tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

母たちの村

2007-05-14 20:10:52 | cinema

こんな映画を母の日に見ちまった。2時間強の映像だが、全編苦痛にあふれて、映画がはやく終わるのを祈ったほど。
音に満ち溢れている映像は、最初は戸外の虫の声などが聞こえてくる。そして終盤から、子を亡くした母親の悲痛な叫び。そして割礼(それを割礼と呼ぶのであれば)に引き出される少女の恐怖の叫び。クエンティン・タランティーノのホステルで、スプラッタ映画の悲鳴にはかなり耐性を持ったと思っていたが、この心を引き裂くような心の叫びにはまいった。音だからこそ心に直接響くのかもしれない。真剣に、映画がはやく終わってくれることをただ望んでいた。
少女への割礼。それは、男性への割礼の由来が衛生上のためと考えられるのに対し、女性への割礼は、女性の性欲、性感覚の低減が目的らしい。完全に一方的な男性社会でのおきて。しかも、一夫多妻制を貫いており、女性は子供を生む道具でしかない。この作品のストーリーの中心にあるのが、この「女子割礼」を嫌がって逃げ出した少女たちを守ろうとする女性たちの物語だ。今現在も、アフリカの一部の地域では行われている悪習で、一部の国ではこの習慣を断とうとする運動も起こっているようだが、それを阻んでいるのは伝統に縛り付けられる無知蒙昧なる男たちの愚かな考えでしかない。

映画は、アフリカに教育をと悲痛なる叫びを歌にのせて終わる。

「自由な考えに満ち溢れた」ラジオが悪い、テレビが悪いなど、どこかの国でも聞こえてきそうな言葉だ。あげくのはて、ゲーム機やらパソコンやケータイを子供から取り上げる。
この映画を見て感じたやるせなさ、あるいは、まったく理解しない社会に対する憤り、怒りをぶつける先のない不条理に、自分の青春時代に感じていた焦りにも似た感覚を思い出した。進学競争が過熱して、成長期の子供の健全な学校生活や日常生活まで圧迫するようになった状況はまさに受験戦争だった。いまだに成長期の過剰な競争が、従順な人間を育成するのに役立つと社会は思っている。行き過ぎた「詰め込み教育」の弊害を取り除くために、「ゆとり教育」が提唱・実践されたが、今度は「学力低下」が問題になってもとの競争教育に戻った。かくして、少年少女たちは、受験戦争という過酷な生存競争の場へなにもわからないまま駆り出されて行く。心に悲痛な叫びを残したまま・・・・・・。一体何のための教育なんだろう。今、子供達にできることは、自閉という名の結界に閉じこもるか、仲間で群れてその中に閉じこもるしかないのだろうか?

無知蒙昧な男たちを見ていて、暴力的な怒りさえ覚える。しかし、暴力に対して暴力で応えるのはむろん愚かな行為でしかない。映画のヒロインは、モーラーデというあたかも結界をつくるかのようにして割礼から逃げ出した少女達をかくまう。
原題にもなっている「モーラーデ(moolaade)」は公式HPによれば、
「西アフリカの広い地域で話されているフルベ語の語彙である。語根のモール(mool‐)には「避ける、逃げる」といった意味と並んで「避難する」、「(~のもとに)保護を求める」という意味がある。モーラーデという語には中世ヨーロッパにおいて、そこに逃げ込めば何人(なんぴと)の力も、法の力も及ばない避難所という意味があるフランス語のアジール(asile)と同様、聖域とか避難場所といった意味を持つと考えられる。」とある。
この結界を解かせる為、公衆の面前でヒロインは鞭打たれる。その音が重く何度も響く。尊厳を守るための鞭打ちは、逆に鞭打つ側の心をくだいた。女性たちが”非暴力”を武器として戦う強さがせめてもの救いだ。