11日(火).昨日の朝日夕刊・文化欄に4月4日の東京・春・音楽祭でのワーグナー「神々の黄昏」の演奏会評が載っていました 執筆者は音楽評論家の伊東信宏氏です.これを見る限り,プロの音楽評論家も私のようなアマチュアも,同じような感想を持ったのだなということが確認できます
伊東氏は「ハーゲン役のアイン・アンガーの存在感が圧倒的」,「ブリュンヒルデ役のクリスティアーネ・リボールも,この役の気性の激しさをよく表現」,「ワルトラウテ役のエリーザベト・クールマン,アルべリヒ役のトマス・コニエチュニーも,出番は少ないながら印象に残る」,一方「ジークリート役のアーノルド・べズイエンは,高音の伸びがなく苦しかったが,急きょ呼ばれた代役としては仕方ないところもある」,「この公演の主役は,間違いなく指揮者のマレク・ヤノフスキだろう」と書いていますが,これらの印象は,表現方法が多少異なるものの,私が5日付のブログで書いた内容とほとんど変わりません
伊東氏に限らず,新聞にコンサート評を書く音楽評論家は,ほぼ間違いなく,新聞社から招待券をもらって,一番いい席で聴いて,それを文章にして原稿料をもらっているのだと思います 一方,私のような単なるクラシック音楽好きは,自腹で安くないチケットを買って,思ったことをせいぜいブログにアップするくらいのことしか出来ません
私はアフィリエイト広告は導入していないので,ブログから収入を得ているわけではありません.それでも私は音楽評論家を羨ましいとは思いません
例えば,そのコンサートがその新聞社が主催もしくは後援しているものだとしたら,演奏内容に対して不満だったことや批判的なことは書けないでしょうし,書いたとしたら次に声がかかることはないでしょう
そんな窮屈な立場で聴くより,自腹で聴いて,思った通りの感想をブログに書いた方がよほど気が楽です
ということで,わが家に来てから今日で924日目を迎え,アメリカが,国際合意に反してミサイル発射を繰り返す北朝鮮を牽制し,当初予定を変えて朝鮮半島周辺に向けて米海軍の原子力空母カール・ビンソンを派遣した というニュースを見て感想を述べるモコタロです
ミセス・ロビンソンでなく カール・ビンソンだから 北朝鮮は鼻歌なんか歌ってられないぞ
昨日は娘が仕事休みの日だったので夕食はステーキにしました いつも通り,私がジャガイモ,人参,エリンギなどの付け合わせや野菜サラダを作り,娘が肉を焼きました
斎藤美奈子著「文庫解説ワンダーランド」(岩波新書)を読み終わりました 斎藤美奈子は1956年新潟県生まれの文芸評論家です.「文章読本さん江」で第1回小林秀雄賞を受賞しています
この本には,夏目漱石の「坊っちゃん」,川端康成の「伊豆の踊子」「雪国」,太宰治の「走れメロス」から,サガン「悲しみよ,こんにちは」,村上龍の「限りなく透明に近いブルー」まで,広範囲にわたる作品に添えられた「解説」に焦点を当て,その内容を批判的に「解説」した稀に見る傑作です
私の興味を引いたのは「小林秀雄『モオツァルト・無常という事』~試験によく出るアンタッチャブルな評論家」です これを見てあらためて知ったのは小林秀雄の作品の文庫版には「解説」がないこと.あったとしても,それは江藤淳が専属解説者のようになっているということです
斎藤は江藤の解説を具体的に紹介しながら,「江藤の解説は分かりにくい」として次の2つの理由を挙げています.①小林の内面に寄り添おうとしていること,②それにもかかわらず,小林の内面の背後にある伝記的事実は伏せていること
そして,結論として次のようにまとめています
「『小林秀雄』という本を執筆した江藤は,何を読んでもコバヒデの執筆モチベーションを考えずにはいられなかった.江藤淳は要するに,小林秀雄の作品を『私小説を読む』ように読んで解説しているのだ あるいは小林自身が『私小説を書く』ように評論を書いているのかも知れない
読者が頭を抱えるのも当然だろう
」
斎藤の「あるいは小林自身が『私小説を書く』ように評論を書いているのかも知れない」と指摘しているのは卓見だと思います
「試験によく出るアンタッチャブルな評論家」というテーマで思い出したことがあります いつ どこで 何で 読んだか忘れましたが,小林秀雄の娘さんが学校の宿題で出された文章をどう解釈したら良いか分からなかったので,父親である小林秀雄に尋ねたところ,一通りその文章を読んで「何を言っているのかさっぱり分からない.悪文だ
」と答えたといいます.その文書の筆者を確かめると「小林秀雄」とあった,というものです
自分が過去に書いた文章を悪文と決めつけているのですから世話がありません
ところで,文学作品の解説について斎藤が一番言いたいことが書かれているのは次の文章です
「日本の現代文学の解説には,しばしば次のような特徴が見られる.①作品を離れて解説者が自分の体験や思索したことを滔々と語る,②表現,描写,単語などの細部にこだわる,③作品が生まれた社会的な背景にはふれない.・・・同人誌の合評ならいざ知らず,解説としては落第だろう」
これは文庫本の「解説」を読んでいてよく経験することです とくに①のケースが多いように思います.読者が知りたいのは著者や作品そのものの解説であって,解説者の体験や,著者との付き合いの深さなどはどーでも良いのです
斎藤は解説者の取るべき態度として次のように語ります
「悪習を絶つ方法は簡単である.第一に,5年後,10年後の読者を想定して書くこと.第二に,中学二年生くらいの読者を対象に書くことだ 同時代の読者には説明過剰に思えても,数年後の読者にはもう通じない
それが現代.後世の読者に必要なのは,国語(文章の鑑賞)よりも社会科(地理的歴史的背景)なのだ
」
そして,「解説」を読む読者としてはどうすべきかについて,次のように語ります
「文庫解説はどうあるべきかという問いに正解はない.ただし,注意すべきは,その文庫が生き残っている限り,解説もいっしょに生き残ることだろう どんな解説がつくかはほとんど『運の世界』である.読者としては,メディアリテラシーを磨いて,解説をも批評的に読むのが最良の対抗策だろう
」
本を解説も含めて批評的に読むというのはそう簡単なことではありません せっせと 靴の代わりに メディアリテラシーを磨かなくっちゃ