人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

新国立オペラ2020-2021シーズン全公演チケット販売中止 / コロナで消えたベートーヴェン・イヤー / フランソワ・トリュフォー監督「隣の女」&「恋のエチュード」を観る ~ 新文芸坐

2020年06月10日 07時15分44秒 | 日記

10日(水)。わが家に来てから今日で2079日目を迎え、米CNNが8日まとめた世論調査で、11月の大統領選の民主党のバイデン前副大統領の支持率が55%となり、41%のトランプ大統領を大きく上回った  というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

     この結果に 功を焦ったトランプが 世界を巻き込んだ無謀な行動に走るのが心配だ

 

         

 

昨日、夕食に「野菜と挽肉のドライカレー」と「生野菜サラダ」を作りました ドライカレーは私の定番料理です。とても美味しいです

 

     

 

         

 

新国立劇場から「2020/2021シーズンオペラセット券の販売中止とお申し込み取り消しのお知らせ」が届きました 内容は「2020/2021シーズンオペラセット券は販売を中止し、全ての申し込みを取り消す。チケット代金は2カ月後を目処に決済口座に戻す。手元のシーズンチケットは無効となる。各自で処分してほしい。2020/2021シーズン全オペラ主催公演は、会員先行期間に先がけて特別販売日を設けることを検討中。スケジュールが決まり次第案内する」というものです

今回の措置に至った理由として「新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言は解除されたが、全国公立文化施設協会が作成した新型コロナウイルス感染拡大予防ガイドラインにおいて、劇場における公演再開のための要件の一つとして、前後左右を空けるなど感染予防措置がとれる座席配置とすることが求められている また、政府が示す催物の開催制限等に係る目安においても本来の客席数の50%以内の収容率等で実施することとされている 加えて内外における感染拡大のリスクは払拭できず、新シーズンの各公演について全て予定通り確実に実施できるかどうか、現時点では不透明な状況である 以上のことから、公演を再開するに当たり、通常の配席プランで『シーズンセット券』を販売することは困難と判断し、セット券の販売は中止することとした」と説明しています

私は2002/2003年のシーズンから新国立オペラの会員(プルミエ=初日公演)になっていますが、こんなことは初めてです 私としては、通常のコンサートよりもオペラを観たいというのが一番の希望なので、本当に残念です しかし、コロナには勝てません。一日も早く通常の公演が開催できることを祈るばかりです

 

     

 

一方、NHK交響楽団からは、7日(日)に申し込んだばかりのN響2020/2021シーズンのCプログラム(東京芸術劇場)の年間チケット9枚が送られてきました こういうところはN響は素早いです それは良いのですが、9月、10月公演は予定通り実施できるのでしょうか? そちらが心配です

 

         

 

8日の朝日夕刊のコラム「取材記」に、編集委員の吉田純子さんが「コロナで消えたベートーヴェン・イヤー 誰もに与えられた自問の時間」と題するエッセイを寄せていました 超訳すると、

「もはや誰も言わなくなってしまったが、今年はベートーヴェン・イヤーである 生誕250年。様々な企画が世界中で用意されていた。それがほとんど新型コロナウイルスの影響で中止になった 結果としてベートーヴェンは大量消費を免れた。今は誰もが自分の居場所でベートーヴェンと1対1になり、『人生とは、世界とは』と自問する時間を与えられている クラシック界の風雲児、テオドール・クルレンティスとムジカエテルナは、交響曲第5番『運命』の最新の録音に、こうした過渡期の精神風景をくっきりと刻印した 冒頭の苛烈な『ダダダダーン』を、彼らはするりと駆け抜ける。第1楽章だけで、通常の演奏より1分ほど短い 思索を強要する暑苦しい名演を聴き続けてきた身には不意打ち感が半端ない この推進力の源は、奏者一人一人の『振り返らない』という強い意志にある。押しつけられた、たったひとつの『運命』など信じない。揺るぎない『個』を束ねたその先にこそ、真の連帯があるのだと 一定の距離を置いてCDで聴くからこそ、熱狂のなかで思考停止せず、彼らの音に潜むポストコロナの予兆に心を澄ませることもできる 以前の生活に戻りたい?  それはムリだよ。僕たちはもうすでに、新しい日常に足を踏み入れているんだからーー。そう言って彼らは逡巡する我々の手をぐいと引く。その先にひらける未来の姿には、私たち自身が目をこらすしかない

ベートーヴェン・イヤー 私の場合は今月の「サントリーホール  チェンバーミュージック・ガーデン」だけでも、アトリウム弦楽四重奏団による「弦楽四重奏曲全曲演奏会」、葵トリオによる「ピアノ三重奏曲全曲演奏会」を聴く予定でしたが、これらの公演を含めて、いくつものベートーヴェンのコンサートが中止になってしまいました 2月末から今日に至るまで、コンサートの中止ドミノが続く中で、「人生とは」「音楽とは」と自問する毎日が続きます 3つの目標のうち「読書」はコロナに関わらず毎日こなしています 「映画」は映画館再開に伴ってペースが戻ってきました しかし、生のコンサートが戻ってこない限り、私にとっての「日常」は戻りません 一日も早く「日常」を取り戻したいと思います

 

         

 

昨日、池袋の新文芸坐でフランソワ・トリュフォー監督「隣の女」と「恋のエチュード」の2本立てを観ました

「隣の女」はフランソワ・トリュフォー監督による1981年フランス映画(107分)です

ベルナール(ジェラール・ドパルデュー)とアルレット(ミシェール・ボームカルトネル)の夫妻と息子のトマが暮らす家の向かいに、マチルド(ファニー・アルダン)とフィリップ(アンリ・ベッカール)の夫婦が引っ越してきた 実はベルナールとマチルドはかつて恋人同士だったことから、お互いに気まずい思いを抱いていた しかし、家が隣同士で逃げることも出来ず、二人は昔のように密会し深い仲になっていく ある日、マチルドとフィリップが旅行の出発前に開いたパーティーで、ベルナールはマチルドに強引に迫り、二人の関係は衆目の知るところとなった 苦悩するマチルドは神経症の発作で入院し、誰に対しても心を開かなくなった 一方ベルナールは妻の妊娠を知り、付きっ切りとなった。ある晩、ベルナールは空家となった隣家から物音を聞き、行ってみるとマチルドが待っていた 二人は再び愛し合ったが、その最中、マチルドは拳銃でベルナールの頭を撃ち抜き、次に自分の頭を打ち抜いた

 

     

 

この映画を最初に観たのは、80年代はじめに日本での公開にあたって開かれた試写会でした 日本新聞協会は10月の新聞週間に「新聞週間記念の集い」というイベントを開いていますが、当時は最初に「記念公演」があり、その後に映画の「試写会」があるのが通常のスタイルでした 会場は日比谷公会堂だったと思います。その時一番印象に残ったのは、冒頭と最後の、救急車が街中を走っていくシーンです 今回、何度目かにこの映画を観て、あれっ?と思ったのは、冒頭のシーンでは、救急車はサイレンを鳴らしていないのです 私はてっきり冒頭も最後もサイレンを鳴らしているとばかり思っていました 記憶というのは曖昧なものです

それにしても、ベルナールという男は諦めの悪い奴だと思います 懲りない男と言ってもいいかもしれません 恋は盲目とは良く言ったものです

最後に、この物語の語り手であるテニスコートの管理人で、マチルドとベルナールの恋を陰で見守っていたマダム・ジェーヴが、2人の墓碑銘として次の言葉を語ります

「あなたと一緒では苦しすぎる。でもあなたなしでは生きられない」

この言葉はベルナールとマチルドにピッタリです

 

         

 

「恋のエチュード」はフランソワ・トリュフォー監督による1971年フランス映画(106分)です

この映画は、20世紀初頭のパリを舞台に、15年の歳月にわたり再会と別離を遍歴するイギリス人姉妹(アンヌとミュリエル)とフランス青年クロードの愛と苦悩を描いた作品です

イギリスに住む姉妹の家に住み込むことになったクロード(ジャン=ピエール・レオ)は、姉アンヌ(キカ・マーカム)と妹ミュリエル(ステイシー・テンデター)の両方に恋をするが、アンヌが身を引いてクロードとミュリエルが結婚することになる しかし、1年後にも愛が冷めていなければという条件が付く その間、クロードは女流画家との情事にふけりミュリエルのことを忘れてしまう 彼は別れの手紙を書き、ミュリエルから承知したという返事が届く 美術関係の仕事を始めたクロードは、パリで彫刻の勉強に励むアンヌと再会し、スイスの貸別荘で結ばれる 女として目覚めたアンヌは男たちに言い寄られるようになり、ディウルカというスラブ人とペルシャに旅立つ 一方、ミュリエルは日曜学校の先生になり子供たちを教えていた アンヌがミュリエルにクロードとの関係を告白すると、彼女はショックで失神してしまう ミュリエルはクロードに、姉妹で同じ同じ男を恋し、いまも愛する悲運を嘆いた手紙を書く これを読んだクロードは絶望に沈んだ。その後、アンヌは病に倒れ息を引き取った。クロードはミュリエルに会いに行き、ホテルで愛し合った しかし彼女は 結婚しようというクロードの申し出を断り、翌朝彼の元を去った。出会いから15年が過ぎていた

 

     

 

この映画を観るのは3度目か4度目だと思いますが、今回あらためて着眼したのは、通信手段としての手紙です 舞台が20世紀初頭のパリということなので、通信手段は手紙しかありません この映画では主にクロードとミュリエルとの間で頻繁に手紙のやり取りが交わされますが、21世紀の現在ならケータイやスマホで電話したりメールしたりすることで、瞬時に用件を相手に伝えることができます しかし、手紙を書くしかない時代では、相手に届くまでの時間差、そして相手から返事が届くまでの時間差が生まれます。当時は電話がないので、手紙の「行間を読む」という高度な技術も必要とされます そこに「誤解」や「読み違い」も生じることになります

でも、よく考えてみれば、電話やメールだって、相手に誤解を生じないようにストレートに気持ちが通じることは稀なケースかもしれません

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