歴史的に見れば、人類社会は自由を求める方向に進んで来ているのでしょう。その理由は、人間は本来、不自由は嫌いで、自由の方がいいと思っているからでしょう。
不自由から抜け出すために、人間は人間に与えられた発達した大脳組織を活用し、様々な努力をし、より自由な生活が出来るように生活環境を改善してきました。
マズローの「欲求5段階」に従えば、食物を得られるように努力し、安全な暮らしが出来る様に考え、人間同士の交流を楽しめるような環境を作り、その中で自分を認めてもらうように努力し、最後は自分の望むように人生を充実させたいという事になるようです。
人類全体としてもそういう方向に進んでいて、(地球環境問題はありますが)生活を豊かで快適にして、自分の望む人生を選択出来るようになって来てはいるのですが、そこで問題になるのが、自分の自由と他人の自由が衝突する事のようです。
確かに、物理的に豊かで快適になって来ているのですが、お互いの自由が衝突するという問題はなかなか解決が難しいようです。
これを解決しようという社会制度が民主主義なのでしょう。しかし自分の自由を他人の自由より優先させたいという願望の強い人間もいて、そういう人が偶々リーダーになると専制主義の社会や国家が生まれるのでしょう。
専制主義、独裁主義のリーダーが生まれるケースの主なものは2つあって、1つは民主主義で選ばれながら、時間を掛けて国や社会を作り替え、独裁者として君臨するようになる場合、もう1つは、クーデターのような形で、軍事力でリーダーになる場合でしょう。
現状では前者はプーチンさんであり後者はミャンマーのフラインさんでしょうか。
前者の場合には、リーダーの独裁者への変質を防ぐために任期の制限が一般的です。
時に任期の制限を無視したり改めたりして任期を延長するリーダーがいるようですが、それは厳禁というのは「民主主義のトリセツ」で指摘したところです。
後者の場合は、通常は軍事力によりものですから、文民優位の原則の徹底が必要という事になるのでしょう。
ところで独裁者の下では、殆どの人間は大変不自由ですが、その極致は戦争です。そしてこれは大抵独裁者が起こします。
人間には、自由を好むのと同時に、「相手より優位に立ちたい」「相手に勝ちたい」という本性があり、これが進歩の言動録ですがが、それが「競いの文化に」に立たずに「争いの文化」に立つ時に紛争や戦争が起きるのでしょう。
こうした問題は、経済でいえば、アダムスミスが『国富論』で「レッセフェール」の良さを認めながら、片方で、「道徳感情論」を書いている事、日本では、渋沢栄一が『論語とそろばん』を表している事からも十分に留意されなければならない事でしょう。
人間の求める「自由」は矢張り素晴らしく、大事なものです。しかし自分の自由が他人に不自由を齎したのでは社会は成り立ちません。
そこには自由と不自由の上位概念が必要です。そおれは道徳倫理であったり、合理性であったり、社会正義であったりするのでしょう。
こんな事は、人と人との関係では解りきった事ですが、国と国の関係になると、途端に、解らなくなるというのが今の国際関係でしょう。
自由を享受するためには、人間には、まだまだ知恵と努力が必要なようです。
不自由から抜け出すために、人間は人間に与えられた発達した大脳組織を活用し、様々な努力をし、より自由な生活が出来るように生活環境を改善してきました。
マズローの「欲求5段階」に従えば、食物を得られるように努力し、安全な暮らしが出来る様に考え、人間同士の交流を楽しめるような環境を作り、その中で自分を認めてもらうように努力し、最後は自分の望むように人生を充実させたいという事になるようです。
人類全体としてもそういう方向に進んでいて、(地球環境問題はありますが)生活を豊かで快適にして、自分の望む人生を選択出来るようになって来てはいるのですが、そこで問題になるのが、自分の自由と他人の自由が衝突する事のようです。
確かに、物理的に豊かで快適になって来ているのですが、お互いの自由が衝突するという問題はなかなか解決が難しいようです。
これを解決しようという社会制度が民主主義なのでしょう。しかし自分の自由を他人の自由より優先させたいという願望の強い人間もいて、そういう人が偶々リーダーになると専制主義の社会や国家が生まれるのでしょう。
専制主義、独裁主義のリーダーが生まれるケースの主なものは2つあって、1つは民主主義で選ばれながら、時間を掛けて国や社会を作り替え、独裁者として君臨するようになる場合、もう1つは、クーデターのような形で、軍事力でリーダーになる場合でしょう。
現状では前者はプーチンさんであり後者はミャンマーのフラインさんでしょうか。
前者の場合には、リーダーの独裁者への変質を防ぐために任期の制限が一般的です。
時に任期の制限を無視したり改めたりして任期を延長するリーダーがいるようですが、それは厳禁というのは「民主主義のトリセツ」で指摘したところです。
後者の場合は、通常は軍事力によりものですから、文民優位の原則の徹底が必要という事になるのでしょう。
ところで独裁者の下では、殆どの人間は大変不自由ですが、その極致は戦争です。そしてこれは大抵独裁者が起こします。
人間には、自由を好むのと同時に、「相手より優位に立ちたい」「相手に勝ちたい」という本性があり、これが進歩の言動録ですがが、それが「競いの文化に」に立たずに「争いの文化」に立つ時に紛争や戦争が起きるのでしょう。
こうした問題は、経済でいえば、アダムスミスが『国富論』で「レッセフェール」の良さを認めながら、片方で、「道徳感情論」を書いている事、日本では、渋沢栄一が『論語とそろばん』を表している事からも十分に留意されなければならない事でしょう。
人間の求める「自由」は矢張り素晴らしく、大事なものです。しかし自分の自由が他人に不自由を齎したのでは社会は成り立ちません。
そこには自由と不自由の上位概念が必要です。そおれは道徳倫理であったり、合理性であったり、社会正義であったりするのでしょう。
こんな事は、人と人との関係では解りきった事ですが、国と国の関係になると、途端に、解らなくなるというのが今の国際関係でしょう。
自由を享受するためには、人間には、まだまだ知恵と努力が必要なようです。