これでは「コロナ隠し」を誘発する
PRESIDENT Online
木村 知
医師
感染者が当然のように謝る風潮
「チケットを買って下さった皆さまにも、役者、スタッフにも、家族にも、悲しい思いをさせてしまい、本当に申し訳ございません」
3月31日、俳優で脚本家の宮藤官九郎さんが、新型コロナウイルスに感染していたことを公表し謝罪した。
その前日には、ヴィッセル神戸のJリーガー酒井高徳選手も自身の感染を公表、「今回はサポーターの皆さんや一般の方々、全選手、スタッフ、その家族やご友人に不安とご迷惑をおかけしてしまうことになり、本当に申し訳ございません。(中略)多くの方々にご不安やご迷惑をかけてしまっていること、全ての皆様に心からおわび申し上げます。大変申し訳ありません」とコメントの中で繰り返し謝罪した。
さらに直近では、報道ステーション(テレビ朝日)のメインキャスターを務める富川悠太アナウンサー、そして俳優の石田純一さんが相次いで自らの感染を公表、この2人も「ご迷惑をおかけした関係者の皆様」に対して謝罪するコメントを出している。
新型コロナウイルスの感染が急拡大していくなかで、今後も著名人の感染が次々と明らかになっていくことが予想されるが、このように感染した人が謝罪するという行為、感染者が謝罪することを当然のことと見なす風潮は、感染症の拡大抑止には逆効果となり、実は非常に危険である。本稿では、なぜ感染した人が謝ってはいけないか、謝るのが当然とする社会がなぜ危険なのかについて、医師の視点から論じてみたい。
感染者の謝罪は社会人として当然の行為なのか?
新型コロナに限らず、これまでも、カゼや発熱などで仕事を休んだときに「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」と職場の同僚や上司に謝っていた人も少なくないのではなかろうか。
確かに「自分さえ休まなければ、業務も滞りなく進捗したはずであるし、他の人の負担も増えなかったはずである。自分の行うはずだった仕事を肩代わりしてくれた人に申し訳ない」という気持ちは、自然なものかもしれない。
しかし実際の職場では、そのような自発的な謝罪ばかりとは限らない。過去に休んだ際、同僚や上司に嫌みを言われたり、自己管理の不徹底を非難された経験を持つ人なら、謝らずには許されない状況に追い詰められているだろうし、またそのような空気が充満している職場では、「謝罪」は社会人として当然の行為として認識されていることだろう。
では、逆の立場となった場合はどうか。つまりあなたの同僚や部下が体調を崩して休んだ場合、あなたは、その休んだ人に謝罪を求めたくなるだろうか。休んだのが上司であった場合は、どうか。休んだ上司に対して、「あなたが休むものだから、企画を中止せざるを得なくなったじゃありませんか」と責めるだろうか。休んだ人から「迷惑かけてすまなかった」との一言がないと、不愉快な気持ちになるだろうか。
感情論はさまざまあるだろうからさて置き、ここでは医療社会学的に考察してみることにしたい。
病気の人が期待されている役割とは何か
「役割期待」という言葉を耳にされたことはあるだろうか。
「役割期待」とは、「役割」つまり「ある地位について、その地位にふさわしい振る舞い」を、その人がその役割通りに振る舞うことを他者が期待することを言う。
例えば、学校の教師には「生徒にわかりやすい授業を行う役割」が期待されている。一方、生徒には「教師の行う授業を妨害しないで静聴する役割」が期待されていると言える。私たち医師は、患者さんに「丁寧な問診と診察、わかりやすい説明のもとに治療を行う役割」が期待されていると言えるだろう。
では患者さんの役割、すなわち「病人役割」とはいかなるものだろうか。さらに、病人の役割だけでなく、病人を取り巻く人々には、いかなる役割が期待されているのだろうか。
病人には「できるだけ早く病気の状態から回復すること」が期待されており、またそれを達成するために「医師に援助を求め、その指示に従うこと」が期待されている。
一方、病人を取り巻く人々には「病人が病気になる前の役割期待通りに振る舞うことができなくとも問題視しないこと」が期待され、さらに「病人が病気の状態にあることについて、当該病人に責任を負わせないこと」が期待されている。
つまり、病人は、なるべく早く回復するように、体力を温存してゆっくり休むことがその役割として期待されているのであるから、「休む」という行為こそが病人にふさわしい振る舞いなのであって、仕事に穴を開けないようにと、病をおして無理に出勤することは、病人にふさわしい振る舞いとは見なされ得ないのだ。
病人の周りの人に期待される「役割」とは…
一方、病人を取り巻く人、例えば職場の同僚や上司には、カゼを引いた従業員に対して「カゼくらいで休むな、仕事に来い」と発病前の役割期待通りに振る舞うことを強要したり、「カゼなんか引くのは自己管理が悪いせいだ」と責任を問うたりしないことが期待されているということになる。
これらの病人役割、病人を取り巻く人の役割を冷静に考えれば、新型コロナに感染した人が、感染前に期待されていた役割を全うできなくなったことについて謝罪する必要は全くないということ、さらに周囲の人が、感染した人に対して謝罪させるような空気を作ることや、感染してしまった責任を当人に負わせるべきではないことが容易に理解できるはずである。
しかも新型コロナウイルスは非常に感染力の強い感染症だ。罹患者には、回復することが期待されているだけでなく、周囲に感染を拡大させないことが期待されている。
休むことは危機管理に貢献すること
拙著『病気は社会が引き起こす インフルエンザ大流行のワケ』(角川新書)でも述べたが、カゼであれ、インフルエンザであれ、もちろん新型コロナであれ、ヒトからヒトへ伝播してゆく感染症だ。そしてこれらは、検査によって確実に峻別することはできない。PCR検査によって陰性との結果が出ても、それが非感染の証明にはなり得ないことは、もはや周知の通りである。
最近「カゼ症状があるなら、取りあえず受診して新型コロナではないかどうか診断してもらった上で、出勤するように」と会社の上司から指示されて受診する人が増えてきているが、その指示を出した者は管理者として失格だ。いかなるウイルスが原因であろうと有症状者には自宅安静、職場には来させないようにすることが、感染拡大抑止策であり危機管理というものだからだ。
さらに管理者は、従業員が体調不良を隠すことなく訴えて休みを求めた場合には、肩身の狭い思いをさせることなく休めるよう配慮すべきであるし、従業員の休むという行為については、危機管理、組織防衛に貢献する極めて適切なものであると評価あるいは称賛することによって、他の従業員にも同様の認識を持つよう啓発すべきであろう。
感染者をたたくことは水面下での感染爆発を生む
これとは逆に、感染してしまった人に対して、過去の行動を不用意だと非難したり、自己管理の不徹底だと断じることによって、感染の原因と責任を当事者にすべて負わせることが常態化している組織や社会では、感染経路が表面化しなくなるだけでなく、感染者が感染の事実さえも隠そうとすることにもつながりかねず、非常に危険だ。
当然ながら、ウイルスというのは、日常生活の中では誰の目にも見えない。感染している人としていない人を、見分けることもできない。
もし自分が感染してしまったときに、過去の自らの行動を振り返って、「あの外出のときに感染したのかも?」と思ったところで、本当にそのときに感染したのかを特定することは極めて困難だ。
ましてや無関係の第三者が、感染者の過去の行動と感染成立の因果関係を証明するなど完全に不可能だ。それにもかかわらず、ネットの世界などでは、無関係な第三者が、感染者の過去の行動を不用意だとして非難、いわゆる「炎上」させるなどして、集団でたたく行為が少なからず見られる。しかし感染者の行動を非難したたいたところで、感染拡大抑止には、何ら効果を発揮しない。抑止にならないばかりか、感染者をたたいたり、スティグマ化することは、感染者を孤立化、潜在化させ、さらに水面下での感染爆発をも誘発させかねない危険な行為と言えるだろう。
「不用意な行動」かどうかは当事者しかわからない
「不用意な行動」については、感染してしまった当事者本人が、過去の自らの行動をさかのぼって思い出して反省するだけで十分だ。仮に不用意な行動であったと自省した場合でも、それが故意に感染拡大を企図した行動でないのであれば、謝罪も一切不要である。
自由な行動が制限される閉塞した現状だから、「自分は我慢しているのに、勝手な行動しやがって」という気持ちから非難したくなる人もいるだろう。しかし、人をたたいたところで、現状が変わるわけでもない。「自分は気をつけよう」と自ら気を引き締めるだけで十分ではないか。
そもそも人は、それぞれに異なった事情を抱えながら生きている。
第三者には「不用意な行動」と見えるものでも、当事者にとっては生活に必要な行動という場合もあるのだ。その事情を熟知しない人たちが、勝手な思い込みや感情だけで、他者の行動を「不用意」であると断じて非難したたくことが放置される社会のままでは、今後さらに感染拡大が進むなかで、多くの感染者が見えない水面下で増殖していってしまうだろう。そのことが非常に危惧される。
休業手当がないゆえの「コロナ隠し」の可能性
現在、感染者は原則入院だが、今後は軽症者はホテルなどの施設に隔離となる方向だ。さらに爆発的に感染者が増えれば、それらの施設も不足し、軽症者は原則自宅隔離となることも避けられないかもしれない。いずれであれ、隔離されるということは、通常業務ができなくなるということだ。
木村知『病気は社会が引き起こす インフルエンザ大流行のワケ』(角川新書)
厚労省がHPで公開している企業向けの見解では、「新型コロナウイルスに感染しており、都道府県知事が行う就業制限により労働者が休業する場合は、一般的には『使用者の責に帰すべき事由による休業』に該当しないと考えられますので、休業手当を支払う必要はありません。」とされているから、感染してしまうと、生活を回していくのに必要な収入を得ることができなくなってしまう。
ただでさえ、緊急事態宣言に伴い大幅に経済活動がシュリンクし、多くの業種で減収となっている状況だ。さらに隔離されて仕事もできないとなれば、それを契機に雇い止めとされたり、そのまま解雇とされてしまうかもしれない。そのような不安定な雇用環境に置かれた、ごく軽微な症状あるいは無症状の感染者が、感染した事実を職場に言わずに出勤するという事例が今後増えてきたとしても、何ら不思議な話ではない。
そのような行動を選ばざるを得なかった人のことを、非難したたくことはできるだろうか。感染は誰にでも起こり得る。明日はわが身かもしれないのだ。
感染拡大抑止には、感染してしまった人が、いかに周囲に気兼ねなく、収入を心配することなく療養できるかにかかっている。休業した場合でも、十分な所得補償がなされるのか。感染した事実を正直に申し述べても、非難や差別されることなく、雇い止めや解雇といった不当な扱いを受けることが絶対にないという保証はあるのか。それにかかっているのだ。その環境を整える役割が期待されているのは、感染してしまった人の周囲にいる人たち、そして最も重要な役割を期待されているのは政府だ。
自粛はさせるが補償は渋る、という現政権に期待が持てない現状では、自身の生活を守るために、感染を広げてしまう行動を取らざるを得ないという人も、少なからず出てくるだろう。しかし、そのような人のことを身勝手だとたたいたところで感染爆発は止められない。そういった人たちをいかに減らすか、それは政府が手厚い補償を約束するなど、命と生活を保障する対策を講じることでしかなし得ないのだ。
謝罪の慣習は今こそ葬り去るべき
感染した人が謝ることに違和感を持たない社会、感染した人の行動を非難したたく社会、感染は自業自得で自己責任であるという社会、感染者を孤立させる社会は、国民の公衆衛生、社会保障、社会福祉に本来責任を負うべき為政者が、その責任から逃れたい場合には、非常に都合の良いものかもしれないが、そのような社会は、増殖し拡散し続けたいウイルスにとっても、非常に快適なものであるとも言えるだろう。
「カゼでも絶対に休めない」というマインドが、長きにわたって、あたかも称賛に値するものであるかのように扱われてきた日本の社会だが、新型コロナの上陸によって、そのこれまでの“常識”は、180度転換せざるを得なくなった。「休んだときに謝るのは社会人として当然だ」との“常識”も、危険な過去の因習として、今こそ葬り去るべきときだ。
感染してしまった人が謝らなければならないという、異常で危険な“常識”を守り続けている限り、新型コロナを克服する日が、この国に訪れることはないだろう。