10日(土)。わが家に来てから今日で1499日目を迎え、桜田義孝五輪相が参院予算委員会で 蓮舫議員から聞かれた2020年東京五輪・パラリンピックの大会予算の国の負担分「1500億円」を「1500円」と言い間違えたり、蓮舫議員を「れんほう」でなく「れんぽう」と間違えて呼んだりした問題が 後を引いていることに関して日本史の問題を出すモコタロです
この事件は100年後に何と言われるでしょう? 答えは「桜田門外漢の変」です
昨日、夕食に「牛肉と椎茸のバター炒め」と「たまごスープ」を作りました 「牛肉~」は新聞に載っている「料理メモ」を見て作りました。簡単で美味しいです
昨夕、上野の東京藝大奏楽堂で第388回藝大定期演奏会を聴きました プログラムは①マーラー編曲「J.S.バッハの管弦楽作品による組曲」、②マーラー「交響曲第7番」です 指揮は東京シティ・フィル常任指揮者で東京藝大指揮科教授の高関健です
全席自由です。1階13列25番、右ブロック左通路側を押さえました。会場は8割以上は入っているでしょうか
開演を前に、6時15分から高関氏によるプレトークがあり、演奏曲目についての解説がありました マーラーの第7番は、ヤンソンス✕バイエルン放送響が演奏する予定だったのが、ヤンソンスが来日できなくなったことに伴い 曲目変更になったので、今回の藝大フィルハーモニアの演奏が今年 日本で唯一の第7番の演奏になるとのことでした
さて本番です。1曲目はマーラー編曲「J.S.バッハの管弦楽作品による組曲」です この曲はグスタフ・マーラー(1860-1911)がニューヨーク時代の1909年にバッハの管弦楽組曲第2番と第3番を合体して編曲した作品です 第1曲「序曲」グラーヴェ、第2曲「ロンド」~「バディヌリ」、第3曲「エール」、第4曲「ガヴォットⅠ」~「ガヴォットⅡ」から成ります 第1曲と第2曲が「管弦楽組曲第2番」から、第3曲と第4曲が「同第3番」から採られています
オケは左奥にコントラバス、前に左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンという対向配置をとります 2階正面にはパイプオルガン奏者がスタンバイします。プレトークで高関氏が語った通り、指揮者の前にはフルート・パートを強調するため、フルート奏者4名がスタンバイします。コンマスは植村太郎です
高関氏のタクトで第1曲が荘重に開始されます オリジナルの小編成による管弦楽組曲に聴き慣れた耳には、フルオーケストラによる演奏はゴージャスで、さすがはマーラーの編曲だな、と思います その上、パイプオルガンの音が管弦楽にかぶさるので、半端ない音量が押し寄せてきます しかし、楽器が多い分、透明感が失われてしまうように感じます しかし、マーラーは、この曲を手始めにニューヨークの聴衆にクラシック音楽を歴史を追ってシリーズで紹介していくことを考えたようですから、その意図を尊重すべきでしょう 分厚い響きを堪能しました
プログラム後半はマーラー「交響曲第7番」です この曲はマーラーがウィーン宮廷歌劇場監督時代の1904~05年にかけて作曲され、1908年9月19日にプラハで初演されました 次の5楽章から成りますが、第2楽章と第4楽章に「夜の音楽」というタイトルを付して、シンメトリーな構成になっています 第1楽章「ゆっくりと~決然と速く、しかしあまり急激でなく」、第2楽章:夜の音楽「ほどよく速く」、第3楽章「スケルツォ」影のように~流れるように、しかし、速くなく、第4楽章:夜の音楽「ゆったりと優しく」、第5楽章「ロンド・フィナーレ」最初のテンポ(正統的な速さで4拍子にとる)から構成されています
高関氏のタクトで第1楽章が開始されます 冒頭のテナーホーン(ワーグナーチューバのような形をしている)の演奏が素晴らしい クラリネットとトランペットは局面に応じてベルアップ奏法(楽器の先を持ち上げる)を見せます 第2楽章では、冒頭のホルンによる呼びかけと山びこのやり取りが素晴らしい 第3楽章は、初演以来「幽霊のようだ」とか「不気味だ」とか「グロテスクだ」とか言われてきましたが、第2楽章、第4楽章よりも もっと「夜の音楽」のように感じます 第4楽章は、いよいよギターとマンドリンが活躍します。これらはセレナードに欠かせない楽器です 今まで第7番をライブで聴いてきて、ギターとマンドリンの音がまともに聴こえた演奏は一つもありませんでした 残念ながら、今回の演奏もマンドリンはかろうじて聴こえたものの ギターはほとんど聴こえませんでした 奏者を見ながら聴いて思ったのは、オケの音を押さえるよりも、ギターをもっと強く弾くように求めるべきではないか、ということです。あくまでも素人考えですが
さて問題は第5楽章です 4楽章までの音楽はいったい何だったのか と言いたくなるような ティンパニの連打、金管楽器のファンファーレが轟き渡ります 第2楽章と第4楽章の「夜の音楽」の「夜」の意味は音楽的には「ノクターン」とか「セレナーデ」を意味しますが、その一方でドイツ圏では「死」を意味します それを全否定して歓喜の音楽が突然鳴り響くのですから、あまりの唐突さ、能天気さを感じます
私が一番最初に第7番のCDを買ったのはオットー・クレンペラー指揮ニューフィルハーモニア管弦楽団による演奏(1968年録音)でした このCDの総演奏時間は100分です。そのうち最後の第5楽章は24分です。これがしばらく私の第7番のスタンダードでした
その後、サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団のCD(1992年録音)を聴いてオッタマゲました 総演奏時間は77分で、そのうち第5楽章は18分弱です 他のCDも聴いてみましたが、どうやらクレンペラー盤が異常に遅いテンポによる演奏であることが判明しました
しかし、夜の音楽 ー ノクターン ー 死 という繋がりで考えると、第5楽章にきて唐突に喜びに満ちたスピーディーな演奏をするラトル盤よりも、喜びが前面に出ていない超スローテンポによるクレンペラー盤の方が作品の解釈としては正しいのではないか、と思ったりします 今回の公演プログラムに掲載されている高関氏のインタビューを読むと「1908年9月19日にプラハで行われたマーラーの第7番の初演時にはオットー・クレンペラーやクラウス・プリングスハイムが立ち会った」と書かれています そのクレンペラー(1885-1973)が指揮したのですから演奏に説得力があるはず しかし、その初演時クレンペラーは23歳でしたが、CD録音したのは83歳の時です この間60年もの年月が経過しています。これをどう捉えるかです 彼は指揮をするには歳を取り過ぎて耄碌したのでしょうか? 実際にクレンペラー盤のCDを聴いてみれば、そのあまりの遅さにのけ反ると思います
九州大学大学院の高坂葉月さんのプログラム・ノートには、「(第5楽章は)交響曲全体をみたときの唐突さ、首尾一貫性のなさ、あまりに明るく肯定的な音楽表現が『嘘っぽい』という否定的な見解を多くもたらした しかし1990年代以降になると評価は一変する。この曲の分裂的な要素や多くの曖昧な要素が、ポスト・モダンの思潮にかなって注目されるようになり、今日に至るまで、興味深い解釈が出され続けている」と書かれています
これに従えば、クレンペラーとラトルはまったく違う時代を生きていて、それぞれの時代背景の中でそれぞれの演奏スタイルでCD録音したのだと言えるでしょう
高関氏は、プレトークで「マーラーは他の交響曲を丸2年かけて作曲しているのに対して、第7番を比較的短期間に(1904年夏と1905年の夏から冬にかけて)集中して作曲していることから、モーツアルトで言えばディベルティメントやセレナードのように自由に作曲したのではないかと思う」と語っていましたが、なるほどそういう解釈も成り立つかな、と思いました
今回の高関健✕藝大フィルハーモニアの演奏は、そうしたことを加味した上で、速いテンポによる現代的な第7番の解釈によるものですが、国際マーラー協会との交流の中で、高関氏が楽譜の一部に改訂を加えた版により演奏されました
今回の演奏は、いつにも増して金管楽器と打楽器の健闘が目立ちました 第7番は演奏される機会があまりないので、これからはどんどん演奏してほしいと思います