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神奈川新聞社
神奈川新聞社
8/11(火) 8:34配信
HARBOR BUSINESS Online
クラスターフェスの様子。(平塚氏のツイッターより)
世界中で新型コロナウイルスに苦しむ人が続出している中、今年7月の東京都知事選で「コロナはただの風邪」と言って立候補した「国民主権党」の平塚正幸さんが、8月9日、渋谷のハチ公前で第10回目となる「クラスターフェス」というイベントを開催しました。
平塚正幸さんの行動はどんどんエスカレートしていて、この日はマスクをしないことを呼び掛けるだけでは飽き足らず、50人くらいの集団でマスクをしないで山手線に乗り込むバイオテロにも似た迷惑行為を展開しました。多くの方は「こういう迷惑行為をする輩は放置するに限る」と言ってしまうのですが、駄目なことは駄目だとしっかり指摘ないと、同じ周波数の連中がどんどん集まり、気づいた時には収拾のつかない事態になりかねないので、今から皆さんに警鐘を鳴らしておきたいと思います。
「国民主権党」とは、どのような政党なのか
ほとんどの方が聞いたことがないと思いますが、それもそのはず、今年7月の東京都知事選に合わせて設立されたばかりの政治団体で、今のところ、地方議員も含めて現職として活躍している人は1人もいません。9月20日に行われる座間市議選に候補者を擁立する計画だったのですが、政党と候補者の間で一悶着あり、おそらく無所属で立候補することになると思われるため、しばらくは議員のいない政治団体ということになりそうです。
代表の平塚正幸さんは、昨年の参院選で「NHKから国民を守る党」の公認を受けて千葉県選挙区から立候補してきた人で、もともとはNHKから国民を守る党に批判的なYouTuberという感じでしたが、立花孝志に感銘を受け、熱狂的なN国信者に転身。ところが、N国党の内部で揉めてしまい、やがてNHKから国民を守る党を離党。新たに「国民主権党」を立ち上げ、「新型コロナウイルスはただの風邪」という陰謀論を掲げ、今ではNHKから国民を守る党と同様、すっかり他人様に迷惑をかける存在になりました。
平塚正幸さんが他人に迷惑をかけるのは、これが初めてではありません。東京都知事選の最中には、政見放送の収録でMXテレビを訪れ、受付で「マスクを着用しないと中には入れません」と断られると、立花孝志と同じようにMXテレビの前で抗議の選挙運動を展開。
先日は、マスクを着用しないと入店できないルールを採用しているユニクロに行って、わざとマスクをしないで入店し、追い出される様子を撮影し、YouTubeで公開しました。対応した店員さんを勝手に撮影し、勝手にYouTubeに流しているのですから、やっていることは立花孝志の劣化コピーに他なりません。平塚正幸さんはN国信者だった時期がある人物なので、立花孝志のやり方を踏襲しており、同じ手法で社会に迷惑をかける人間が増えてしまったというわけです。
クラスターフェスとは何なのか
平塚正幸さんは、たびたび「クラスターフェス」というものを開催しています。どうしてこんなことをしているかと言ったら、ただ目立ちたいのではなく、平塚正幸さんが本気で新型コロナウイルスなんていうものはないと思っているからです。危険であることを知りながら、あえて「安全」だと言っているのではなく、本気で「新型コロナウイルスは存在しない」と思っているのです。
そして、「同じ周波数の人間たちは共鳴する」の法則で、平塚正幸さんの主張に感化された「本当に新型コロナウイルスは存在しないかもしれない」と思ってしまう人たちが、マスクもせずに集まることになるのです。
その結果が、8月9日となったわけです。この日は、渋谷のハチ公前でマイクパフォーマンスを実施した後、本当は20時から50人ぐらいでマスクをせずに山手線に乗る計画を立てていました。しかし、この動きを知ったお店などが、お客さんや従業員の安全性を確保するため、臨時で店を閉め始めたため、これが威力業務妨害に問われる可能性が出てきて、この日はみんなで山手線に乗ることは中止。そう言いながら平塚正幸さんは山手線を無意味に1周したようですが、これほど迷惑な人は滅多にいるものではありません。
「新型コロナはメディアが作り出した」という典型的陰謀論
平塚正幸さんの主張は、新型コロナウイルスというのは「メディアが作り出したもの」であり、「PCR検査ではパパイヤでも反応する」というデマを信じていました。
さらに、「そんなに飛沫感染するというなら、わざわざ鼻の奥に綿棒を突っ込まなくても、口の前にプレパラートを置けばいいじゃないか」とも言っていました。この時点で、平塚正幸さんがどの程度感染症やウィルスについて理解している人なのかが分かると思います。
PCR検査というのは遺伝子検査なので、プレパラートを乗せて普通の顕微鏡で確認できるようなものではなく、そもそも新型コロナウイルスの大きさは、大変小さく、そこらへんの顕微鏡で見ることはできません。
また、最近は新型コロナウイルスの感染者がSNSで積極的に発信するようになり、日常生活に戻れないほどの後遺症に苦しむ様子が投稿されています。にもかかわらず、平塚正幸さんはこれらを嘘だと考えていて、「スーパーシティやムーンショット計画は政府が個人情報をすべて管理しようとするIT化計画」だとか、「SNSの書き込みもAIが書いているかもしれない」などと発言しています。陽性者の集計すらFAXでやり取りしているアナログ国家のニッポンで、こんなところだけAIが駆使されて、みんなに新型コロナウイルスの危険性を訴えるようになっていると主張するのは、論理性の欠片もなく、陰謀論としても随分と程度の低いものです。
問題の本質は「同じ思考の人間」が集まり、集金できてしまうこと
平塚正幸さんが「クラスターフェス」なるものを定期的に開催していることは把握していましたが、今日まで様子を見て来ました。しかし、せっかくみんなが気をつけて、いろんな飲食店が売上を下げながらも密を回避できるように座席を減らしたり、営業時間を短縮したりしているのに、こうした努力を台無しにする人物が現れたら、一生懸命頑張っている人たちの努力が報われなくなってしまいます。
この問題の本質は、平塚正幸さんが迷惑行為をする人間であるということではなく、「同じような思考の人間を集めている」ということにあります。結果、至るところで同じような陰謀論にハマっ人たちが、それこそウィルスのように思想を広げる行動に出ているのです。どこかのコンビニでは入口に「当店マスク不要です」の貼り紙をして、マスクを販売するコーナーに「新型コロナウイルスにマスクが不要だ」という主張を展開。このような思想を持つ人たちが着実に広がりを見せているのです。
平塚正幸さんは、立花孝志のスタイルを踏襲しているため、どんなに炎上しようとも、それは「自分たちの影響力の大きさを示している」と考えるタイプです。なので、みんなから本気で嫌われていても、「嫌いは好きの裏返しだから、放っておけないのだ」という脳内変換を起こします。
そして、こうした迷惑な活動も、最終的にはお金に結び付きます。国民主権党の街宣車を買うためのお金ということで、皆さんからの寄付を呼び掛けています。こうした発信をすることで、全国の同じ周波数の人々がお金を出してしまう構図です。平塚正幸さんは「日本から出て行け」というコメントに対しても、「俺は日本に住み続ける。俺という存在が日本の価値を高めるからだ」と反論しており、立花孝志と同様、自分こそ賢い存在だと本気で思っています。まさに劣化版の立花孝志です。
皆さんに悲しい現実をお伝えすると、平塚正幸さんは現在38歳です。これをやっているのが18歳そこそこの若造だったら「若気の至り」ということで、「もうちょっと勉強しろよ!」で不問にしてやるところですが、38歳という大人が陰謀論をこじらせ、さらには立花孝志の手法に学んでしまった結果、こうした人物が登場してきたわけです。うっかり国民民主党と間違えてしまう人がいるのですが、彼らがやっているのは「国民主権党」です。結局のところ、「NHKから国民を守る党」の分派だと思っていただければよろしく、宗教でも分派の方がより過激化する傾向があるように、下手をすれば今後、より過激なテロ集団に育つ可能性もあるわけです。
新型コロナウイルスを風邪だと思えるメンタル
欧米に比べて日本やアジアの被害が少なかったのは、いまだ原因は明らかになっていません。
日本の場合は、「みんながマスクをつけ、みんなが手洗いなどに努め、第1波の時には飲食店などが大ダメージを受けながら営業を自粛し、見事に抑え込むことに成功した」というのが可能性の高い説だと言われていますが、それも確証はありません。
しかし、現在の感染者数が増加している状況下では、政府や自治体に皆さんの生活を補償をするだけの力が残っておらず、いろんな企業が営業を続けながら、なるべく感染を広げないように頑張るという道を進んでいます。
密を避け、入店の際にアルコール消毒をしてもらうことで手に触れたものからの感染を防ぐ。店の入口に消毒液を置くのだって、店にとっては出費です。みんなで協力し合って、なるべく感染者を減らしていこうと頑張っているわけです。この中で、「新型コロナウイルスはただの風邪」だと考えるのは勝手ですが、敢えて外に出たり、対策を施している店に入って感染しやすい環境を作ろうとすることに一生懸命なのは、いくら法律の範囲内だと言っても、社会的には「テロリスト」と同様の扱いをされても致し方ないのではないかと思います。
なぜ「新型コロナウイルスは存在しない」と思えるのかと言ったら、新型コロナウイルスで死んだり苦しんだりしている人は「嘘」だと思っているからです。そこに確かな現実があるのに、どうしてそれを信じられないのかと言えば、「国民を分断するために誰かが仕掛けているもの」だと考えることで、悲惨な映像を見ても「これは捏造だ」と考えてしまうからです。
平塚正幸さんは「国民同士で会話をさせないために、国民を分断している」と言っていますが、本当に分断されているでしょうか。むしろ、国民はある意味で団結しているかもしれません。というのも、みんな、お互いの命を守るためにマスクをしているのです。あのマスクがなかなか手に入らなかった時ですら、どうにかやりくりをして、みんなでマスクをしていたのです。感染が広がるアメリカではなかなかマスクが普及しなくて困っている現状があるのに、日本ではみんながマスクをつけ、店に入る時にはアルコール消毒をしている。確かにマスクをつけるのは面倒臭いけれど、こんなに国民が団結しているのは素晴らしいとも言えます。「マスク警察」と呼ばれる過剰に同調圧力を発揮する人も確かに迷惑ですが、「マスクを付けるな」と周囲に強いて巻き込むのも同様かそれ以上に迷惑です。そして、国民を分断しているのは平塚正幸さんの方なのではないでしょうか。
<文/選挙ウォッチャーちだい>
ハーバー・ビジネス・オンライン
8/15(土) 6:01配信
現代ビジネス
731部隊にいた10代の少年兵たち
写真:現代ビジネス
「任務が終わった夜に同期の友人と会うと、お互いの業務内容を話していました。『今日は人体解剖をした』『軍用犬に細菌兵器を運ばせる訓練をしている』なんて人もいましたね。まだ10代でしたけど、当然施設内で生物兵器を作っていることも知ってましたよ」
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たった14歳で731部隊に入隊した元少年兵の須永鬼久太氏(92)はこう語る。
関東軍防疫給水部本部、通称「731部隊」。満州のハルビン市近郊に拠点を構え、表向きには兵士の感染症予防や安全な給水システムに関する研究を行っていた。しかし秘密裏に非人道的な人体実験を繰り返し、実戦での使用を目指して生物兵器を開発していたとされる。
14歳から17歳という多感な青春時代を、須永は「日本陸軍史上もっとも残虐」とされる部隊で過ごした。戦後75年が経ち、731部隊の実情を証言できる元隊員は少ない。満州の地で、彼はいったい何を見たのだろうか。節目の年に、あらためて話を聞いた。
むごたらしい人体実験の実情
731部隊の人体実験で使われた器具[Photo by gettyimages]
731部隊の任務の一つが、敵兵を重篤な伝染病に感染させる「細菌爆弾」を製造することだった。部隊内で開発されていた「ペスト菌爆弾」は、病原菌を媒介するノミを爆発によってばら撒き、相手をペストに感染させる。長野県の高等小学校を卒業して731部隊へと入隊し、1年間の教育期間を終えた須永は、1943年頃からそのプロジェクト内の「焼成班」に所属していた。
「私の仕事は、ペスト菌爆弾の容器を焼き上げることでした。少量の火薬でペスト爆弾が爆発した後、粉々に飛び散って中身の細菌が生きたままばら撒かれるように、陶器製の容器が使用されていました。細菌兵器を作っていることについても説明を受けていましたよ」
彼らが製造した爆弾の威力は、残虐な人体実験によって検証された。実験台として惨たらしく殺害されたのが、中国人やロシア人の捕虜たちであった。彼らは「丸太」に等しい存在とされていたため「マルタ」と呼ばれ、文字通りの非人道的な扱いを受けたとされる。
「実験施設から屋外の実験場にマルタを連行して、抵抗できないよう杭にくくりつけ、数メートル間隔で並べるんですよ。彼らのすぐ近くで細菌爆弾を炸裂させ、強制的にペストに感染させたうえで、身体がどのように変化するのか経過を記録するんですね」
このペスト菌爆弾の検証実験では、一度に10人以上の捕虜が実験台にされた。爆弾の感染力と効果範囲を測定するため、捕虜と爆発地点間の距離や火薬の量などを変化させて、何度も何度も実験が行われ、そのたびに罪のない捕虜たちがペストに感染させられた。
実験終了後、感染した捕虜が治療されるはずもなく、全員が数週間以内に死亡した。しかし彼らは死んでもなお、「実験台」として扱われている。爆弾の性能向上につなげるため、死亡した感染者の遺体は解剖されて、臓器へのダメージを徹底的に調べられた。驚くべきことに、須永のような10代の隊員たちも、この事実を知りながら平然と軍隊生活を送っていた。
2つの「日常」が重なり合う
1943年ごろのハルビンの街並み[Photo by gettyimages]
「部隊内で人体実験が行われていることは、焼成班に配属された頃から知っていました。本部施設3階の窓から、中庭にいるマルタを見たことがあります。どこの国の女性かは分かりませんが、遠目に女性のマルタを見たこともありました」
初めて実験台である「マルタ」を見たときの記憶を、彼はこのように振り返っている。残虐な実験が基地内で行われ、しかも捕虜が実験台にされることに対して、特段の驚きはなかったという。当時の心境を須永はこう話す。
「人体実験に使われるマルタは捕らえられたスパイで、死刑囚だと教育されていました。だから良心の呵責みたいな感情もありませんでしたね。14歳で入隊した当時の我々は、本心からお国のためだと思い、滅私奉公のつもりで任務に当たっていました。『この細菌爆弾が完成すれば戦局を変えることができる』と上官から言われていましたから」
須永以外の少年兵たちも同様だ。前述の証言の通り「人体解剖を行った」「軍用犬に細菌爆弾を運ばせた」といった会話は、部隊の少年兵たちにとってありふれた世間話だった。基地内で非人道的な生物兵器が製造されていることは周知の事実であり、10代の少年兵たちはその環境に慣れきっていたのだ。
その一方で彼らは普通の青年と同じような生活も楽しんでいた。
「私たちの班はハルビン市街地に近い建物で生活していたこともあり、他班に比べると自由度が高かったんじゃないですかね。休日は外出許可を得て、基地から市街地へ繰り出すこともありました。
そうそう、ハルビンの市街地で生まれて初めて水餃子を食べたんです。餃子自体、当時の日本にはありませんでしたからね。『あそこの店の水餃子は美味いよな』なんて、仲間と言い合ったものです。映画館に行ったりもしましたね」
しかし帰りに通る基地の入り口には、「何人たりとも関東軍司令官の許可なくして構内に入った者は銃殺に処す」と書かれた警告文が張られている。「初めて見たときは、ものものしい場所に来てしまったと思った」と須永は話す。
残虐な人体実験が当たり前のように行われていた基地の中と、美味しい水餃子や映画館がある外の世界。どちらも少年兵たちにとっての「日常」だった。
彼ら少年兵の経験を学ぶ意味
731部隊長だった石井四郎(左)[Photo by gettyimages]
ソ連が国境を越えて満州に侵攻してきた1945年8月8日、須永が所属する少年隊は、機密保持のため施設内の研究室を破壊するよう命じられた。その後工兵隊が本部の建物を爆破し、証拠を隠滅したうえで撤退した。
須永が後で聞いたところによると、一部の少年兵は不必要になった捕虜を直接「処分」させられたらしい。須永らが研究室を破壊している間、施設の一角からずっと黒い煙が上がっていた。少年兵たちが捕虜を殺害し、死体にガソリンをかけて燃やしていたのだった。
その後、須永らは朝鮮を経て日本へと戻った。帰国直後に感じた恐怖について、こう振り返っている。
「なんとか内地に戻ったものの、我々の部隊に所属していた者は『そのうちGHQに捕まって殺されるんじゃないか』という不安が強かったですね。731部隊で非人道的な人体実験を繰り返し、細菌爆弾を開発していたわけですから。でもそのうち、石井四郎部隊長が、実験データと引き換えに隊員を免責するようアメリカと取引したと聞いて、安心しました。率直に、うまくやってくれたなと思いましたね」
戦後しばらく沈黙を貫いた須永は、「部隊内で見聞きしたことは話してはならぬと徹底的に教育されていたから、終戦後も731部隊のことは家族にすら話さなかった」と語る。しかし7~8年前から取材に応じるようになった。
「731部隊のことが報道でこれだけ世に知られたので、『もう全てオープンにしてしまったほうがいいだろう』と生きている隊員たちで話し合い、数年前からメディアに出るようになったのです。非人道的な実験によって細菌兵器を研究していたのですから、今考えれば間違ったことだったと思いますよ。でも、当時はそれが当たり前でした」
軍上層部からの教育や環境への適応の結果、彼ら少年兵にとって、非人道的な人体実験は「美味しい水餃子」と同じ「日常生活」となった。異常な環境も戦時には「日常」となりうる。戦後75年を迎えてもなお、われわれは須永の証言から引き出されたこの事実を、見つめ続けなければならない。
現代ビジネス編集部
8/15(土) 11:00配信
デイリー新潮
上野駅の地下道で寝ている浮浪児たち(1946年12月30日撮影)
終戦75年の夏を、日本はコロナ禍の只中で迎えようとしている。
昭和20年8月15日、日本人は今と同様に先行きの見えない社会に対する不安にさいなまれていた。戦争が終わったからといって、すべての人々が平和の訪れに心を躍らせていたわけではない。一部の人にとっては、戦後の数年間、いや数十年間は、戦禍を生きるよりつらいことだった。
***
その一例が「浮浪児」と呼ばれた戦災孤児たちだ。戦争で親や家を失い、路上でホームスとして生きた子供たちのことである。
かつて私は『浮浪児1945- ―戦争が生んだ子供たち―』(新潮文庫)で、上野駅の地下道や闇市で戦後を生き抜いた子供たちの証言を集め、ルポルタージュとして刊行した。
そのうちの一人の元浮浪児の言葉である。
「戦争によって家族を失った子供にとっては、終戦からが地獄の日々のはじまりだったんだ。大人は『自由になった』と喜んでいたけど、一人じゃ生きられない子供にしてみれば『国に捨てられた』が本音だった。それから長い間、俺は野良犬以下の暮らしをすることになったんだ」
野良犬以下の暮らしとは、何だったのか。元浮浪児たちの証言から明らかにしたい。
浮浪児と呼ばれた子供たちは、終戦から3年後に出された推計によれば、全国に約3万5000人(「朝日年鑑」)いたとされている。年齢は3、4歳から13、14歳くらいまで。もっとも多かったのが小学生くらいの年齢だ。
子供たちが家を失った経緯は、昭和20年に浮浪児になった子と、昭和21年以降になった子とで大きく異なる。
前者は、終戦の年に日本各地で受けた空爆によって家族と死に別れた子供たちだ。家に爆弾が落ちて親が亡くなったり、火の海の中を逃げている最中に生き別れたり。あるいは、疎開から帰ってきたら家族が全滅していたと判明し、一人で路上暮らしをはじめた場合だ。
後者は、親による虐待の被害児だ。父親は戦場から帰還したものの、戦闘のトラウマで心が荒み家庭内暴力をくり返したり、アルコールやドラッグに溺れたりした。それが原因で、ないしは貧困につながり、家出をした子供たちが浮浪児になったのだ。
彼らがもっとも多く集まったのが、上野駅の地下道だ。主に東京大空襲で家を失った人々が数千人単位で足の踏み場もないほど暮らしており、その1~2割が子供たちだった。みんな何年も体を洗えず、アカにまみれて、男の子か女の子かも見極めがつかないほどだった。
浮浪児の一人は言う。
「残飯シチューっていうのは、米軍の残飯なんだよ。食堂のゴミ箱の中身を袋に入れてもってきて、大きなナベでそのままごった煮にする。時にはゴキブリや避妊具がまじっていることもあったけど、米兵の好物のビフテキの入ったそれは、ほっぺたが落ちるほどうまかった」
路上で餓死寸前の時に食べた残飯の味が、生涯食べた中で一番美味だったという者も少なくない。
ただ、上野にはライバルも多い。仕事を得られるかどうかは競争であり、現金を持ち歩いていれば年長の子たちに奪われる。そのため、浮浪児の中でも幼い子たちは「ドサ回り」と言って、汽車に無賃乗車して地方を転々とした。
夏は涼しい東北、冬は暖かい九州の農村や漁村を回り、施しを受けて生きていくのだ。村の大人たちの中には、戦争で主人や跡継ぎを失った人も少なくなかった。そんな人たちの中には、浮浪児を養子として引き取る者もいた。
ある元浮浪児は語る。
「ドサ回りのたどり着く先は二つに一つだった。いい大人に拾われて養子になるか、人買いに捕まって売り飛ばされて奴隷みたいに働かされるかだ。疲れ果てて谷や海に飛び込んで自殺しちゃう子もいたよ」
だが、こうした子供たちは「自殺」ではなく、「戦災死」とされた。国は浮浪児の生存を確認していなかったので、人目につかないところで命を断てば、戦時中に死んで行方不明になったものとして処理されていたのだ。
終戦から2年、3年と経つにつれ、浮浪児と呼ばれる子供は、戦災孤児に家出少年たちが加わって、その数は膨れ上がっていった。冬になると上野駅の地下道では、毎日何人もの人間が寒さや飢えで命を落とし、生き残った者もスリ、恐喝、強盗などをしなければならなくなった。
浮浪児は言う。
たとえば、傷痍軍人や「パンパン」と呼ばれた街娼たちだ。彼らは同じく生きるために上野駅の地下道に住みついたり、夜の街頭で春をひさいだりしていたが、行き場のない浮浪児たちを哀れに思い、声を掛けた。同じ戦争の犠牲者として放っておけなかったのだろう。
ある街娼は浮浪児たちを自分の家に住まわせ、ある傷痍軍人は毎日子供たちを集めては読み書きや計算を教えた。子供たちの将来を考えた時、最低限の教育が必要だと考えたのだ。
上野公園に住みついていたトランスジェンダーの人々と仲良くしていた子供たちもいた。戦後間もない頃、トランスジェンダーの人々は差別用語である「おかま」と蔑まれ、社会の外へ追いやられていた。その一部が上野公園の森にバラックを建てて暮らしていたのである。彼らは自分たちを色目で見ない浮浪児たちをかわいがり、食事を分けたり、仕事を紹介したりした。
また、一般市民の中にも手を差し伸べた人たちがいた。その一人が、石綿さたよ(終戦時48歳)だ。十代の三人の娘を持つ主婦だった。彼女は娘たちとともに上野駅へ行っては、浮浪児らを中野区にある家に連れ帰り、衣食住を提供して我が子同然に育てた。
後に、この家は「愛児の家」という児童養護施設となり、100人以上の浮浪児を迎え入れることになる。戦後の極貧の中で、さたよは私財を投げ打ち、親戚に借金を重ねてまで子供たちを育てたのだ。
終戦時中学一年生だった三女の裕(ひろ)さんは言う。
「子供たちは何年も駅で暮らしてきましたから、盗みが癖になってしまっている子もいましたよ。でも、母がくり返し愛情を注いだことで、子供たちもだんだんと信頼して、いい子になっていきました。僕たちを助けてくれたママさんを裏切っちゃいけないっていう気持ちになっていったんです。この時に愛情を感じられたから、みんな大人になっても健全に生きていけたんでしょうね」
さたよが浮浪児たちを救った背景には、夫の女癖の悪さに長年苦しんでいたことも関係していた。
傷痍軍人にせよ、街娼にせよ、トランスジェンダーにせよ、さたよにせよ、浮浪児を救ったのは人の心の痛みがわかる人たちだった。彼らの善意が、何万人という浮浪児たちの命を支えたのである。
終戦から5年、朝鮮戦争による特需とともに、日本は少しずつ戦後の暗い時代を抜け出していく。それとともに、浮浪児たちも一人また一人と上野の街を離れていった。
だが、彼らを待ち受けていた人生は決して楽なものではなかった。身寄りのない彼らは激動の時代を一人で生き抜かなければならなかった。
ある人物は高度経済成長の波に乗って建設会社を立ち上げ、一獲千金の夢を成し遂げた。後に、彼は手に入れた財産の一部を、自分を育ててくれた「愛児の家」に寄付した。
彼は自分の人生が、さたよの愛情なしでは成り立たなかったと確信していたのだ。施設には、すでに戦災孤児はいなくなり、虐待を受けて親元から引き離された子ばかりになっていた。彼はそんな子供たちに自分から声を掛け、かわいがったという。
一方で、人生につまずいた元浮浪児たちも少なくなかった。熊谷徳久という人物は大人になってから殺人事件を起こして死刑囚となり、石原伸司という元暴力団組長も79歳になって事件を起こした後にかつて浮浪児仲間が身を投げた隅田川に飛び込んで自殺した。
「子供たちの一部が生きていくために悪さをしはじめた。それで街の人たちはみんな俺たちを敵視するようになった。『浮浪児は悪党だ』と見なして追い払い、連合軍の兵士は万引きしただけで銃で撃ってきた。警察だって俺たちを捕まえて食べ物のない施設に放り込むんだ。施設にいたって餓死するだけだから、みんな逃げたけどな」
そんな中でも、浮浪児たちに救いの手を差し伸べた人々もいた。
上野駅の前には闇市(現在のアメ横のあたり)が広がっていて、日用雑貨から食べ物、それに違法な薬物までもが白昼堂々と売り買いされていた。浮浪児たちはそこでおこぼれに預かったり、露店の手伝い、靴みがき、新聞売りといった仕事をして食いつないでいた。
子供たちの話を聞くと、上野公園のノラ猫や不忍池のザリガニを食べたという話をよく聞く一方で、口をそろえるのが「残飯シチュー」が最高においしかったということだ。
先日、長年ホームレス支援をしてきた稲葉剛さん(つくろい東京ファンド代表理事)と一緒になった時、こんなことを言われた。
「石井さんの『浮浪児1945』を読んで思い出したんですが、僕がホームレス支援をはじめた90年代には、元浮浪児だったというホームレスの人たちがたくさんいました。バブルで仕事を失ったんでしょうね。『子供時代にもホームレスで、歳を取った今もホームレスだよ』なんて話していました」
浮浪児として教育を受けられなかった彼らの中には、社会の隅で苦汁をなめてきた者も多い。そうした者たちが歳を取ってから不況の波に呑まれ、低収入の仕事さえ失うことになったのかもしれない。
こうした人々の生きざまについては拙著『浮浪児1945』を読んでいただきたいと思う。加えるなら、さたよが善意で設立した児童養護施設「愛児の家」は現在、孫の徳太郎さんが継いでいて、子供たちの養育に継続して力を注ぐ。
コロナ禍の中、徳太郎さんはこう言う。
「今回、コロナを体験して思ったのが、戦争だろうと伝染病だろうと、社会がどんな状況にあっても、僕たちは未来を担う子供たちを支えなければならないということです。戦後に祖母が国の支援もほとんどない中で浮浪児たちを救ったように、今も困難にある時にきちんと子供たちを守れるかどうかが、将来の日本を守るということにつながるのだと思っています」
終戦から75年。日本は新型コロナウイルスという新たな問題に直面している。だが、私たちが優先して守らなければならないことは何一つ変わっていないのだ。
石井光太(いしい・こうた)
1977(昭和52)年、東京生まれ。著書に『物乞う仏陀』『神の棄てた裸体――イスラームの夜を歩く』『絶対貧困――世界リアル貧困学講義』『レンタルチャイルド――神に弄ばれる貧しき子供たち』『ルポ 餓死現場で生きる』『遺体――震災、津波の果てに』『蛍の森』『浮浪児1945- ―戦争が生んだ子供たち―』『「鬼畜」の家――わが子を殺す親たち』『43回の殺意――川崎中1男子生徒殺害事件の深層』『虐待された少年はなぜ、事件を起こしたのか』などがある。
週刊新潮WEB取材班編集
2020年8月15日 掲載
新潮社
2020年08月15日03時05分
村山富市元首相は15日、戦後50年の「村山談話」発表から25年となったことを受け、談話を発表した。
歴史検証や反省の取り組みを「自虐史観」と捉える動きがあることに触れ、「過去を謙虚に問うことは日本の名誉につながる。侵略や植民地支配を認めない姿勢こそこの国をおとしめる」などと記した。
【特集】2020年終戦の日
村山談話の作成をめぐっては、「肝心なことは歴史的事実を明確にして謝罪の意思を示し、二度と侵略や植民地支配を繰り返さない決意を表明することだと強く指示した」と回想した。
時事ドットコム
地元有志が後世に伝える活動
8/15(土) 6:00配信
NBS長野放送
大本営海軍部壕(長野市安茂里)
特集は戦後75年・戦争の記憶です。「本土決戦」に備えて長野市の松代地区では、旧陸軍を中心に大規模な地下壕が掘られました。一方、安茂里地区でも海軍が地下壕の建設を始めていました。このあまり知られていない壕を後世に伝えようと、住民が活動しています。
長野市松代町の「象山地下壕」。コロナの影響が続くこの夏も見学者は絶えません。
地下壕の工事は終戦の前の年の1944年から陸軍の主導で行われ、「本土決戦」に備え、政府の中枢を移転する計画でした。
見学者(神奈川から):
「(壕が)本当に長いのでちょっとびっくり」
見学者(群馬県から):
「本土決戦になったら、アメリカは容赦しなかったんじゃないかと思う」
昭和天皇の住まいとなるはずだった「御座所」から小さな倉庫まで、いわゆる「大本営」の関連施設は善光寺平一帯に広がっていました。
松代から北西に10キロの長野市安茂里小市地区。この山の中腹にも地下壕が掘られました。斜面にぽっかり空いた穴。「大本営海軍部壕」です。
「昭和の安茂里を語り継ぐ会」が案内看板を設置
今月10日、この春できた「昭和の安茂里を語り継ぐ会」が案内看板を設置しました。週末の見学会に向け、内部を確認します。明かりをつけると…。
語り継ぐ会:
「中が見えますね、そのくらいの方がいいんじゃないですか」
1945年の7月初めごろに着工し、100メートルほど掘った所で終戦を迎えました。幅3メートル、高さ2.5メートルほどで、入口から20メートルほどの所で崩れていますが、さらに奥に続いています。
「語り継ぐ会」は、あまり知られてこなかった地下壕のことを伝えようと活動しています。
地下壕が建設された長野市安茂里小市地区
昭和の安茂里を語り継ぐ会・塚田武司共同代表(82):
「松代の壕はみんな知っているが、安茂里のことは本当に知ってる人が少なかった。戦争の負の遺産ですけど、こんなことがないように。今は幸せだなと思ってもらえれば良いと思う」
昭和の安茂里を語り継ぐ会・岡村元一共同代表(81)
会の共同代表で壕の近くに住む岡村元一さんは、実際に工事を見た1人です。
昭和の安茂里を語り継ぐ会・岡村元一共同代表(81):
「遠くからのぞき見ってことはありましたね。(壕の)前にバラック小屋みたいなのがあって、モーター回してましたね。削岩機を動かす圧縮空気をモーターでつくってたということでしたね」
工事に協力した岡村さんの父親は、壕からこんな物を持ち帰っていました。
昭和の安茂里を語り継ぐ会・岡村元一共同代表(81):
「(Q.本当はもっと長かった)もっと長かったんですよね」
この板で壕の壁や天井を支えたと見られています。完成すれば1000人ほどが入ったと見られ、このような作りになったかも知れません。
でも、日本が降伏せず、建設が進んでいたら…。
昭和の安茂里を語り継ぐ会・岡村元一共同代表(81):
「8月13日に長野空襲がありました。私ら飛行機飛んでるのを遠くから見ただけだけど、(安茂里で)実際にあったら大変なことになってたなと。この辺なんか壊滅状態になったんじゃないかなと」
大本営を研究してきた元高校教員の土屋光男さん
大本営を研究してきた元高校教員の土屋光男さん。陸軍より8カ月遅れた海軍の工事は、かなり慌ただしかったと見ています。
土屋光男さん:
「松代の大本営は陸軍主導で海軍の用地は結局無かったんですよね。いよいよ(東京から)松代に移転しなきゃいけないという時に、海軍の入る場所はということで慌ててここを選んだんだと思います」
土屋光男さん:
「これは、当時の戦時中の日記ですね」
当時の安茂里村長の日記
当時の安茂里村長の日記には、工事を急ぐ海軍の動きが記されています。
安茂里村長の日記より:
「7月26日、横須賀海軍工廠造兵部の薗田部隊勤務の墨谷助市大尉が訪れ、分教場を宿舎として借りたいと申しこんできた」
薗田部隊は、通信業務を専門とする部隊でした。
土屋光男さん:
「松代方面に出かけていろいろ作戦行動をしていたみたいですね。私の推測では通信設備の地下壕への造作をしていたのではないか」
元長野市長・塚田佐さん
長野市長を16年務めた塚田佐さんは当時9歳。家は海軍の宿舎になり、40人程が泊まっていました。
元長野市長・塚田佐さん:
「門の脇に24時間、番兵が、兵隊さんが立ってて学校から帰ってくると、銃をぱっと持って敬礼してもらえて、子ども心にも気持ちいいなと」
一方、軍に協力した大人たちは、内心では…。
元長野市長・塚田佐さん:
「祖父が父に向かって『海軍がこの山の中で穴を掘っているようではこの戦は負けだな』とはっきりそう言ってるのをこの耳で聞きましてね、子ども心にも納得したんですよ。大きな声で話してましたよ、親父もうんうんそうだなとうなずいていました」
玉音放送:
「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び…」
8月15日終戦。
元長野市長・塚田佐さん:
「将校は終戦になってからすぐ、庭でぼんぼん書類燃やしてましたよ。そっちの庭でもこっちの庭でも燃やしてた。重要書類、燃やしてたんじゃないですか」
朝日新聞デジタル
2020年5月6日 5時00分
国民の生命を脅かし、経済にも大きな打撃をもたらす。その危機の深刻さを訴える狙いがあるにしても、新型コロナウイルスへの対応を「戦争」と例えることに、政治家はもっと慎重であるべきだろう。
米国のトランプ大統領は「戦時大統領」と名乗り、中国の習近平(シーチンピン)国家主席はこの闘いを「人民戦争」と称した。フランスのマクロン大統領も「我々は戦争状態にある」と述べた。
確かに、医療現場では、まさに「戦場」のような過酷な光景が繰り広げられている。
それでも、いま起きていることは、あくまで公衆衛生上の緊急事態であり、それに伴う経済、社会の危機である。武力による国家間の争いなどではもちろんない。
危機を強調することで自らの求心力を高め、国民の自由や権利を制約する措置にも理解を得たい。そんな思惑を抱く政治指導者もいるのだろう。
歴史を振り返れば、「戦時」には情報や言論の統制がつきものだ。民主的手続きはないがしろにされ、重要な決定が独断でなされることもある。
だがコロナ禍を乗り越えるには、できる限りの情報開示と、各分野の専門家の意見を踏まえた透明な意思決定、そして国民の納得ずくでの協力がカギを握る。でなければ、時々のリスクや影響を正確に評価し、適切な対策をとるのは難しい。
「戦時」となると、国民の団結が有無をいわさず求められ、隊列を乱す者は糾弾される。個々人の立場や事情を慮(おもんぱか)ることも、理を尽くして説得することもなく、批判や排除の動きが広がれば、社会に亀裂が走り、幅広い連帯は失われてしまう。
立場の弱い人が犠牲を強いられてはいけないし、ウイルスをむやみに「敵視」することが、感染者やその周辺への差別を助長する恐れもぬぐえない。
ドイツのシュタインマイヤー大統領は先月、国民に向けたテレビ演説で「感染症の世界的拡大は戦争ではない。国と国、兵士と兵士が戦っているわけでもない。私たちの人間性が試されている」と語った。
互いに協力して事態を克服する道を探るのか、それぞれが孤立し、独走する道を選ぶのか。そう問いかけ、人と人、国と国との連帯を呼びかけた。
長期化が予想され、出口の見えない危機にあって、複雑な現実を勇ましい言葉で覆ったり、緊張を高めて分断を深めたりしてはならない。それはむしろ、解決への道を遠ざける。
ひとびとの生命と暮らしを守る確かな行動を促すため、冷静に考え抜かれた言葉こそ、政治家に求められる。
配信
安倍晋三首相は終戦記念日の15日午前、自民党総裁として代理人を通じ、東京・九段北の靖国神社に私費で玉串料を奉納した。
参拝は見送った。一方、閣僚では小泉進次郎環境相、萩生田光一文部科学相が参拝した。終戦の日の閣僚参拝は2016年以来、4年ぶり。
首相は奉納に当たり「今日の平和の礎となられた戦没者に心から敬意と感謝の念をささげ、み霊の平安と恒久平和を祈る」とのメッセージを代理人に託した。
第2次安倍政権発足以降、閣僚の終戦記念日の靖国参拝は13~15年に各3人、16年が2人で、それ以降は途絶えていた。首相自身は13年12月を最後に参拝を控えている。
超党派の「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」(会長・尾辻秀久元参院副議長)は、新型コロナウイルス感染拡大を受け、集団参拝を見送った。
毎日新聞
コロナ禍の日常を、漫画家がリレー形式で短編に描く企画「MANGA Day to Day」でトップバッターを務めた。緊急事態宣言で生活が制限され、社会が窮屈になった。読者の気持ちを癒やしたり、元気づけたりするのが漫画の役割だから、出版社の企画に賛同した。
不要不急の外出の自粛で、散歩や草野球といった日常の楽しみが制限された。仕事場の屋根裏部屋にこもって日常を描いていると、記憶がよみがえってきた。まだ6歳だった終戦直後の旧満州(現中国東北部)で体験した、息を殺すように家族で屋根裏に潜んだ日々のことだ。
コロナ禍の中で生きる私たちは、知らず知らずのうちに過ちを繰り返そうとしてはいないか。
過去の教訓 ... コロナ騒動が始まった頃に僕が盛んに言ったのは、「 コロナを戦争に例えてはいけない」ということだった。
「銃後ごっこ」から抜け出せ 大塚英志・国際日本文化研究センター教授. 「疫病と戦争は違うはずなのに、「非常時」「有事」などの比喩を 使った瞬間、戦争を構成していた言葉や思考に私たちはからめ捕られてしまう。
しかし多くの人やメディアがコロナ対策を戦争に例え、「有事」のごとく緊急事態宣言が出されたのを皮切りに、戦時下に「銃後」でなされた思考や行動が繰り返された。
毎日新聞
戦没者の追悼式で政治家らがしばしば口にするフレーズがある。「戦災によって命を落とされた方々の尊い犠牲の上に、今、我々が享受する平和と繁栄があります」。私はこの「尊い史観」を無批判に受け入れることができない。
それが別の戦争被害者、すなわち生き残り、今も苦しんでいる人々への関心を断ち切ってしまう恐れがあるからだ。たとえば戦争に起因する外傷性精神障がいの問題である。
21世紀になっても、戦争被害者が国に補償を求める訴訟が相次いでいる。沖縄戦であり、マリアナ諸島など南方で戦闘に巻き込まれた人たちの南洋戦訴訟だ。いずれも最高裁で敗訴が確定したが、裁判で広く知られた事実も多い。
たとえば原告の多くが、戦場体験によって心的外傷後ストレス障がい(PTSD)など心の傷を負い、今も苦しんでいることが医学的に証明された。私は診断された人たちに話を聞いた。「今でも戦争を思い出して、突然動悸(どうき)やめまいがする」「死んだ母の夢をよく見ます。仕事を辞めて年をとってくると、戦争のことを明確に思い出し、気がめいるようになりました」
これらの診断をし、証拠として医学鑑定書を作成したのは、精神科医で「メンタルクリニックなごみ」(福島県相馬市)院長の蟻塚亮二医師(73)である。青森県弘前市内の病院長などを経て、2004年に沖縄に移住。数年後、那覇市の病院で外来診察をしていた時に「奇妙な不眠」を訴える患者たちに出会った。
8/15(土) 5:30配信
スポニチアネックス
渡哲也さん
「無頼」シリーズなどの日活アクション映画や「大都会」「西部警察」などテレビ史に残るドラマに主演した俳優の渡哲也(わたり・てつや、本名渡瀬道彦=わたせ・みちひこ)さんが10日、肺炎のため都内の病院で死去したことが14日、石原プロモーションから発表された。78歳。
兵庫県出身。14日に家族葬を行った。喪主は妻俊子(としこ)さん。石原プロの来年1月での解散発表から1カ月足らず。男らしさの象徴だった渡さんの訃報に列島に衝撃が走った。
【写真】74年4月、熱海の病院での渡哲也さんと妻の俊子さん
石原裕次郎さん亡き後、大黒柱として石原軍団を率いた渡さんが逝った。石原プロによると、9日午前4時に都内の病院に救急搬送され、緊急入院。医師に「長くて2週間」と余命を告げられたが、翌10日午後6時半ごろ、俊子夫人がみとる中で静かに息を引き取った。
14日に営まれた家族葬に参列したのは家族のほか、石原プロの幹部数人だけ。渡さんを慕っていた舘ひろし(70)ら軍団の俳優の姿はなかった。石原プロは「静かに送ってほしいという故人の強い希望だった」とした。故人の遺志により、お別れ会も営まない。知人は「何事にも慎ましさ、謙虚さを求めた渡さんらしい最期だった」と語った。
渡さんの法名は「萬修院泰然自道居士(まんしゅういんたいぜんじどうこじ)」。20年前の2000年2月29日、出身地の兵庫県淡路市の高雄山観音寺で授かったものという。
来年1月に石原プロを解散することを発表し、大きな役目を終えての永眠。宝酒造の清酒「松竹梅」の第1弾CMから50年となる節目に裕次郎さんとの“共演”CMが放送される中での悲報となった。石原プロ解散後の自身について周囲に「俳優をもう少しやってみようと思う」と前向きに語り、15年に患った心筋梗塞のリハビリを行っていたさなかだった。
青山学院大在学中に芸能界入りし、65年に日活映画「あばれ騎士道」でデビュー。70年代からはテレビ出演が増え、刑事ドラマ「大都会」「西部警察」シリーズで人気を集めた。両シリーズでは頼れる男の姿を見せたが、プライベートでは病気と闘った人生だった。1991年に直腸がんを発症して克服。オストメイト(人工肛門使用者)であることを公表し、同じ病気で悩む人を勇気づけた。体調を見ながら仕事を続けたが、15年6月に今度は急性心筋梗塞と肺気腫で緊急入院。手術を受け、約1カ月で退院。同11月に「松竹梅」のCM撮影で仕事復帰。その後、呼吸疾患の影響で再び体調を崩し、仕事をセーブしながら自宅療養を続けていた。
17年3月には弟で俳優の渡瀬恒彦さんが多臓器不全で72歳で死去。知人は「弟さんが亡くなってからガックリと肩を落とすことが増えた」と言い、近年は体調を心配する声が上がっていた。
圧倒的な存在感を放つ昭和のスターがまた一人いなくなった。
◆渡 哲也(わたり・てつや、本名渡瀬道彦=わたせ・みちひこ)1941年(昭16)12月28日生まれ、兵庫県出身。青学大経済学部卒。64年日活入社、65年に映画「あばれ騎士道」で宍戸錠さんとのダブル主演でデビュー。71年石原プロ入り。深作欣二監督の映画「仁義の墓場」「やくざの墓場 くちなしの花」に主演し、その後は「大都会」「西部警察」シリーズなどテレビドラマで活躍。歌手としても「くちなしの花」がヒットし、NHK紅白歌合戦に2回出場した。私生活では71年に俊子夫人と結婚。一人息子がいる。
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最終更新:8/15(土) 8:17
スポニチアネックス
韓国のテレビ局KBSの女子トイレに隠しカメラを設置したKBSのお笑い芸人で事件の犯人が、全ての疑いを認めた。
【写真】もっと大きな写真を見る 14日ソウル南部裁判所で、性犯罪の処罰などに関する特例法違反、性的目的で公共施設に侵入した疑いを受けているお笑い芸人A氏の初公判が行われた。
A氏は2018年にKBS研究棟にある女子トイレの個室の上から手を伸ばし、用を足す被害者の姿を撮影するなど、今年4月までに全32回に渡る違法撮影と違法撮影未遂があったことが分かった。
また5月にも全15回に渡って同じ方法で撮影を行い、7本の映像を所持している疑いも受けた。 これだけでなく、A氏は超小型カメラを設置するためにKBS研究棟のトイレや更衣室などにも侵入した疑いがかかっている。
A氏は女子トイレに盗撮用のカメラを設置した他にも、トイレに隠れて撮影を行ったことに関しても調査が進められていて、衝撃が広がっている。 A氏の弁護人は「控訴された内容は全て認める」とし、被害者たちとの合意に努めていくという立場を明かした。
5月29日、KBS研究棟にある女子トイレで、隠しカメラと見られる違法撮影機器が発見されたという通報があった。当該機器はKBS所属PDが発見した。
警察の調査が始まると、A氏は6月にソウル ヨンドゥンポ(永登浦)警察署に自首し、1次調査を受けた。 次回の公判は9月11日に開かれる。
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