【ヒロシマの空白】忘れられた死者 大半が名もなき7万体 気付かなかったポスターの「はるさん」

2020年08月06日 15時46分51秒 | 社会・文化・政治・経済

8/3(月) 14:02配信
中国新聞デジタル
 1945年8月6日、米軍の爆撃機が人類史上初めて、都市に原爆を投下した。「約14万人」は、早い時期の広島原爆の犠牲者数とされるが推計値にすぎず、「±1万人の誤差がある」とも言われる。街全体が壊滅し、死者の把握もままならなかった。一人一人の犠牲者、焼け落ちた街並み、断ち切られた日常…。歴史に埋もれた「ヒロシマの空白」と、75年後の今、向き合いたい。

 平和記念公園内の原爆供養塔は、中が地下納骨室になっており「約7万体」が安置されているという。大多数は、誰なのかも分からない。しかし取材班は今年、1体の遺骨の身元を割り出し、遺族につないだ。手掛かりは、一枚のポスターだった。

■納骨室の「鍛治山はる」と、追悼平和祈念館にある遺影の「梶山ハル」

追悼平和祈念館に登録された梶山ハルさんの遺影を前に、「返還に向けて話し合いをしたい」と語る修治さん。ハルさんのひ孫に当たる

 直径16メートルのボウルを伏せたような形で、別名「土まんじゅう」。原爆供養塔にある7万体のうち、ごく一部の814体には骨つぼなどに名前が書かれている。広島市は毎年夏、納骨名簿のポスターを刷り、全国に配布しているものの引き取り手はなかなか現れない。

 一方、同じく公園内にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館は、遺族から登録申請された死没者約2万3千人分の名前や遺影などのデータを公開している。同館の協力を得て、一人一人の遺影と名前に目を通していった。気が遠くなる思いになりかけた時、「皆実町3丁目(現広島市南区) 梶山ハル」さんに目が留まった。

 納骨名簿のポスターと照合すると、「皆実町三丁目 鍛治山はる」さんがいる。もしや同一人物では―。

 市内に住むハルさんの孫武人さん(83)の所在を突き止めて、会うことができた。「漢字は違うが、祖母に間違いないだろう。引き取って墓に入れてあげたい」。両手で顔を覆い、おえつを漏らした。

 梶山家は、広島駅からすぐ近くの愛宕町(現東区)で餅の製造・販売店を営んでいた。1945年春、戦況の悪化で生活は厳しくなり、父小市さんは家族で旧満州(中国東北部)へ渡る。しかし広島女子高等師範学校付属山中高等女学校に通っていた4歳上の姉初枝さんは「勉強を続けたい」と懇願し、ハルさんと皆実町3丁目の親族宅に身を寄せることにした。

 広島駅での別れ際、ハルさんは重箱に詰めたおむすびを持たせてくれた。初枝さんは、動きだした列車を追って「手を振りながらホームをタッタ、タッタと走り見送ってくれた」。武人さんにとって、姉との永遠の別れとなった。

 武人さんたちは翌46年6月、命からがら旧満州から引き上げてきた。広島にたどり着いて初めて、2人が行方不明のままだと知った。武人さんの母瀧子さんは、義母とまな娘の悲報に泣き崩れた。
■「あの子の涙忘れる事わ出来ない」母の後悔

名前が分かっている原爆供養塔の遺骨814体の名簿ポスター

 2011年に98歳で亡くなった瀧子さんは、生前にこう書き残している。義母ハルさんは実母のような存在で、「主人が養子かと言われるほど仲良く仕事にはげんだ」。広島駅での初枝さんの姿を思い「あの子の涙忘れる事わ出来ない なぜ連れて行かなかつたかくやまれてならない」。

 その瀧子さんが、生前に2人の遺影を追悼平和祈念館に登録していた。武人さんの長男の修治さん(54)=広島県府中町=は「祖母の瀧子はずっと(2人のことを)気にしていました」と振り返る。

 約7万体の遺骨が収められていると言われる原爆供養塔は、市が管理している。同じ公園内にある追悼平和祈念館は国の施設だが、市の公益財団法人が管理・運営を受託している。双方の情報を連携させていれば、もっと早く「漢字違い」に気付いたかもしれない。納骨名簿についても、周知すべきだろう。武人さんはポスターの存在を知らなかったという。

 ポスターをきっかけに遺骨が遺族に返還されたケースは、最近10年間で2件。3件目が決まれば、納骨名簿は813人になる。

■行方分からず捜し続けた、遺骨もない12歳の息子

旧広島一中の場所

 原爆供養塔に安置された遺骨のうち、骨つぼなどに名前が書かれている814体の遺骨に対して、圧倒的多数は名前もなく、身元の手掛かりはない。遺族の元に返すことは事実上、難しい。遺骨の数だけ、引き裂かれたままの遺族の悲しみがある。

 「杜夫、あなたは今どこにゐ(い)る」「火を潜っても貴方(あなた)に逢ひ度(た)い一心」―。広島市中区の原爆資料館は、三重野松代さん(1982年に82歳で死去)の自筆の日記を所蔵する。75年前の夏、12歳だった息子を捜し求めて焦土を歩いた日々をつづる。

 広島県立広島第一中学校(現国泰寺高、中区)1年だった長男杜夫さんは8月6日朝、「行って参ります」と学校近くでの建物疎開作業に出て、原爆の熱線に襲われた。

 市中心部から巨大な雲が上がっていく。松代さんは、杜夫さんを捜しに郊外の井口村(現西区)の自宅を飛び出した。たどり着いた校舎は跡形もない。生徒たちの亡きがらが横たわっていた。「殆(ほと)んど全裸になって火傷(やけど)を負ひ瀕死(ひんし)の状態に在(あ)る方をも、すでに息を引き取ってゐる方をも、貴方と同じ年格好の人と見れば一人一人近よって」みたが「火傷で容貌が全然わからない」。

 8日夜になって知人づてに「鶴見橋の東側にいたのを見た」と聞いた。顔や胸にやけどを負って倒れ、「お水が欲しい」と請うていたという。鶴見橋に近い比治山橋までは捜したのに、そこから先へと行かなかった自分を責めた。「足を伸ばさなかった後悔、貴方に申訳(もうしわけ)なくて、胸を八裂(やつざき)にされるやうです…かんにんして、許して、頑張ってゐ(い)て」
■「三重野杜夫」と記した半紙 燃やして「火葬」
 鶴見橋に駆け付けると、すでに負傷者は軍に収容されていた。夫の定夫さんが市沖合の似島や金輪島にも足を伸ばして捜したが、見つからない。9月21日、半紙に「三重野杜夫」と書いて燃やし、葬儀とした。

 絞り出すように言葉を紡いだ、母の日記。2004年、杜夫さんの姉の茶本裕里さん(90)=東京都東村山市=が原爆資料館に託した。自身は当時、県立広島第一高等女学校(現皆実高)4年。その日自分は休みだったが、市中心部での建物疎開に動員されていた1年生223人が全滅した。

 父定夫さんは海軍の軍人で、一家は1945年春に神奈川県から一時転入したばかりだった。「杜夫がどこかにいると思うと、広島から離れられなかった」。戦後10年以上、地縁のなかった広島にとどまった。「弟は笑顔にあふれ、両親に愛された子でした。わが子の遺骨すら帰ってこない親の悲しみが癒えることは決してありませんでした」

    ◇

 この記事は中国新聞とYahoo!ニュースによる連携企画記事です。被爆から75年となり、被爆者の高齢化も進む中、次世代に何をどうやって伝えていくのか、地元メディアの目線から考えます。

中国新聞社

 

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核廃絶へ「連帯」を 平和宣言、核禁条約の批准要請 75回目、広島原爆の日

2020年08月06日 15時35分58秒 | 社会・文化・政治・経済

配信

75回目の広島原爆の日を迎え、祈りをささげる女性。奥は原爆ドーム=6日午前、広島市中区の平和記念公園

 広島は6日、75回目の原爆の日を迎えた。  

広島市中区の平和記念公園では、市主催の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が開かれ、被爆者や遺族、安倍晋三首相ら785人が参列。松井一実市長は平和宣言で、日本政府に「世界中の人々が被爆地ヒロシマの心に共感し『連帯』するよう訴えていただきたい」と要請し、核兵器禁止条約の批准を求めた。

〔写真特集〕1945年8月~被爆した広島、長崎~

 式典には、83カ国と欧州連合(EU)の代表が参列。

原爆が投下された午前8時15分には、マスクを着用した遺族代表らが「平和の鐘」を打ち鳴らし、1分間の黙とうをささげた。

 松井市長は宣言で、新型コロナウイルスの脅威を乗り越えるためにも世界が連帯する重要性を強調。今の平和な広島があるのは先人が苦難に立ち向かった成果とし、「これからの広島は、世界中の人々が核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて『連帯』することを市民社会の総意にしていく責務がある」と訴えた。  

世界の指導者に対しては、核軍縮への建設的対話を継続し、核に頼らない安全保障体制構築に向け全力を尽くすよう求めた。

 安倍首相はあいさつで、「非核三原則を堅持し、核兵器のない世界の実現に向けた国際社会の取り組みをリードする」と述べた。  

参列予定だった国連のグテレス事務総長はビデオメッセージを寄せ、「核兵器の危険を完全に排除する唯一の方法は、核兵器を完全に廃絶することだ」と述べた。  

式典では、松井市長と遺族代表2人が、この1年間に死亡が確認された4943人の名前を記した原爆死没者名簿を慰霊碑に納めた。犠牲者は32万4129人となった。被爆者健康手帳を持つ人は今年3月末時点で全国に13万6682人で、平均年齢は83歳を超えている。  

今年は新型ウイルス対策として、式典参列者席を例年より大幅に縮小し、平和宣言後の放鳩もしなかった。式典中の合唱や吹奏楽団の演奏をとりやめ、高校生計4人が被爆ピアノの演奏と歌唱を行った。 

 

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東京都で新たに360人感染確認 10日連続200人超え

2020年08月06日 15時33分25秒 | 社会・文化・政治・経済

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FNNプライムオンライン

東京都できょう、新たに360人が新型コロナウイルスに感染していたことが確認されました。 都内の1日の感染者数は、これで10日連続で200人を超えた事になり、300人を超えたのは2日ぶりです。

【画像】東京都直近1カ月の感染者数推移

小池知事はこのあと会見し、お盆の帰省を控える事などを呼び掛ける方針です。

 

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あまりに強すぎる藤井聡太棋聖(18)王位戦七番勝負、一気呵成の3連勝で王位獲得まであと1勝

2020年08月06日 15時06分13秒 | 社会・文化・政治・経済

百折不撓・木村一基王位(47)低い陣形で藤井聡太挑戦者(18)の動きを待つ 王位戦第3局2日目


松本博文 | 将棋ライター
8/5(水) 19:41

8月4日・5日。兵庫県神戸市・中の坊瑞苑において王位戦七番勝負第3局▲藤井聡太棋聖(18歳)-△木村一基王位(47歳)戦がおこなわれました。

 4日9時に始まった対局は5日19時22分に終局。結果は149手で藤井挑戦者の勝ちとなりました。藤井挑戦者はこれで3連勝。あと1勝で王位のタイトル獲得となります。

 第4局は8月19日・20日、福岡市・大濠公園能楽堂でおこなわれます。

 藤井棋聖は王位獲得となれば史上最年少での二冠達成。そして史上最年少での八段昇段となります。

 藤井挑戦者の寄せには、珍しく抜けがあったようです。そのミスを呼び込んだのはもちろん、耐え難きを耐え続けた、木村王位の不撓不屈の粘りがあればこそでしょう。

「悪手は悪手を呼ぶ」

 という言葉があります。将棋では一度悪手を指して形勢を損なうと、気落ちしてさらなる悪手を指し、ガタガタになることがあることがあります。

 勝勢から勝敗不明に巻き戻った最終盤。藤井挑戦者は立て直すことができるかどうか。将棋指しの真価は、こうした場面で問われるようです。

 はたして――。

 藤井挑戦者は崩れませんでした。再び冷静に、寄せの網を再構築していきます。

 おそらくは最終盤、木村王位にもチャンスがめぐってきたものと思われます。しかし時間が切迫する中、はっきりと逆転を果たすことはできませんでした。それもまた、藤井挑戦者が崩れなかったためでもあります。

 いつしか再び、木村玉は受けが困難となりました。

 持ち時間8時間のうち、7分を残していた木村王位。142手目を指すのにすべての時間を使い切り、あとは一分将棋です。

 残り2分の藤井挑戦者。時間が切迫しながらも、3分、あるいは2分と、わずかながら余裕を残しているのが、毎局共通して見られる、藤井流時間マネジメントのようです。

 147手目。藤井挑戦者は飛車を切って香を取ります。飛車を取り返されれば、手にした香を木村玉に打って詰みです。

 秒を読まれながら、木村王位は藤井玉の下から金を打ち、王手をかけます。

 藤井挑戦者は玉をかわしました。自玉に詰みはなく、相手玉は受けなしです。

 木村王位はグラスを手にして、冷たいお茶を口にしました。

「いやあ・・・」

 ABEMA解説の行方尚史九段は、そうため息をつきました。

「負けました」

 秒読みの声を待つことなく、木村王位はよく通る声で投了を告げました。藤井挑戦者も一礼を返して、149手の熱戦に終止符が打たれました。

 あまりに強い藤井挑戦者。一気呵成の3連勝で、王位獲得まであと1勝としました。
 

百折不撓(ひゃくせつふとう)の意味・使い方。

何度失敗して挫折感を味わっても、 くじけずに立ち上がること。
どんな困難にも臆せず、初めの意志を貫くこと。


朋友も感動する“百折不撓”木村一基王位、根性の受け「這いつくばってるんですよ」「この執念でおれは生きてきたって感じ」

2020年08月06日 14時47分16秒 | 社会・文化・政治・経済

8/6(木) 11:01配信
ABEMA TIMES

木村一基王位

 華々しい活躍を見せ続ける天才棋士と盤を挟んだベテランが、その一手に生き様を見せた。8月4、5日に行われた王位戦七番勝負の第3局。最年少タイトルホルダー藤井聡太棋聖(18)が最年少二冠・八段昇段に王手をかける勝利を手にしたが、対局後のインタビューでは「負けにしてしまったかもしれないと思っていました」と反省をした。藤井棋聖が大優勢の局面から一転、互角以下に追い込まれたのは、“千駄ヶ谷の受け師”木村一基王位(47)による根性の受けがあったからこそ。100回折れてもまた立ち上がる。そんな精神の持ち主が放った一手に、解説を務めた朋友の棋士も感動の声をあげた。

【動画】木村一基王位が大劣勢から一時逆転した局面

 大劣勢、あと少しで敗勢というところまで追い込まれていた木村王位。多くの棋士が「受け続けていてもダメ」と開き直り、玉砕覚悟で攻めの手を選択する中、木村王位は駒台に乗っていた攻めの手がかりとなる銀を、自陣に打ち込んだ。さらに攻め込まれるのは承知で、剣ではなく盾を選ぶ。忍耐以外の何物でもない。そんな決断だった。

 自陣への銀打ちを見た瞬間、驚きと感動の言葉を発したのが、行方尚史九段(46)だ。木村王位とは同学年。幼いころから切磋琢磨し、盤を離れれば、いろいろな話を肴に酒を酌み交わす。共に厳しい将棋の世界を生き抜いてきた間柄だ。木村王位が何度も頭を抱え、額に手をあて、ようやく決めた耐える一手。これに行方九段は「うおぉ…」とうなると、「これはすごいな。木村印だ…。これこそですよ。いやー、地べたに這いつくばっているんですよ」と続けた。

 少し時間を置いて、この手の意味を改めて語り始めた。「ここに銀は使えない。耐え難きを耐える。そのひとこと。そういう精神があるから木村は強いんです。この銀を打てる人はめったにいない。藤井棋聖も、これを指せる人と指したことがないんじゃないですかね。この執念でおれは生きてきたって感じがします」と、一気に吐き出した。
 木村王位ほどの実力者ともなれば、自分が大劣勢であることはすぐにわかる。この状況で戦い続けることは、勝ち目は薄いが“まさか”がある斬り合いよりも苦しい。むしろその方が、チャンスがあると思う人もいるかもしれない。それでも受ける。その先にわずかな勝機があるかもしれない。実際、対局後に木村王位は「諦めちゃいけないなと思ってやりました」と語った。イベントや解説での軽快なトークでも人気を誇るベテランだが、何よりもその戦い様に惚れるファンは、とても多い。行方九段が代弁したこの思いに、ABEMAの視聴者コメント欄にも「おじさん感動だよ」「おじおじの受けの意地を見ました」「これぞ木村王位 よく指してくれた」と共感する声が殺到した。

 この根性の一手は、瞬間的に実る。藤井棋聖の寄せの一手をきっかけに、形勢は一気に互角、さらには木村王位にやや有利とも言えるところまで急変。ただ、勝利の女神は木村王位には微笑まなかった。対局後の感想戦、自分に勝ちの可能性もあったことを知ると、第2局で逆転負けを喫した時と同じく「そうかぁ…」と無念そうにつぶやいた。

 昨年、苦節23年目にして、初めて王位でタイトルを獲得した際には、苦労をかけた家族への思いも溢れ、涙にくれた。この喜びにたどり着くまで、どんな逆境にも逃げず、受け、耐え、そして勝ってきた。今回のシリーズは、開幕からの3連敗で後がなくなった。それでも木村王位は、この一局でも根性の受けが勝機につながったことを知っている。だから、同じように追い詰められても、また強く受ける。

 

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初めて座った被爆者席 「黒い雨」判決で変わった気持ち

2020年08月06日 14時32分02秒 | 社会・文化・政治・経済

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式典前、原爆死没者慰霊碑の前に足を運んだ高東征二さん。「仲間のために手を合わせにゃいかんと思って」=2020年8月6日午前6時57分、広島市中区の平和記念公園、新垣卓也撮影

 平和記念公園に設けられた被爆者・遺族席。初めてそこに座った高東(たかとう)征二さん(79)=広島市佐伯区=はじっと目を閉じ、被爆者と認められず亡くなった人たちの顔を思い浮かべた。「みんなのおかげで、やっと風穴を開けられたよ」

【写真】原爆供養塔の前で手を合わせる人たち=2020年8月6日午前4時57分、広島市中区、柴田悠貴撮影

 7月29日、広島の原爆投下後に降った「黒い雨」による健康被害をめぐる集団訴訟の広島地裁判決で、高東さんは「被爆者」と認定された。

 75年前、観音村(現・広島市佐伯区)の自宅にいた。突然の閃光(せんこう)と爆音。空は薄暗くなり、焼けた紙切れが飛んできた。その後、リンパ節の腫れや手足のできものに悩まされた。  

同級生からの相談をきっかけに、放射能の影響とみられる病に苦しむ人々の話を聞いて回った。2002年、地元で「黒い雨の会」を発足。訴訟を支援する会の事務局長も務める。  

国の援護を受けられないまま死んでいく人たちを見てきた。被害を訴えた18年間、「その人たちの代弁者」として生きてきた。  

今年、式典には参列しないつもりだった。「会場には国の人がおる。いら立つでしょ」。でも、判決で気持ちが変わった。  

自身も高血圧性心疾患を患う。司法の場で、原爆によるものと認められ、初めて迎える8月6日。「自分は間違ってなかった。やっと確信が持てました」(新垣卓也)

朝日新聞社

 

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イソジンが早くも高額転売!吉村氏推奨で全国で品薄

2020年08月06日 14時25分53秒 | 事件・事故

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大阪府の吉村洋文知事、大阪市の松井一郎市長が4日、新型コロナウイルス感染拡大防止のために、市販のうがい薬によるうがいを呼び掛けた。 吉村氏は府内の宿泊療養施設に入所している軽症、無症状患者約40人がイソジンなどポビドンヨード配合の、うがい薬でうがいをしたところ、陽性率の低下が確認されたとした。
ただ、低下したのはあくまで唾液検査での陽性率。体内のウイルスに効果があるかは不明だが、この会見後、イソジンなどが店頭から消え、ネット上で高額転売されている。    ◇   ◇   ◇

大阪府の吉村知事は会見で「薬事法(医薬品医療機器法)で効果がある、とは言えない」と、何度も繰り返しながらもイソジンなど殺菌効果のある、うがい薬に期待を込めた。

吉村氏によると、6月から7月にかけて府内の宿泊施設で療養していた軽症、無症状の患者約40人を対象として、ポビドンヨードが配合された、うがい薬で1日に4回、うがいをしてもらった。うがいをした患者は、4日目に唾液のPCR検査を行ったところ陽性率が約9%となり、これに対し、うがいをしなかった患者の陽性率は約40%だった、とした。 会見に同席した大阪府立病院機構「大阪はびきの医療センター」で次世代創薬創生センター長を務める松山晃文氏は「唾液のウイルスを減らすことで、家庭での身近な人どうしの感染などを減らす効果があるのではないか、と期待している」とした。大阪府では、軽症や無症状の患者を対象に1000人規模の本格的な研究を進め、効果を検証する計画だ。 この会見直後からイソジンなどの、うがい薬を買い求める人が、またたく間に全国に拡散した。イソジンなどのうがい薬はドラッグストアやコンビニの店頭から消えた。午後4時台に東京・杉並区のドラッグストアでは「1家族1本まで」と張り紙がされた、うがい薬があっという間に売り切れていた。

「入荷の予定が立たない」というドラッグストアもある。東京・千代田区の衆院議員会館内の薬局も会見直後に「まとめ買いされた」と完売だった。

早くもネット上で「転売ヤー」が横行している。ネット通販ではうがい薬の売り切れが続出し、フリマアプリの「メルカリ」では実勢価格1000円台のうがい薬が6000円と相場の6倍以上の高値で完売していた。

吉村知事は「くれぐれも買い占めたりしないでほしい」と訴えたが、イソジンなどのうがい薬は、マスクなどの転売規制の対象外だけに転売は止まりそうもない。【大上悟】

 

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新型コロナ うがい薬、高額転売続出 大阪知事が推奨、定価の6倍も

2020年08月06日 14時24分20秒 | 事件・事故

毎日新聞

 「自宅で保管していたやつですけど、出品します」「未使用です」――。

複数のフリマサイトでは、4日のうちに出品が相次ぎ、ある商品は定価(1本1080円)の3~6倍程度の値が付いた。1本3500円で売買が成立したとみられるケースもあった。


メルカリ、うがい薬の高額転売に対応検討 医薬品の違法出品は削除中

2020年08月06日 13時46分45秒 | 事件・事故

2020年08月05日 12時20分 公開
[安田晴香,ITmedia]

メルカリは8月4日、無許可販売が規制されている医薬品うがい薬の出品がフリマアプリ「メルカリ」で相次いでいる件について、該当する出品を順次削除していると明らかにした。

合法の医薬部外品の出品についても、市場価格と著しく異なる高額商品は削除などの対応を検討しているという。

 大阪府が医療機関らと8月4日に開いた共同会見で、消毒薬として用いられるポピドンヨードを含むうがい薬の新型コロナウイルスへの影響に言及。会見直後から、うがい薬がメルカリなどのフリマアプリに多数出品された。その中には、医薬品医療機器等法で無許可販売が禁止されている医薬品うがい薬「イソジン」なども含まれていた。


熱線浴びた人「人間の姿ではなかった」 若い人に託す、75年秘めた被爆の記憶

2020年08月06日 13時46分45秒 | 社会・文化・政治・経済

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「私は幸運だったから」と胸に秘めてきた被爆体験を語る土本暁さん=神戸市北区(撮影・斎藤雅志)

 広島の原爆投下から6日で75年になる。14歳で学徒動員中に被爆し、多くの命が失われた爆心地周辺をさまよった土本暁(あきら)さん(89)=神戸市北区=は初めて取材に応じた。

「人間の姿ではない」。赤く腫れた顔に手足の皮膚はだらんと垂れ下がり、体液がにじんだ肌。熱線を浴びた人の命が消える瞬間を目の当たりにした。

「家族も無事で、自分は幸運だったから」と胸に秘めてきたが、被爆の記憶が風化する今、「自分の経験を何か役立ててほしい」と願っている。

(井上 駿) 1945年広島、15歳の夏 父の遺体抱きしめ  

75年前の8月6日、午前8時15分。旧制広島第二中学校の3年だった土本さんは、「広島二中報国隊」として、広島市の南西にあった工場に学徒動員され、リヤカーを引いていた。

 「ピカッ」。青白い光に包まれた後、工場の屋根越しにオレンジ色の巨大な火柱が上がり、空が赤く染まった。その様子を「美しい」と感じた瞬間、爆風とともに工場の部材が吹き飛んだという。青空の中を、巨大なきのこ雲がむくむくと広がっていくのを、ぼうぜんとして眺めていた。  

「街がやられている」。担任から告げられ、自転車で急いで自宅に向かった。見慣れた街並みは爆風で吹き飛ばされ、つぶれた家に閉じ込められた人々の救助活動が続けられていた。  

だが、爆心地から2キロ付近の御幸橋付近から様相は深刻になる。熱線を浴びて髪は逆立ち、顔はふくれ、皮膚を焼かれた被爆者があちこちでうめき声を上げていた。「土煙の中で幽霊がさまよっているようだった」と述懐する。  

爆心地から約1・5キロ地点にあった川沿いの自宅に着いたのは昼下がり。すでに焼けた後だった。

 川のほうに目をやると、小舟に両親の姿があった。当時、訪ねてきた知人の高齢男性とともに自宅内で被爆したため、熱線からは免れ、火が回る前に倒壊した自宅の中から脱出できたという。だが、窓のそばにいた知人はまともに浴び、亡くなった。  

「両親の身代わりになってくれたとしか思えない」と土本さんは回想する。  その後の記憶は途切れ途切れだ。同じ中学校では、約300人の生徒が亡くなり、街じゅうの至る所で黒焦げになった死体を見た。

 土本さんは終戦後の夏の終わり、原爆症とみられる症状に苦しんだ。40度の熱が続き、髪が抜け落ちて痩せ細った。母が配給の塩と交換したイチジクを食べさせてくれた記憶が残る。

■  土本さんは猛勉強の末、東京大に進学。「平和産業に携わりたい」と大手セメント会社に就職。会社経営にも携わり、70歳まで働き、退職後に神戸市北区に転居した。8月6日が来るたび、平和記念式典をテレビで見て、手を合わせてきた。

 一方で、「家族は無事で大病もなかった。幸運だった」として、被爆体験は進んで周囲に話さなかった。  

2004年にがんの疑いで50日近く入院した際に思い立ち、戦後60年に合わせて1万2千字の手記を残し、広島市内にある資料館と知人に送っている。長男の剛(つよし)さん(60)によると、19年12月に神戸市内で出演した講演会が被爆体験を語った唯一の機会だったという。

 厚生労働省によると、20年3月末時点で、被爆者の平均年齢は83・31歳。土本さんも3年前に妻を亡くし、現在は同市北区内の老人ホームで過ごしている。  「老いてしまい、伝える機会も持てないが、どうにかして、私の経験を若い人に託したい」

 

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「そこは虐殺の海だった」 7歳で被爆した日系アメリカ人が語り継ぐヒロシマの記憶

2020年08月06日 13時42分22秒 | 社会・文化・政治・経済

8/6(木) 0:01配信
FNNプライムオンライン


75年前、ヒロシマには多くの日系アメリカ人がいた

「炎に包まれた町では火傷を負った人が水を求めてさまよい、大勢の人が亡くなって倒れていました。私は“虐殺の海”の中を歩いて逃げたのです」

【画像】命は助かったが、髪は抜け下痢の症状に苦しんだ蠣田さん 祖父と兄と共に

82歳のハワード・弘・蠣田(カキタ)さんは今でもはっきりと75年前のことを覚えている。

アメリカ・ロサンゼルスで生まれた日系3世。蠣田さんは広島に住む祖父母の家に滞在中、被爆した。戦前、広島からアメリカへ渡った日系移民の子供たちは日本語や日本文化を学ぶため、また、親戚を訪ねるなどの目的で日本に里帰りしていた。

開戦当時、広島にはおよそ3000人の日系アメリカ人がいたと推定されている。蠣田さんもその1人だ。人類史上初めて原子爆弾が使用されてから今年で75年。戦争に翻弄されながらも生き抜いて来た日々を語ってくれた。

7歳の少年が見た原爆
1940年、祖父の見舞いでアメリカから広島を訪れた蠣田さん一家。その後両親は仕事のためアメリカへ戻り、蠣田さんは2つ年上の兄とともに祖父母の家で暮らしていた。広島に原爆が投下された1945年8月6日、当時蠣田さんは7歳で、国民学校の1年生だった。

ハワード・弘・蠣田さん:
「その日は敵機が近くにいるからということで学校は休みになり、家にいました。離れの平らな屋根の上では祖母が洗濯物を干していて、私と兄もそこに登りました。屋根の上からは遠くからやってくるB-29の飛行機雲が良く見えました。祖母から『すぐに屋根から降りなさい』と注意され、私たちは屋根から降りたのです。私は建物の中に入り、兄が家の横にあった門を通り過ぎた時、爆弾がさく裂しました。私は何も見えず、何も聞こえませんでした。意識を失い、建物のがれきに埋もれてしまったのです」

爆心地からわずか1.3キロ。幸運にも蠣田さんはがれきの下から自力で這い出すことができ、奇跡的に兄も無事だった。祖母も命は助かったものの、爆風で飛び散ったガラスの破片が全身に刺さりひどいケガをしていた。

ハワード・弘・蠣田さん:
「私たちは山の方へ逃げました。人々の大群が市内の中心部から山の方へ向かっていて、みんなひどいケガをしていました。ひどい火傷をして、体から皮膚が垂れ下がっていました。中にはお腹から内臓が飛び出したままそれを抱えて逃げている人もいて、道路にはたくさんの遺体がありました。そして多くの人が、水を求めてさまよっていたのです。その中をどれくらいの時間歩いたかは分かりません。永遠に続くような気さえしました。その虐殺の光景は、その後何年にもわたって私の心に残り続けました」

数日後、避難先から戻ってくると祖父母宅があった一帯は全てが燃え尽き、辺りには遺体を火葬する臭いが漂っていた。焼け野原となった町でトタンなどをかき集めて家を作り暮らしたが、しばらくひどい下痢の症状が続き、髪の毛も抜け落ちてしまったという。
アメリカへ戻っても続く被爆の影響
1948年、蠣田さんは両親の待つアメリカへ戻ったが、その後も心に負った傷に苦しめられることとなった。

ハワード・弘・蠣田さん:
「アメリカへ戻った後も、悪夢にうなされました。母によると、私はよく夜中に起きて泣き叫んでいたそうです。また、スパゲティやレアの肉など、あの時の光景を思い出させる赤い色の食べ物は口に出来ませんでした」

在米被爆者たちは、後遺症と向き合う一方、“原爆を落とした国”に暮らすことでの苦難も多かった。「原爆を使ったから戦争が早く終わり、多くのアメリカ兵の命が救われた」と原爆投下を正当化する声も聞かれた。このため、自身の過酷な経験を誰にも話せず、口を閉ざす被爆者も多かったという。蠣田さんは大学生だった25歳の時、妻となるアイリーンさんに結婚を申し込む。その時、全てを打ち明けた。

ハワード・弘・蠣田さん:
「彼女は私が日本で育ち、広島にいたことは知っていましたが、(そこで何があったかは)詳しくは知りませんでした。だから結婚を決めた時に、『自分は広島で被爆したから、放射能のせいで長生きできないかもしれない。子孫にも影響があるかもしれない』と全てを話したのです。まだ若かったからあまり気にしていなかったのか、彼女は受け入れてくれました。でも、その後授かった長男を5歳の時にガンで亡くしたのです。医師は『おそらく放射能とは関係ない』と言いましたが、私は気持ちのどこかで私が被爆したせいなのではないかと考えてしまいます・・」

幼くして亡くなった長男。直接関係はないと分かっていても、心のどこかで「被爆のせいではないか」と思い、葛藤が生じる。蠣田さんは二重の苦痛に耐えなければならなかった。

“ヒバクシャ”は自分たちで最後にしたい
在米被爆者の高齢化が進む中、ロサンゼルス周辺には原爆の経験を語り継ぐ活動を続ける被爆者たちがいる。蠣田さんもASA(米国広島-長崎原爆被爆者協会)のメンバーとして講演会などで積極的に自身の経験を語り、核兵器の廃絶を訴えている。75年が経ち、核を巡る状況が一向に改善しない中、蠣田さんは自身が語り、伝えることの重要性を強く感じるようになったという。

ハワード・弘・蠣田さん:
「過去の過ちから学ぶことは本当に、本当に大切です。しかし75年経った今、人類はさらに強力な破壊兵器を保持し続けています。日本にいる被爆者、アメリカにいる被爆者、多くの被爆者が核戦争の恐ろしさを語って来ました。自分もそうです。1人の声は小さいですが、かけらを集めて大きな絵を作るように、人々の声を集めれば大きな力になり、世界の指導者たちに届くはずです。原爆のような兵器は完全に禁止し、“ヒバクシャ”と呼ばれるのは、自分たちが最後になってほしいと願います」

【執筆:FNNロサンゼルス支局長 益野智行】

益野 智行

 

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「練習台にされたんや」49発の“模擬原爆” 95歳語る…悔しさ今も

2020年08月06日 13時36分08秒 | 社会・文化・政治・経済

配信

「最初の部屋にいたら命はなかった」

95歳になった今も「模擬原爆」被害の記憶を語り続けている龍野繁子さん=7月26日、大阪市

 広島、長崎に落とした原爆の投下訓練として、米軍の特別部隊が1945年7月下旬から8月に本州、四国の18都府県に計49発の「模擬原爆」を落下させた。

死者は400人を超え、1200人以上が負傷。

長崎に投下されたプルトニウム型とほぼ同じ形状の4・5トンの通常爆弾は、黄やオレンジに塗られた外見から「パンプキン(かぼちゃ)」と呼ばれた。「練習台にされたんや」。

戦後75年が経過した今も、体験者は刻まれた記憶を語り継ぐ。

【写真】模擬原爆「パンプキン」

 「バリバリバリバリ、そしてズドン。とてつもない音やったよ」。大阪市東住吉区に爆弾が落とされた7月26日、着弾した料亭のそばの寺で今年も追悼集会が営まれ、龍野繁子さん(95)が当時の様子を語った。  

国民学校教諭だった龍野さんは、現場から150メートルほどの町工場に勤労動員の生徒20人を引率していた。戦況悪化で資材の入荷は滞り、作業はなし。

午前9時26分。授業でもしようと別室に移った直後、料亭から吹き飛ばされた直径1メートルの岩が天井や床を突き破った。

「最初の部屋にいたら命はなかった」

模擬原爆が投下された18都府県と数

 外に出ると、噴煙の奥の電線に真っ二つに折れた畳、人間の内臓がぶら下がっていた。姉の親友ら身近な7人が犠牲になった。  

心の傷を消し去ろうと懸命に戦後を生きた。半世紀がたったころ、あの爆弾がパンプキンだったと知った。原爆投下後に自機に被害が及ばぬよう、急旋回の操縦技術を身に付ける練習だったということも。

 「こんなばからしいことがあるか」。

湧き上がる悔しさが、龍野さんを語り部活動に踏み切らせた。核なき世界に逆行するトランプ米大統領の言動に触れるたびに「原爆や戦争の恐ろしさを知ってもらえる望みが消えてしまわないか」と不安が増す。「人と人の争いでやってしまうのが戦争。止められるのも、人間なんです」

「原爆はもちろん、パンプキンの実態も広く知ってもらいたい」

金子力さん

 パンプキンの存在や役割を突き止めたのは、市民団体「春日井の戦争を記録する会」(愛知県春日井市)。

91年に国立国会図書館(東京)が所蔵する米軍資料から見つけた「特殊任務」の一覧表と地図に、45年7月20日から8月14日までに投下された2発の原爆、49発のパンプキンに関する情報が時系列で記されていた。  会は各地の市民団体などと連携して聞き取りを進め、米軍の部隊が原爆投下の練習として各地を爆撃した事実をつかんだ。

8月9日の長崎への原爆投下後も、終戦前日に愛知で7発が落とされた。記録する会の金子力(つとむ)代表(69)は「原爆はもちろん、パンプキンの実態も広く知ってもらいたい」と話している。 (布谷真基)

西日本新聞

 

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「黒い雨」は強い放射能を帯びていた

2020年08月06日 13時13分14秒 | 社会・文化・政治・経済

黒い雨とは、原子爆弾投下後に降る、原子爆弾炸裂時の泥やほこり、すすや放射能などを含んだ重油のような粘り気のあるような大粒の雨で、放射性降下物(フォールアウト)の一種である。

概要

原子爆弾が投下された広島市で、黒い雨の記録が残っている。

また、フランスの核実験場であったムルロア環礁、ソ連の核実験場であったセミパラチンスク周辺でも、原子爆弾投下後の降雨の記録が残っている。

広島市では、主に北西部(下記参照)を中心に大雨となって激しく降り注いだ。この黒い雨は強い放射能を帯びているため、この雨に直接打たれた者は、二次的な被曝が原因で、頭髪の脱毛や、歯ぐきからの大量の出血、血便、急性白血病による大量の吐血などの急性放射線障害をきたした。

大火傷・大怪我をおった被爆者達はこの雨が有害なものと知らず、喉の渇きから口にするものも多かったという。

原爆被災後、他の地域から救護・救援に駆けつけた者も含め、今まで何の異常もなく元気であったにもかかわらず、突然死亡する者が多かった。水は汚染され、川の魚はことごとく死んで浮き上がり、この地域の井戸水を飲用した者の中では、下痢をすることが非常に多かったという。

長崎でも、黒い雨の降雨記録が残っている。黒い雨は爆風や熱線の被害を受けなかった地域にも降り注ぎ、広範囲に深刻な放射能汚染をもたらした。

主成分

広島県高須地区にある民家の応接間の壁裏に残っていた黒い雨の跡(白壁に上から墨滴を流したような黒い線)を分析した結果、炭素珪素、そして原爆由来のウランが主な成分として検出されたことが、1986年1月17日日本放送協会(NHK)が放映(製作:NHK長崎放送局)した番組[の中で報告された

番組内では特に鉄分について、爆発時の熱によって蒸発した広島市内の鉄構造物によるものだけではなく、爆弾そのものの鉄分である可能性についても言及している。

なお、この雨の跡からは、セシウム137半減期30年)が微量検出されており、富士フイルム製の高感度フィルムにより微弱ながら放射線も確認できた(その他の現存する黒い雨の跡では世界各地の核実験で放出された放射性降下物に汚染されたことにより黒い雨だという確証が得られなかったが、上記の雨の跡は増築された壁に守られていた)。

この壁の一部は、アメリカの核実験では観測できなかった黒い雨の唯一の物証としてオークリッジ国立研究所にも提供されており、核の冬の研究に生かされた。

放射線の作用として水が黒くなるわけではないため、原子爆弾が投下された地域の建造物にアスファルトコンクリートが多用されていた場合、それらの粉塵によって雨が白く見える可能性もある。

広島における降雨地域

従来、広島において黒い雨の降った範囲は、当時の気象技師の調査などに基づき、爆心地の北西部に1時間以上降った「大雨地域」(南北19km、東西11km)と1時間未満の「小雨地域」(南北29km、東西15km)だとされ、国はそれに基づき「大雨地域」在住の被爆者にのみ健康診断やがんなどの特定疾患発病時の被爆者健康手帳の交付を行ってきた。

だが、実際にはその地域よりはるかに遠い地域でも降雨が報告されており、この基準に対する批判が多かった。

近年になって降雨範囲が従来よりはるかに広いことが広島市による被爆者の聞き取り調査により判明した

さらに、広島大学原爆放射線医科学研究所の星正治教授らが2008年から2009年にかけて行った調査により、爆心地から8km離れた「小雨地域」の土よりセシウム137を検出した

これらの事実を受け、広島市では2010年度から2年かけて改めて原爆投下当日の気象状況を元に黒い雨の降雨範囲のシミュレーションを行うことを発表した

広島市は降雨域の拡大を厚生労働省に求め、これによって、被爆者の援護対象の拡大などが期待されたが、厚生労働省の有識者検討会は2012年1月20日に、「降雨域を確定するのは困難」との結論を出した

健康への影響

原爆傷害調査委員会(ABCC)は1950年代から被爆状況に関する面接調査を行っており、その設問として「黒い雨」に遭ったかどうかを質問していた

。このことは2011年に放射線影響研究所により明らかにされデータの整理が行われていたが、2012年12月になり、広島において黒い雨を浴びた被爆者と浴びなかった被爆者ではガンおよび白血病の罹患率に有為な差はなかったことが発表された。長崎のデータでは雨に遭った被爆者は遭わなかった被爆者にくらべ死亡率が30%高かったが、雨にあった被爆者数が遭わなかった被爆者数に比べはるかに少ないため結論を下すことが出来ないとされた

関連作品

広島での被爆をテーマにした井伏鱒二の『黒い雨』という小説が知られる。1965年新潮』で連載された。当初は『姪の結婚』という題であったが、連載途中で『黒い雨』に変わった。

この作品は重松静馬著『重松日記』を原資料とし創作を加えたもので、今村昌平監督のもと1989年に同名の『黒い雨』として映画化された。

2011年3月に発生した福島第一原子力発電所事故に絡んで、日本のシンガーソングライター斉藤和義が原発批判ソング「ずっとウソだった」を同年翌月にYouTubeで公開し、この歌詞の中で「黒い雨」に触れている。

 


黒い雨

2020年08月06日 12時51分23秒 | 社会・文化・政治・経済

井伏 鱒二 (著)

一寸さきは地獄だぞ。焼け死ぬぞ。

一瞬の閃光に街は焼けくずれ、放射能の雨の中を人々はさまよい歩く……。罪なき広島市民が負った原爆の悲劇。その実相を精緻に描く名作。

一瞬の閃光に街は焼けくずれ、放射能の雨のなかを人々はさまよい歩く。原爆の広島――罪なき市民が負わねばならなかった未曾有の惨事を直視し、“黒い雨"にうたれただけで原爆病に蝕まれてゆく姪との忍苦と不安の日常を、無言のいたわりで包みながら、悲劇の実相を人間性の問題として鮮やかに描く。被爆という世紀の体験を、日常の暮らしの中に文学として定着させた記念碑的名作。

井伏/鱒二
1898‐1993。広島県生れ。本名、満寿二。中学時代は画家を志したが、長兄のすすめで志望を文学に変え、1917(大正6)年早大予科に進む。’29(昭和4)年「山椒魚」等で文壇に登場。’38年「ジョン万次郎漂流記」で直木賞を、’50年「本日休診」他により読売文学賞を、’66年には「黒い雨」で野間文芸賞を受けるなど、受賞多数。’66年、文化勲章受章(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) --このテキストは、paperback_bunko版に関連付けられています。

 

 

自分が同じ体験をしてないからこそ、この本を読むべきだと思いました。
何でもない日常に落とされた恐るべき原子爆弾が、そこに住む人々に、後から集まる人々に、何を齎したか。
日本人はみんな知るべきだと思います。
人間の生活を精神をこんなにも長期に渡って惨たらしく破壊し尽くした兵器を作った国。
それを日本に落とした国を、決断した大統領を、どう考えるか。

今も続いている日本と北米の歪んだ関係。
いろいろ考えさせられる本でした。

 

この人の文章力は小林秀雄も絶賛し太宰治がおののき、永井龍男が口を極めてほめそやし、毒舌婆さん佐藤愛子もほれ込む。そういう知識をもって作者の短編集から入ったが、素人のワタクシにはその豊かな文章を味わう力はない。本書は長編小説で、しかも、構成が原発投下の頃の状況と4,5年後の世の動きとが行ったり来たりして語られていて複雑になっているので、1回読んだだけでは、作品の良さはとても味わえない。今2回目に取り掛かっているところ。テーマは悲惨で被爆直後の街の様子が凄惨に描かれているが、文章は明快で滞ろところがない、それがこの作者の品格と力量なのであろう。

 

もともと氏の書き味が大好きで、本書を精読したいという思いが強かった。
戦争に関する本は数あれど庶民の生活と庶民の痛みに徹底的に寄り添った目線は新鮮で身近な痛みとしてしみてくる。声高に叫ぶでもなく丁寧に人物の一人ひとりを描写することでいつか自分がこの中にいるような感覚になってくる。
若い人には特に読んでもらいたい。ラストがとても印象的で淡々としているだけではない情熱や生命力が伝わった。

 

単行本には解説がないということに気が付かず購入。
一度肌に付着すると、いくら洗っても取れず、次第に身体を蝕ばんでゆく原爆キノコ雲の後に降る黒い雨。得体の知れない恐怖は、その黒い雨のように淡々と語られる。
あまりにも過酷な現実を目の当たりにした時、人間はどこに救いを見出だすか、どのような心で現実に向き合えば良いのか、問われる一冊である。

 

反原爆のメッセージを伝えるというよりも、当時の様子を淡々と伝えるような描写が多い。

原爆直後に無くなった人は、怖いとか恐ろしいというよりもそんな事すら感じる事も無いくらい一瞬で終わってしまって。生き残った人は、原爆症に苦しんで。日記であるが故に、とても静かで淡々としている。

胸を打つというよりも記憶に残る作品。

 

 

日記という形で、原爆の悲惨さを淡々と描く。井伏さんはこの記録を公にして私たち戦争をしらない子供達の成れの果てに伝えてくれました。この本を通じて、そして映画も合わせて戦争の実態を伝えつつけなければいけないのだと思いました。

 

被爆者の、真実に近いであろう姿を、読んでいて感じました。とても貴重な文学作品だ。
夢中になって読みました。

 

若い頃に読んだと記憶していますが、改めて読むと、記憶以上に痛さが堪えません。

 

個人的に、死ぬまでに読むべき本の1つ。それくらい名作。

 

 


【掛布論】藤浪晋太郎の「抜け球」ないと読んだ岡本和真の勝ち

2020年08月06日 12時37分34秒 | 野球

配信

6回2死一、三塁、右翼線へ適時二塁打を放つ岡本和真(投手・藤浪晋太郎、捕手・梅野隆太郎)(カメラ・竜田 卓)

◆JERAセ・リーグ 阪神1―4巨人(5日・甲子園)

 打順の3回り目は試合が動くケースが多い。先発投手の球威が落ちはじめ、配球も含めて、打者の目が慣れてくるからだ。この試合もまさにそうだった。6回2死一、三塁。岡本が藤浪の初球の外角ストレートをイメージ通りに踏み込んで、右越えの2点二塁打とした。  

藤浪の調子は今季3試合目で一番良かった。だが、「抜け球」が少ないことで、逆に右打者は恐怖心を抱かずに済んだ。岡本も2打席立って、抜け球を含めて内角への球はないと見抜いていたはず。以前の藤浪との対戦では思い切って踏み込むことは難しかった。  

1死一塁から坂本の右前安打も、外角の球を踏み込んでのもの。さすが2人とも首位チームの主力打者だ。打席を重ねてアジャストすることができる。  

忘れてならないのが、3番を打つ丸の存在。6回の打席は3ボール1ストライクから中飛だったが、ボール球を見極め、仕掛けを遅らせることで打線に「間(ま)」を作れていた。だからこそ岡本が初球から振りにいけるリズムが生まれた。3人が束になって藤浪を攻略したと言える。  

それにしても、戸郷は高卒2年目とは思えないほど素晴らしい投手だ。ピンチになっても顔色一つ変えず、腕の振りがストレートと変化球も同じ。末恐ろしい投手が出てきた。(阪神レジェンド・テラー、スポーツ報知評論家)

報知新聞社

 

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