかったに、と思う。おそらく、戦いからは降りられない仕組みの中で、蜘蛛の糸にからんで逃げ出せない蝶のような精神状態にあったのだろう。
AKB48には、このような芸能界の暗闇を感じることができない。
つまり、ファンの立場からすると、安心して見ることができるアイドルでもあり、一般人であるファンに近く、「芸能人」ではないところが魅力なのである。
その一方、美空ひばりのようなビッグな芸能人は、この中からは出ないだろうなあと思う。
美空ひばりのようなビッグな芸能人を生み出すには、芸能界の暗闇に入り込んでいく必要があるのに、あまりに常識人・一般人に近く、「芸能人」からは遠いところにAKB48の弱点があるとも言えるのである。
私は、ブログ管理人を個人的に知っているので、何故彼がMCを聞いて「一般人から離れてしまっている、普通の生活には戻れない、背水の陣」と感じたかも、分かるのである。
彼の一般人の中での位置は、あまりに常識人の中心にあり、ちょっと自分の価値観とずれたことを聞くとおかしいと感じてしまう。
私は一般人であるが、ポジションとしては、かなり常識からはずれたところに位置している(正確に言うと、本質的にはいちゃっているのだが、社会生活を営むための手段として常識的な行動をとることができるので、周縁から常識人に少し近づいたところに位置が戻っている)ので、人というのは(職業が芸能人であろうとなかろうと)、ぴったし常識の中心にいる人は少数で、中心からずれている方が多数だと思っている。
なので、私なら、メンバーのMCの内容が相当に変でも、 「今時の高校生はこんなのか」
と思うだけで、AKB48に一般人からかけ離れてしまった「芸能人」の姿は見出すことはできない。
芸能界で働いているというハンディキャップはあるので、一般人の平均よりは常識がずれた軸に位置しているだろう。
しかし、「かけ離れた」ところにいるとは、思えない。
例えば、マネージャーとの人間関係すら構築できなかったと(あくまでマスコミ報道情報で、真実かどうかはわからないが)言われる 中森明菜 や 南野陽子 のような、「かけ離れた」子がいるようには見えない。
KC
追伸
言葉を選んで書いたので、たいへん理屈っぽく、読みにくい文章になってしまったことをお詫びします。
尚、ブログ管理人が過剰反応したチームAのMC人間の食べ物で無い物を食べる話は、ネタ(つまり嘘)だと思う。