僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(6/17)父、母、義母、老人三者三様

2015年06月17日 15時35分32秒 | 日常、仕事、認知症
一週間以上、書いていないね。
土日続けて休みだったのだが、自分のための休みではないなあ。
土曜日は1人で、実家に出かけた。
本当は
義母のことを相談しようと思ったけれど
深く話さないままに
時を過ごした。
両親の結婚記念日だったので、どこかで食事を、ということで
ごちそうするところを、ごちそうされた。
昼食後、実家に戻ってから
両親の夕飯の支度を。
私が夕飯の支度をするたびに
母は
「あなたもいつのまにか料理をするようになったのねえ。遊び人だったあなたが・・・」
と言う。
「いや、学生時代はお金がなかったから、遊んでいないでしょ。」と答えたが。
この会話は
いつも私が何か作るたびに出てくる。
主婦歴、何年だと思っているのでしょうね、母。
震災の時に母をこちらの家に避難させて
ガスのないところで
外で七輪で煮炊きをして食べさせたときも同じようなことを言っていた。
まるで、初めて私が料理をしたように。
こんなふうに、若いときの私のイメージしか抱いていないようで。
父も毎日三食の料理を作ることにお疲れ気味。
母は、もう料理ができないけれど
もともとの綺麗好きの性格は脳梗塞後でも変わっていなくて
一生懸命、台所をピカピカに磨いていた。
その影響で、私も帰宅後に台所の掃除をする。
こういう刺激はいいね。

義母は相変わらず
何かを隠すために必死である。

先日はお風呂の呼びかけのあと、大体2分ぐらいで部屋から出てくるのだが
なかなか出てこないので、何をしているのかと部屋を覗くと
テレビのリモコンをどこに隠そうかと、タオルに包んだリモコンを持ってウロウロしていた場面に出くわした。。
「テーブルの上に堂々と置いておくのがいいよ。却って盗まれないよ。」と言う私。

そして
ある日
「ずっと前に盗まれた財布を戻されていたの。」と
数ヶ月前に失くした財布を見せてくれた。
あの時、鍵もいっしょに失くして(隠して)いたのだが
それもいっしょに見つかった。
どうやら、廊下の(この廊下、ネコが義母の所に行けないように、途中で物を積み重ねてブロックしている)自分の野菜庫の奥に入れていたらしい。
どうして野菜庫だとわかったのか、聞いてみると
「化粧品をどこかに隠そうと、そこにしようと思って開けてみたら、財布が戻っていた。」と言う。
あくまでも、盗まれたものが戻されていた、という彼女の解釈。
そういえば
昨日の夜も
お風呂どうぞ、と伝えに行くと
コタツテーブルの上にメモが。
「盗んだ化粧品を戻してください」と見えぬドロボーに書いてあった。
もう、私はそれに慣れっこになっていて
自分の時間のあるときにしか探さないことにしている。

何かが見つかれば、翌日には何かをどこかに隠している。
その繰り返しの日々。
テレビのリモコンはいやだなあ。
これはすぐに見つけてやらなければならないものでしょ。
隠すとき
タオルとかに包むので、探すとき厄介。
タオルや服だらけです、義母の部屋。
財布もパンストに入った状態で見つかった。
パンストに入れるのは、日ごろ、それを腰に巻きつけて管理しているので。

父の兄弟は
姉2人が健在である。
84歳(今年)の父の姉だから、1人は88歳(社交ダンスを習っている)、1人は
90歳過ぎ。
その90歳過ぎの姉は、いまだに、針仕事を引き受けている。
昔から着物を縫ったりして、趣味と実益を兼ねた生き方をしている。
頭もしっかりしているそうだ。

「そうかあ、やっぱり手先を使うことは頭もクリアなんだね。」と私の感想。
もう1人の姉は、2、3年前の両親の手術のときに、田舎から出てきてくれた。
あのときも、あまりに若々しく背筋が伸びていて、年齢を聞き、更に社交ダンスを習っていると聞いて、驚いたっけ。

どうしても義母と比較してしまう私。
夫にその姉たちのことを伝える。
「やっぱり、趣味があるといいね。お義母さんは無趣味だから余計なことばかりを考えている。」
「前(私たちが結婚する前)に、将来ボケないように、何か趣味を持て、と言ったんだ。
人形を作ることをしたけれど、2,3体作って終わりだったなあ。」と夫。

1つだけ、忘れていないのは、料理である。
自分の食べる料理の味付けもきちんとしている。トンチンカンなものを作っているとか
味付けがでたらめ、とか一切ない。
これはこれで
ずっと食事を、別々にしてきた効果。
醤油や唐辛子を買い物に行くたびに買ってくることはあるが、味付けは昔から変わっていない。時々、彼女のために料理を作ってやるが、基本的にまだ火の扱い、食事の準備はできるので、その辺は様子見である。


実家の母は
最近、父の若い頃の失態をよく口にして
父を責める。
その言い方は、非常にきつくて、正常だった母の名残である。
母はもともときつい性格だ。厳しい、と書けば聞こえはいいが
私にとっては、虐待に近いことを受けたことが何回もある。
父は父で
若いときは自分本位の生活で、よく母を苦労させてきた。
両親は見合い。
結婚したのはいいが、父は給料をうちに入れずにギャンブルに使っていたそうだ。
母は
その実態を手紙に書き、父の実家に送っていた。
北海道に住んでいた両親、父の実家は宮城県。
実家では長男(父は次男)が家長として仕切り、
母に何とか我慢していっしょに暮らしてくれと懇願の返事が来たそうだ。
母側からの親類として病気の私を養子縁組をして3人家族になったが
母は
自分が子供が産めなくなったこと(結婚後すぐに子宮の病気)と
自分の姉の子供(しかも結核という病気の)の私を養子にしたことの負い目から
離婚しないで我慢に我慢をして父についてきた、と言う。
それらの事情は当時のときから私は知っている。
その後、脱サラして
父の故郷の宮城県にやってきてその後も母は波乱万丈。
それらの恨みは
脳梗塞後でも忘れていない。
私が実家に行くたびに
その恨みを口にする母。

「そんなこと言ったって、昔のことだもの、しょうがないでしょ。
人生やり直しってきかないでしょ。良いときもあれば、悪いときもある。
済んだことはしょうがない。」と私は言う。
だから聞いてやるしかない。

父は思い通りの人生だったから、ストレスがない、と言えば
母はストレスありまくりだ、とその恨みを言う。

老人三者三様である。



コメント
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