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てらまち・ねっと



 8月14日の「安倍70年談話」、15日の「政府主催の戦没者追悼式」。
 ここでの安倍氏の発言などと、その評や対比などをブログに記録してきた。
  ◆8月15日/安倍談話 引用・間接で使用/ドイツが許されて日本が許されない本当の理由
  ◆8月16日/戦没者追悼式/安倍首相、アジアへの加害責任に触れず/天皇「深い反省」、異例の言葉
  ◆8月17日/「これ以上の謝罪は不要」としたが  被害者が受け入れなければ、謝罪は終わらない(米・大学・専門家)

 今日18日は、各紙の社説などを記録。
 それとは別に、ちょうど14.15日の数日前に当たる8月11日の毎日新聞に、社会学者・上野千鶴子さんが「政治を必ず変える民意の熱気」と書いている。内容が、上記比較と結果的に見事に呼応している風なの今日のブログに末に残す。
 その中から
 ★《日本国憲法は誕生してまもなくから逆風にさらされてきた。・・・自由民主党の党是は、当初から「憲法改正」。その正統を受け継ぐと自任する安倍総理は、結党以来の宿願の達成が自分の歴史的使命だと感じているようだ。・・・・立憲主義のもとでは、憲法遵守(じゅんしゅ)義務を持つのは天皇以下、内閣、国会議員、公務員等であるが、今や違憲内閣、違憲国会を持つ日本では、天皇と皇后が最大の憲法遵守者かもしれない。》
 ◎ 上野千鶴子 on Twitter: "毎月書いてます。今月は憲法のはなし

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 (関連)◆8月15日ブログ⇒ 安倍談話 引用・間接で使用/村山氏「談話引き継がれず」/ドイツが許されて日本が許されない本当の理由
 ◆8月16日ブログ⇒ ◆戦没者追悼式/安倍首相、アジアへの加害責任に触れず/天皇「深い反省」、異例の言葉、昨年までは定型
 ◆8月17日ブログ⇒ ◆「これ以上の謝罪は不要」としたが  被害者が受け入れなければ、謝罪は終わらない(米・大学・専門家)


●社説:戦後70年の安倍談話―何のために出したのか 
  2015年8月15日 朝日新聞
 いったい何のための、誰のための談話なのか。

 安倍首相の談話は、戦後70年の歴史総括として、極めて不十分な内容だった。

 侵略や植民地支配。反省とおわび。安倍談話には確かに、国際的にも注目されたいくつかのキーワードは盛り込まれた。

 しかし、日本が侵略し、植民地支配をしたという主語はぼかされた。反省やおわびは歴代内閣が表明したとして間接的に触れられた。

 この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった。改めて強くそう思う。

■「村山」以前に後退
 談話全体を通じて感じられるのは、自らや支持者の歴史観と、事実の重みとの折り合いに苦心した妥協の産物であるということだ。

 日本政府の歴史認識として定着してきた戦後50年の村山談話の最大の特徴は、かつての日本の行為を侵略だと認め、その反省とアジアの諸国民へのおわびを、率直に語ったことだ。

 一方、安倍談話で侵略に言及したのは次のくだりだ。

 「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」

 それ自体、もちろん間違いではない。しかし、首相自身が引き継ぐという村山談話の内容から明らかに後退している。

 日本の大陸への侵略については、首相の私的懇談会も報告書に明記していた。侵略とは言わなくても「侵略的事実を否定できない」などと認めてきた村山談話以前の自民党首相の表現からも後退している。

 おわびについても同様だ。

 首相は「私たちの子や孫に、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と述べた。

 確かに、国民の中にはいつまでわび続ければよいのかという感情がある。他方、中国や韓国が謝罪を求め続けることにもわけがある。

 政府として反省や謝罪を示しても、閣僚らがそれを疑わせる発言を繰り返す。靖国神社に首相らが参拝する。信頼を損ねる原因を日本から作ってきた。

■目を疑う迷走ぶり
 謝罪を続けたくないなら、国際社会から偏った歴史認識をもっていると疑われている安倍氏がここで潔く謝罪し、国民とアジア諸国民との間に横たわる負の連鎖を断ち切る――。こんな決断はできなかったのか。

 それにしても、談話発表に至る過程で見せつけられたのは、目を疑うような政権の二転三転ぶりだった。

 安倍氏は首相に再登板した直後から「21世紀にふさわしい未来志向の談話を発表したい」と表明。村山談話の歴史認識を塗り替える狙いを示唆してきた。

 そんな首相の姿勢に中国や韓国だけでなく、米国も懸念を深め、首相はいったんは閣議決定せずに個人的談話の色彩を強めることに傾く。

 それでは公式な政府見解にならないと反発した首相側近や、公明党からも異論が出て、再び閣議決定する方針に。節目の談話の扱いに全くふさわしくない悲惨な迷走ぶりである。

 この間、国内のみならず欧米の学者も過ちの「偏見なき清算」を呼びかけた。世論調査でも過半数が「侵略」などを盛り込むべきだとの民意を示した。

 そもそも閣議決定をしようがしまいが、首相の談話が「個人的な談話」で済むはずがない。日本国民の総意を踏まえた歴史認識だと国際社会で受け取られることは避けられない。

 それを私物化しようとした迷走の果てに、侵略の責任も、おわびの意思もあいまいな談話を出す体たらくである。

■政治の本末転倒
 国会での数の力を背景に強引に押し通そうとしても、多くの国民と国際社会が共有している当たり前の歴史認識を覆す無理が通るはずがない。

 首相は未来志向を強調してきたが、現在と未来をより良く生きるためには過去のけじめは欠かせない。その意味で、解決が迫られているのに、いまだ残された問題はまだまだある。

 最たるものは靖国神社と戦没者追悼の問題である。安倍首相が13年末以来参拝していないため外交的な摩擦は落ち着いているが、首相が再び参拝すれば、たちまち再燃する。それなのに、この問題に何らかの解決策を見いだそうという政治の動きは極めて乏しい。

 慰安婦問題は解決に向けた政治的合意が得られず、国交がない北朝鮮による拉致問題も進展しない。ロシアとの北方領土問題も暗礁に乗り上げている。

 出す必要のない談話に労力を費やしたあげく、戦争の惨禍を体験した日本国民や近隣諸国民が高齢化するなかで解決が急がれる問題は足踏みが続く。

 いったい何のための、誰のための政治なのか。本末転倒も極まれりである。

 その責めは、首相自身が負わねばならない。

●終戦から70年 不戦の誓い、未来に継承を
       北海道 08/15
 太平洋戦争の敗戦から70年を迎えた。日本は焼け野原から再出発し、奇跡の復興、経済大国へと成長を遂げた。

 近年では東日本大震災や福島第1原発事故があり、その道は決して平たんではなかった。それでも一度も戦争に加わらず、平和国家として歩んできた。

 その憲法に基づく平和主義が瀬戸際に立たされている。終戦の日、例年にも増して自覚したいのは平和の大切さだ。

 将来世代のために何を守り、何を引き継ぐのかが問われる。

■和解の意図伝わらぬ

 安倍晋三首相はきのう、戦後70年談話を閣議決定し発表した。

 談話は▽大戦への反省▽戦後の平和国家としての歩み▽今後の国際貢献のあり方―を柱に構成し、分量が膨らんだ。

 戦後50年の村山富市首相談話は過去の国策の誤りを率直に認め、痛切な反省と心からのおわびを表明し、日本外交の基本となった。

 今回の談話では「植民地支配と侵略」「痛切な反省」など引き継ぐべき大事な文言は入れたつもりなのだろう。

 だが朝鮮半島などでの植民地支配は明言せず、西欧列強による植民地化の歴史に触れただけだった。先の大戦の「おわび」も「わが国は繰り返し表明してきた」と、間接的な表現にとどまった。

 中国や韓国とのこじれた関係を打開する和解のメッセージなのか―。国際社会も注視していた談話だが、これでは十分な説得力を持って伝わったとは言い難い。

 「子供たちに謝罪を続ける宿命を負わせてはならない」とも述べた。ならば近隣諸国との間の問題の解決、和解を急ぐべきだ。

 中国や韓国が歴史問題を政治宣伝に利用するのであれば相互不信を招く。ただアジア諸国に計り知れない人的、物的被害を与えた日本の首相が率直に「おわび」を表明するのは当然だ。一般論にとどまったのは残念だ。

 積極的平和主義に基づく国際貢献も、その中身に疑問が残る。

 国際貢献を農村援助や復興、貧困対策など日本が得意とする非軍事分野に限るのならうなずける。

 しかし平和維持のためには軍事的手段もいとわず、脅威を排除するというのであれば平和主義とは相いれない。

 「未来志向」と言うが、これが今後の日本の進む道なら危うい。

■個人より国家なのか

 安倍政権は国民に大きな不安を巻き起こしている。

 与党は安保関連法案を強行採決で衆院通過させた。法案は政府が違憲としてきた集団的自衛権の行使を容認し、自国が攻撃されていなくても武力行使に道を開く。

 限定容認と言うが行使は政府の判断次第だ。歯止めはないに等しい。憲法が権力を縛る立憲主義の精神にも反する。

 政権批判に対し、首相の応援団的な自民党の勉強会では、言論の自由を顧みず「マスコミを懲らしめる」などの発言が飛び交った。

 この勉強会に出席した若手議員は安保法案に反対する学生団体に対し「『戦争に行きたくないじゃん』という利己的考えに基づく」と筋違いの言葉を投げつけた。

 個人よりも国家が大事。戦争の苦難は受忍されるべきだ。そうした戦前の風潮と似ていないか。

 多大な犠牲を払って手にした戦後の平和主義が危うい。なぜ日本はこんな地点にきたのだろう。

 戦争の悲惨さを知る人が少なくなったことが要因の一つだろう。殺し殺される恐ろしさを自分に引きつけて考えられない。

 戦争の本質を直視し、どんな経緯で開戦して惨禍を招き、経験したのかを考えることから始めたい。戦争体験を学び、次世代に継承する意味はかつてなく重い。

■被爆者の声聞かねば

 長崎の平和祈念式典は静かに進行する中、被爆者代表の「平和への誓い」で突然拍手がわいた。

 代表の谷口稜曄(すみてる)さん(86)は安保法案を推進する政府を強く批判し、「戦時中に逆戻りしようとしている」と言い切った。拍手は出席者の共感によるものだ。

 16歳で郵便配達中に被爆し、背中を熱線で焼かれた。被爆者こそが生き証人として戦争反対の先頭に立つ。その決意だろう。

 70年前の敗戦。国民は二度と戦争はするまいと誓った。権力にただ従うのではなく、自分たちで考えて決める。民主主義を定着させる誓いでもあったはずだ。

 最近目を引くのは安保法案反対の市民の集会やデモだ。労組や政党ばかりではない。若者や学生ら自発的、自然発生的なデモが目立つ。若い母親までもがベビーカーを押して街頭に出始めた。

 自分で考え、声を上げる。その積み重ねが政治の方向を誤らせず、確かな未来を開くと信じる。

●戦後70年談話/戦略的意図を読み取れぬ
      河北新報 2015年08月15日土曜日
 似て非なる物。そんな印象を拭えず、多くの国民はもとより国際社会、わけても先の戦争で大きな被害を与えたアジア諸国の十分な理解と共感を得られるかどうか危ういと言わざるを得ない。

 安倍晋三首相がきのう、発表した「戦後70年談話(安倍談話)」である。
 政府の公式見解とするため、閣議決定の手続きが取られた。一時傾いたとされる「個人の見解」では首相談話たり得ず、当然の対応だ。
 安倍首相がいかなる歴史認識を示すのか。大方、その一点を注視した。途上にある中国、韓国との和解の動向を左右する、つまり東アジアの安定に深く関わるからである。

 談話で安倍首相は、戦後50年の村山富市首相談話、60年の小泉純一郎首相談話を受け入れて「痛切な反省」を盛り込み、「植民地支配と侵略」「おわび」にも言及した。

 自身が設置した有識者懇談会の報告を踏まえ、強く談話の継承を求める公明党の意向にも留意。安全保障関連法案の参院審議への影響も意識して、個人の歴史観を抑制気味に調整を図った形だ。

 避けてきた「侵略」「おわび」に触れ、先の談話のキーワードを全て盛ったものの、国際的原則や過去の談話に沿わせるなど、自らの真意を覆い隠すかのようだ。

 侵略やおわびの主体の不透明さも否めず、姑息(こそく)と受け取られかねない。説明は回りくどく、自身の認識を回避した格好で、歴史修正主義者との疑念を払拭(ふっしょく)できまい。

 共同通信社の戦後70年に関する世論調査で、アジアの植民地支配と侵略への「おわび」の言葉を入れるべきだとの回答が67%を占めた。

 近隣国との関係改善への悪影響も懸念し、村山談話を明確に引き継ぐよう求めたと言え、不満の残った国民も少なくないだろう。
 首相談話は国民と国際社会に向けた宣言であり約束である。どう受け止められるか、反応を計算し尽くさねばならない。その点、国益を踏まえ中国、韓国との信頼関係再構築に向けて、絶好の機会を最大限生かしたとは言えまい。

 安倍首相は「歴代内閣の立場を全体として引き継ぐ」とする一方、村山、小泉両談話との違いにこだわり、過去を振り返るよりも「未来志向」の強い内容を目指した。

 戦後、平和主義を貫き、国の繁栄と国際貢献に努めた流れをアピールし、未来への希望と新たな使命を国内外に示す、というものだ。
 確かに歩みは誇っていい。ただ、自画自賛的な表明は、どれほど称賛を得られよう。

 女性の名誉、尊厳に言及、慰安婦問題を抱える韓国への配慮をにじませるが、談話は直接的な表現による反省と謝罪の明示を基本に据えるべきだった。そうした歴史観と慎み深い戦後評価で、和解の道筋をたぐり寄せ平和の基盤を強固にしてこそ、心に響く確かな未来を語れたろう。

 分量が多い割に内容は薄く、安倍談話は「個人の見解」を完全には超えられず、戦略性の乏しい内容にとどまった。よりよい形で「上書き」されるには至らず、あえて発表した意義が問われよう。

●社説 真の和解とするために 戦後70年首相談話
            中日 2015年8月15日
 戦後日本の平和と繁栄は、国内外での膨大な尊い犠牲の上に、先人たちの努力で勝ち得てきたものだ。戦後七十年の節目に、あらためて胸に刻みたい。

 安倍晋三首相はきのう戦後七十年の首相談話を閣議決定し、自ら記者会見で発表した。

 戦後五十年の一九九五年の終戦記念日には村山富市首相が、六十年の二〇〇五年には小泉純一郎首相が談話を発表している。

 その根幹部分は「植民地支配と侵略」により、とりわけアジア諸国の人々に多くの損害と苦痛を与えた歴史の事実を謙虚に受け止め「痛切な反省と心からのお詫(わ)びの気持ち」を表明したことにある。

村山、小泉談話は継承

 安倍首相はこれまで、歴代内閣の立場を「全体として引き継ぐ」とは言いながらも、「今まで重ねてきた文言を使うかどうかではなく、安倍政権としてどう考えているのかという観点で出したい」と述べるなど、そのまま盛り込むことには否定的だった。

 戦後七十年の「安倍談話」で、「村山談話」「小泉談話」の立場はどこまで引き継がれたのか。

 安倍談話は「わが国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきた」として村山、小泉談話に言及し、「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものだ」と受け継ぐことを言明した。

 この部分は評価するが、気になるのは個々の文言の使い方だ。

 首相が、七十年談話を出すに当たって参考となる意見を求めた有識者会議「二十一世紀構想懇談会」の報告書は「満州事変以後、大陸への侵略を拡大」と具体的に言及したが、安倍談話では「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」という部分だけだ。

侵略主体、明確でなく

 この表現だと、侵略の主体が日本なのか、国際社会一般のことなのか、明確にはなるまい。

 一九三一年の満州事変以降の日本の行為は明らかに侵略である。自衛以外の戦争を禁止した二八年の不戦条約にも違反する。アジア解放のための戦争だったという主張も受け入れがたい。

 安倍首相が、有識者による報告書のようにかつての日本の行為を「侵略」と考えているのなら、一般化したと受け取られるような表現は避け、日本の行為と明確に位置付けるべきではなかったか。

 「植民地」という文言も、談話には六カ所出てくるが、いずれも欧州列強による広大な植民地が広がっていたという歴史的事実を述べる文脈だ。

 「植民地支配から永遠に訣別(けつべつ)し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない」との決意は当然としても、日本による植民地支配に対する反省とお詫びを表明したとは、受け取りがたい。

 特に、日韓併合の契機となった日露戦争について「植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけた」と意義を強調したのは、朝鮮半島の人々への配慮を欠くのではないか。

 いわゆる従軍慰安婦については「二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続ける」と言及し、「二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしていく」と述べた。

 その決意は妥当だが、日韓関係改善を妨げている従軍慰安婦問題の解決に向けて問われるのは、今後の具体的な取り組みだろう。

 安倍談話は「七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります」と表明した。

 その決意に異議はない。

 戦後日本は新憲法の下、平和国家として歩み続け、非軍事面での国際貢献で国際的な信頼を勝ち得てきた。先人たちの先見の明と努力は今を生きる私たちの誇りだ。

負の歴史に向き合う

 将来にわたって、過去と同じ轍(てつ)を踏まないためには、侵略や植民地支配という「負の歴史」とも謙虚に向き合って反省し、詫びるべきは詫びる勇気である。

 戦争とは何ら関わりのない将来世代に謝罪を続ける宿命を負わせないためには、聞く者の心に響くような言葉で語る必要がある。それが戦後七十年を生きる私たち世代の責任ではないのか。

 安倍談話が国内外で評価され、近隣諸国との真の和解に資するのか否か、引き続き見守る必要はあろうが、負の歴史とも謙虚に向き合い、平和国家としての歩みを止めないのは、私たち自身の決意である。戦後七十年の節目に、あらためて誓いたい。

●読書日記:今週の筆者は社会学者・上野千鶴子さん 政治を必ず変える民意の熱気
     毎日新聞 2015年08月11日 東京夕刊
 *7月14日〜8月10日
 ■異議あり!新国立競技場 2020年オリンピックを市民の手に(森まゆみ編・2014年)岩波書店・562円
 ■復刊 あたらしい憲法のはなし(童話屋編集部編・2001年)童話屋・309円
 ■ドキュメンタリー映画「首相官邸の前で」(小熊英二企画、製作、監督・2015年)=写真は一場面

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 「みなさん、あたらしい憲法ができました。……このあたらしい憲法をこしらえるために、たくさんの人々が、たいへん苦心をなさいました。……ところでみなさんは、憲法というものはどんなものかごぞんじですか。じぶんの身にかゝわりのないことのようにおもっている人はないでしょうか。もしそうならば、それは大きなまちがいです。」

 この高らかな宣言は、1947年に文部省(当時)が発行した中学1年用の社会科の教科書『あたらしい憲法のはなし』の冒頭である。復刻版が童話屋から2001年に刊行され、14年に14刷20万部超と版を重ねている。この教科書で憲法を学んだ世代は、いま80代。あたらしい憲法ができたときの興奮とよろこびを覚えているだろう。この教科書は1952年4月以降、使われなくなった。占領期の「逆コース」と共に、朝鮮戦争が始まり、日本が「反共の砦(とりで)」となったからであろう。

 日本国憲法は誕生してまもなくから逆風にさらされてきた。55年に自由党と民主党が合同して結党した自由民主党の党是は、当初から「憲法改正」。その正統を受け継ぐと自任する安倍総理は、結党以来の宿願の達成が自分の歴史的使命だと感じているようだ。

 あたらしい憲法は欠陥だらけ、それならと早くから「憲法改正」を唱えるひとたちは、ほかにもいた。はやくも49年に、丸山真男、鵜飼信成、辻清明、磯田進、中村哲らをメンバーとする公法研究会が「憲法改正意見」を提出している。そこには、のっけから「前文」の「日本国民」という言葉を「日本人民」と改めるとある。また「その権力を国民の代表者がこれを行使し」とあるのを「その権力を人民が行使し」と改めるとする。というのも、「国民の代表者」とは「間接民主主義を意味している。しかるに……民主主義の根本原則……はあくまで直接民主主義をいみする」からである。第1章第1条の「天皇」を廃し、「人民主権を宣言する章を設ける」べきである、とラディカルである。

この「憲法改正意見」は、83年刊の武相民権運動百年記念実行委員会編『続憲法を考える 五日市憲法百年と戦後憲法』に収録されている。「五日市憲法」といえば、歴史学者色川大吉さんが発見し、最近では皇后陛下がごらんになって高く評価された「民権(人民主権)憲法」である。立憲主義のもとでは、憲法遵守(じゅんしゅ)義務を持つのは天皇以下、内閣、国会議員、公務員等であるが、今や違憲内閣、違憲国会を持つ日本では、天皇と皇后が最大の憲法遵守者かもしれない。

 多数派の専制が既成事実として積み重ねようとした決定を、民意が押し戻した例がある。新国立競技場案の白紙撤回である。森まゆみさんたちが『異議あり!新国立競技場』のキャンペーンを始めた頃、正直に言うがわたしは言ってもムダ、としらけた気分でいた。だが、おかしい、ヘンだ、と声を上げつづけた人たちの熱意がついに政治を変えた。

 歴史社会学者の小熊英二さんが、ドキュメンタリー映画『首相官邸の前で』を製作した(9月から公開)。3・11以後の脱原発運動の記録を、さまざまな人たちのブログやyoutubeから集めて編集したという、手法においても画期的な集合的プロジェクト。「デモで社会は変わりますか?」という問いに、柄谷行人さんは「デモのできる社会に変わる」と答えた。今夏の国会前の熱気は、その延長線上にある。官邸前の脱原発デモは最大時で20万人に達した。国会を20万から30万の人々が囲めば、政治は必ず変わる。

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 筆者は上野千鶴子、松井孝典、津村記久子、松家仁之の4氏です。
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 ■人物略歴
 ◇うえの・ちづこ
 東京大名誉教授、認定NPO法人「ウィメンズアクションネットワーク」理事長。「おひとりさまの老後」など著書多数。


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