娘たちが休みをとって私たち夫婦を御岳渓谷に遊びに連れて行ってくれました。
車で1時間半かけて奥多摩の御岳駅に着きました。連れ合いは渓谷が歩けないので、車を澤乃井のままごとやに回してそこで休んでもらいました。
ふたりの娘と私は御岳渓谷の遊歩道を歩きました。
駅前から渓谷に降りる案内板は真新しいものでした。
渓谷に降りると御岳渓谷のシンボル 御岳橋 が見えます。
紅葉にはまだ早く、カヌーの練習をする人がいました。
案内板と思しきものがありました。枠だけが残り、案内板は消えているように思えました。
御岳マップを見ると御岳小橋と書いてありましたが、橋脚だけを残し、橋はなくなっていました。
帰宅後調べると、昨年9月の台風19号で流されたようです。案内板もこの時、流されたのでしょう。
歩いている遊歩道も甚大な被害を受け、復旧するのが大変だったようです。
さらに歩くとこんな記念碑がありました。
童謡「お山の杉の子」の歌詞と楽譜です。この歌の経緯は下記をご覧ください。
遊歩道にはヒガンバナが沢山咲いていました。アゲハ蝶が遊んでいました。
遊歩道には、クリの無人販売所がありました。お土産に買って帰りました。
ままごとや直下の川では、カヌーの練習をしていました。カヌーを転覆させ、起き上がる訓練を繰り返ししていました。
1時間以上かけて、連れ合いが待つ、ままごとや清流園に着きました。
清流を見下ろしながら冷たい飲み物でのどを潤しました。
帰路、岩蔵温泉、塩船観音寺に立ち寄り帰宅しました。
雨にも会わず、曇天の中、歩きやすかった一日でした。
娘たちに感謝です。
『ウィキペディア(Wikipedia)』
お山の杉の子
1944年(昭和19年)、少国民文化協会が行った少国民歌の懸賞募集の第1位入賞歌であった。当初は、戦死した父を持つ子どもを励ます歌であった。12月に、ニッチクレコード(コロムビアレコード)から発売され、作詞は吉田テフ子、作曲は佐々木すぐる。歌は安西愛子、加賀美一郎、寿永恵美子、日蓄合唱団。録音は11月6日に国民合唱で、放送合唱団と児童合唱団によって行われた。
終戦後は、内容に戦時色があったため(特に5,6番の歌詞)、放送やレコードの販売が禁止になった。しかしこの歌をもう一度復活させようとサトウハチローが改作し、この際に3番から6番は改変され現在に知られる歌になる。
車で1時間半かけて奥多摩の御岳駅に着きました。連れ合いは渓谷が歩けないので、車を澤乃井のままごとやに回してそこで休んでもらいました。
ふたりの娘と私は御岳渓谷の遊歩道を歩きました。
駅前から渓谷に降りる案内板は真新しいものでした。
渓谷に降りると御岳渓谷のシンボル 御岳橋 が見えます。
紅葉にはまだ早く、カヌーの練習をする人がいました。
案内板と思しきものがありました。枠だけが残り、案内板は消えているように思えました。
御岳マップを見ると御岳小橋と書いてありましたが、橋脚だけを残し、橋はなくなっていました。
帰宅後調べると、昨年9月の台風19号で流されたようです。案内板もこの時、流されたのでしょう。
歩いている遊歩道も甚大な被害を受け、復旧するのが大変だったようです。
さらに歩くとこんな記念碑がありました。
童謡「お山の杉の子」の歌詞と楽譜です。この歌の経緯は下記をご覧ください。
遊歩道にはヒガンバナが沢山咲いていました。アゲハ蝶が遊んでいました。
遊歩道には、クリの無人販売所がありました。お土産に買って帰りました。
ままごとや直下の川では、カヌーの練習をしていました。カヌーを転覆させ、起き上がる訓練を繰り返ししていました。
1時間以上かけて、連れ合いが待つ、ままごとや清流園に着きました。
清流を見下ろしながら冷たい飲み物でのどを潤しました。
帰路、岩蔵温泉、塩船観音寺に立ち寄り帰宅しました。
雨にも会わず、曇天の中、歩きやすかった一日でした。
娘たちに感謝です。
『ウィキペディア(Wikipedia)』
お山の杉の子
1944年(昭和19年)、少国民文化協会が行った少国民歌の懸賞募集の第1位入賞歌であった。当初は、戦死した父を持つ子どもを励ます歌であった。12月に、ニッチクレコード(コロムビアレコード)から発売され、作詞は吉田テフ子、作曲は佐々木すぐる。歌は安西愛子、加賀美一郎、寿永恵美子、日蓄合唱団。録音は11月6日に国民合唱で、放送合唱団と児童合唱団によって行われた。
終戦後は、内容に戦時色があったため(特に5,6番の歌詞)、放送やレコードの販売が禁止になった。しかしこの歌をもう一度復活させようとサトウハチローが改作し、この際に3番から6番は改変され現在に知られる歌になる。