AKB48 チームBのファンより

鈴木紫帆里さんを中心にAKB48 チームB について語るサイトです。

指原莉乃 AKBになる3つのポイント(総選挙分析ライター)

2013-10-18 22:25:46 | 分析系 メンバー
指原莉乃 AKBになる3つのポイント(総選挙分析ライター)


10月14日(月)の「笑っていいとも」にレギュラー出演している指原が、会場に呼んだ小学生を相手に「AKBになる方法」という授業を行った。指原が語ったAKBになるためのポイントは以下の3つ。

1. 歌とダンスは練習する必要はない
「私がアイドルファンであったときに感じたことは踊れない子のほうがなんか可愛い。なんか応援したくなる。逆にアイドルのファンはおじさんが多い。おじさんはできない子のほうが可愛い。「えっ、全然ダメじゃん」ということでうれしくなったりするもの。だから、へたくそでも一生懸命頑張っている姿にみんなきっと惹かれると思う。」

2. 人見知りをなくすこと
「握手会があるので人の目をしっかり見て話さないとファンの人は「どこ見ているの?」みたいになる。指原も昔すごい人見知りでコンサートの時、人と目を合わせるのが怖くてずっと上を向いていた。それで、全然人気が出なくて、あらためて人と目を合わせることができて、やっと今元気に活動が出来ている。」

3. 順位付けされることになれる
「すごく大事。AKBの総選挙は超過酷。自分の順位をテレビでさらされる。順位をつけられてつらいことです。今のうちから運動会などで順位付けされても慣れたりとか、頭がよくなくて順位付けされても頑張ることが大事です。」
指原莉乃 笑っていいとも131014映像


指原が語った3つのポインの中で、よく議論になるのはアイドルにとっての「歌とダンス」。

以前、こちらのブログで高橋みなみ、小嶋陽菜、峯岸みなみのno3bの3人がラジオの番組でこれと似たような議論をしており、アイドルの振り付けとダンスの踊り方は必ずしも合っていないと教えられたことに加えて、歌が下手だと楽しくないとの理由から「歌」と「ダンス」どちらかをとるとしたら「歌」だ、と3人は言っていたということを紹介した。
『ダンスの出来が60点でもno3bはアイドル』

最近AKBを卒業した板野友美も「私はダンスが得意だったからかっこ良く踊ろうって思っていたら、ダンスを教えてくださる夏まゆみ先生から、「アイドルのダンスは、そんなに激しく踊らなくていいから」って言われてしまって。正直ダンスにダメ出しされてしまった」と述べている。
「magazineworld 板野友美卒業」

つまり初期メンは、AKB創設期のころダンスを指導していた夏まゆみ先生からアイドルにとってダンスは重要ではない?との教育を受けていたこともあり、その後入って来たメンバーもアイドルにとってダンスは重要ではないと言われていたかもしれない。

つまり、5期生の指原もひょっとしたらその話を誰かから聞いていたかもしれない。そのためダンスは練習しなくてもよいと思ったかも。

歌については、天性の才能ということもあり、元々歌が下手なひとが上手になったという話は筆者も聞いたことはないので、練習をしても歌が上手になるのは限界がある。そんなところから「歌とダンスは練習する必要はない」と言ったのか。

AKBになりたいひと(子供向け)には「歌とダンスは練習する必要はない」と言っていったんハードルは下げたものの、「歌もダンスもへた」と自ら言っていた指原がすでにそこそこなところを見せているので、実は指原もアイドル(AKB48のメンバー)になり、人気が出るにつれて陰では「歌もダンス」も相当練習しているのだろうと思っている。
指原生歌『リリー&さしこ 恋チュン』映像
指原ダンス DearJ映像
指原DearJ練習映像


以上

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ビーチバレーはスポーツでない(と思っていた)し、アイドルは歌手でもダンサーでもない(ナッキー)

2013-10-18 00:00:38 | アイドル論
ビーチバレーはスポーツでない(と思っていた)し、アイドルは歌手でもダンサーでもない(ナッキー)

曽野綾子のAKB批判(ナッキー)では、
AKB48のようなアイドルらしい芸のつたなさや仕種を好むのは、1970年代からの、日本の伝統であり、これは素晴らしい日本文化であると論じた。

曽野綾子のAKB批判を書いた理由(ナッキー)では、
一定レベル以上のダンス能力がないと、アイドルとして通用しないと、「成熟していないことで成立するアイドルという文化が、平気で存在」するのが難しくなりつつあるところに危機感があると論じた。

本日は、曽野綾子氏のビーチバレー批判に対する感想を書く。まず曽野氏の論点を要約する。
論点1:私はバレーも大好きだけど、あのビーチウェアで観客を前にビーチバレーをさせるのには、嫌らしい意図があると思っている。
論点2:つまりセックスをスポーツに加味して売り物にしているのだ。その淫(みだ)らな意図を意識する。
論点3:もしそうでないというなら、服装を替えればいい。つまり私は自分の娘や孫にだけは、あの服装の故にビーチバレーだけはさせたくない。

それぞれの論点について、私の感想:
論点1:ビーチバレーとは、スポーツではなく、女性の体を観客に見せるのが目的なので、「最初から嫌らしい意図がある。」と私は理解していたので、何故曽野氏がその点を批判するのかが理解できなかった。
論点2:曽野綾子氏の文章を読んで、ビーチバレーがスポーツであることを初めて知った。スポーツにセックスという付加価値をつけて売り物にすることを批判するのは、スポーツファン(バレーファン)にとっては、当然生じる感情であることが分かった。納得した。
論点3:「もうしそうでないというのなら」という曽野氏の問いかけに対して、ビーチバレーの運営側は、建前では「そうではありません」と答えるだろう。それは批判されたくないから。本音では「当然そうです」と思っているに違いない。本音を語ると商売に悪影響なので建前を貫くだけのこと。
(曽野氏が)嫌らしい(と感じる)あのウェアでなければ、ビーチバレーはスポーツとして(商売として)成立しない。これが現実なのではないかと推察する。

私はビーチバレーが「スポーツ」であるとは知らなかった。
これまで、
ビーチバレーは、「女性の美しい体を見せることが目的」で、バレーというスポーツは付け足し(付加価値・手段)だと思っていた。
それを、
曽野綾子氏は、ビーチバレーはスポーツであるのに(スポーツが目的なのに)、女性の美しい体を見せるという付加価値をつけるのはけしからん、と論じている。

曽野氏と私の論理・思考回路は、正反対である。
同じ論理・思考回路が、アイドルでも生じている。

私は、アイドルの本質は、若い女性の輝きだと、とらえている。
アイドルとは、若い女性が輝きを見せることが目的で、歌を歌うことは、付け足し(付加価値)にすぎない。
アイドルとは、若い女性が輝きを見せることが目的で、ダンスを踊ることは、付け足し(付加価値)にすぎない。
アイドルとは、若い女性が輝きを見せることが目的で、映画・芝居での演技は、付け足し(付加価値)にすぎない。

よって、歌が下手でも、ダンスが下手でも、演技が下手でも、アイドルとして輝いていれば価値があるし、
歌が上手でも、ダンスが上手でも、演技が上手でも、アイドルとして輝いていなければ、価値がない


一方、曽野綾子氏の論理・思考回路は、(同氏の文章を要約すると)
論点1:AKB48は、歌手であり、ダンサーであるにもかかわらず、歌も踊りも素人に近い。
論点2:AKB48は、歌手であり、ダンサーであるのだから、芸は達者であるべきだ。
論点3:AKB48は、若さという素材だけで金になるという計算が見え見えで、企画者は利口な人であるが、動機が不純である。

「あなた、動機が不純なんだわ」とは、昔のアイドルの曲で聴いたことがある歌詞だが、
ときめき研究をライフワークにしていないナッキーでは、アイドル歌手と曲名がぱっと思い浮かばない。

私の思考回路は、曽野綾子氏とは反対なので、
論点1:AKB48はアイドルではあるが、歌手なのかは疑問であるし、ダンサーでないのは間違いない。よって、(曽野氏のような目の肥えた方に)歌も踊りも素人に近いと見えるのは、当然である。
論点2:AKB48は、歌手でもないし、ダンサーでない、単なるアイドルなのだから、(曽野氏のような目の肥えた方に)達者と評価される芸を見せることは、当然できない。

論点3:AKB48は、アイドルだから、若さという素材だけを観客に見せている。
これが金になるというのは、見え見えの計算というよりは、長年同じ商売が続いているだけのこと。
AKB48の企画者は(曽野綾子氏の定義によると)動機が不純である。
しかし、アイドルというビジネスモデルを開拓したわけではないので、不純な動機で商売していることを、「利口である」というのは褒めすぎである。
AKB48の企画者が利口な点は、「若さという素材をどうように売るかという売り方」が新しかったからである。「若さという素材だけで金になること」を発見したからではないから、曽野氏の論は論理的ではない。

曽野綾子氏のアイドル批判の論理は正しいので、AKB48という特定のアイドルを批判するのではなく、1971年からの歴史上の全てのアイドル、およびそのビジネスの形態を批判すれば、論理の間違いが生じなかった。

ナッキーの論理に話を戻すと、
歌、ダンス、演技は、アイドルにとって本質ではなく、付け足し(付加価値)にすぎないのは、論理的には、そのとおり。
しかし、ダンスはともかく(アイドルにダンスという付加価値は不要、必要悪だと思っている)
歌あるいは演技を通してしか、輝くことができないのが、アイドル
ではないかと思う。

「アイドルは歌手ではない」と定義することは、昔だったら論理矛盾だったが、口パクが増えた現在は、受け入れやすい。
生歌のアイドルもいるので、あるいは口パク生歌併用アイドルもいるので、緻密に定義すると、「アイドルは歌を聴かせるが、歌そのものを目的としていない、芸術の一形態である」

もちろん、
女体を見せることを目的にした(と私は誤解していた)ビーチバレーを、スポーツとして鑑賞し楽しむことはできるし、
歌を聴かせることを目的にしていない(と私が勝手に定義した)アイドルの歌唱を鑑賞して楽しむことができる。
作り手の意図と、鑑賞者の楽しみ方は、一致しなくてよい。

アイドルという文化は、「達者でない芸なのに、ときめいてしまう不思議を味わう」文化なのである

アイドルの目的は、「鑑賞者に、ときめきを与える」ことで、歌うことは手段でしかない。
「下手な歌唱が、ときめきを与える」ことは頻発するので、アイドルが歌手であるとは、論理矛盾
だ。

ナッキー
コメント (5)
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