私の実家のお店が今年いっぱいで
閉店することになっていた。
これは両親から直接聞いたことではなく
一通の手紙からわかったことだ。
差出人は
某大学の運動部OBの一人。
「このたびは○○(実家の店の名)が
閉店すると聞き、大変残念であります。
いろいろとお世話になりました。」という
言葉から始まる。
今週の土曜日に店にてOB会を大々的に
開催するので
私にもぜひ参加ください、という内容だった。
まず、その差出人の名を見た時に
あ、OB会をするので、私にも店に来てねという
誘いの手紙だというのはすぐにわかった。
二年置きに恒例のOB会をやっている。
全国に散った人たちが20人ぐらい集まる。
北海道帯広から楽しみにやってくる人もいる。
私は必ず参加している。
彼らとは同世代。
私も学生の時に、大学が終わったら
よく店の手伝いをさせられた。
そこに毎日のように来る
某大学運動部の人たち。
他の運動部も来ていたが、卒業しても
このようにいつも集まっているのが彼ら。
彼らとはいつも行動を共にしていた。
父や母は
彼らを信用していたので
私が彼らと遊ぶことには口出しをしなかった。
お祭り、初詣などはいつもいっしょだった。
家の引越しの手伝いも
彼らがドッと来てくれて
運転、荷出し、整頓、掃除などを全てやってくれる。
彼らにはお酒と料理があれば
上機嫌だった。
引越しの全てが終わると
マージャンをするものあり
トランプするものあり
寝るものあり
家族同様だった。
今では、ゴルフをする年齢になり
父も、OB会の後に必ずゴルフに誘われ遊んでくる。
二年置きの恒例行事である。
そして今年もそれがやってきたんだ、と
思った。
しかし、手紙の最初の言葉に
衝撃が走った。
店を閉じる・・・ということを知らずに
ここまで両親との音信不通だったことの
証明である。
とうとう決意したか。
もう両親は高齢である。
年金暮らしをしていてもおかしくない年齢。
数年前から
この店のある界隈の開発話が出たときから
やめるか存続かの話を堂々巡りしてきた。
続けている理由は
やめて家にいても何もすることがない
という理由。
店に出ることが趣味のようであり
生活の中心だった。
昔のように
学生が毎夜飲んでいくということは
なくなった。
社会人になった人たちがそれでも
訪ねてくれてはいたが
今の学生はもうこういう所では
宴会をしない。
常連だけを相手にして
細々と続けてきた両親。
毎日
市場に買出しに行く母の手伝いをしているときに
背中が丸くなった姿を見て
そろそろやめたら?と進言したこともある。
父がなかなかやめたくなかったようだ。
忙しい時には昨年は手伝いに行った。
学生の時は
店に縛られるのがいやでいやでしかたなかった。
自分で見つけたバイトをしたかった。
親子関係が当時も良くなかった私には
店の手伝いは
別な意味をもたらしていた。
「大学に行っているのは誰のおかげなんだ。
家の手伝いをするのは当たり前だ!」という
言葉に抵抗感があった。
授業が終わる5時に
急いで店に行くと
「遅い!」と言われて
口答えをする私。
そこから喧嘩が始まる。
私の今の家から
その店まで歩いて30分程だ。
近い。
自転車で行けばもっと時間は短い。
関係が良好であれば
毎日のように顔出しできる距離。
実家も車で30分程だから
やはり近い。
しかし心の距離はこの一年で急に遠くになった。
私は拒絶している。
先日も
短い連絡のハガキを送った。
来年の正月はひっそりとこちらで迎える
と書いた。
この手紙を書くにも理由があった。
しかしここには書かないだろう。
今は
私の心が閉ざしている。
おそらく一方的に
親不孝という言葉が出るだろう。
それも甘受する。
父の心が強い限り
母の心が強い限り
私は
若き20歳の自分の時のように
心を閉ざす。
今この年齢になっても
「大学まで出してやったのに。」と
いう言葉を間接的に聞かされる。
もうウンザリだ。
父よ母よ
ごくろうさま
老舗の灯が消えるね。
そういえば
うちの店の名で検索をしてみたら
学生時代よく○○で飲んでいたなあ
あの店はまだあるだろうか
と誰が書いたかわからないけれど
日本のどこかに行った人の書き込みがあったよ。
彼らには彼らの青春の場だったんだよ。