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報知新聞社
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2017年5月23日 6時56分 朝日新聞デジタル
下地毅
夫婦は「長男のかわりに死んであげたい」と同時に口にした。目に涙を浮かべ、互いの手を握り合った=大阪市
自殺に追い込まれた人は直前にSOSを出しているという。身近な人が気づくことが大切だともいう。そうであるなら、見落とした私たちはどれほど愚かなのか――。34歳の長男を自殺で失った大阪市の母親(53)と父親(52)は「この世の地獄そのもの」と、ひたすら悔いる日々を送る。
「これが私の産んだ子か」。棺(ひつぎ)の中にいる長男の左ほおに右手を添えて、母親は思った。
「葬儀が終わったら、自分も死のう」。長男の右ほおに左手をあてて、父親は考えた。
父親だけが泣いた。「冷たい」という手の感触は、2人とも同じだった。
昨年9月に長男が亡くなってから、2人は月命日の墓参りを欠かさない。語りかける言葉は変わらない。
母親は「いつもわがままを言ってきたやんか。どうしてこの時だけ、この道を選んだんや」。
父親は「ごめんな。もっと早く何かに気づいてやれれば。ごめんな。SOSに気づかれんで」。
周囲がSOSに気づいてあげて。自殺防止をめぐって必ず出るこの言葉に、2人は打ちのめされている。
離れて住んでいた長男は死の2日前、2人の家に遊びに来た。いつもの何でもない日常。何の印象も残さなかった。
前日、「お金を貸して」と電話をかけてきた。たまにあったことだ。「いまから取りにくるか」と尋ねた父親に、「明日でええ」と答えた。
亡くなった日の夜、「おかんたのむわ(笑)」というメールを友人に送っていた。そのことを、2人は翌朝に知った。
父親は「無念。断腸の思い。悔い。いろいろ言えますが、正直に言うて、今も理由が分かりません」。
母親は、長男の人生すべてがSOSだったのだと思いつめている。
離婚したとき、小学4年の長男を引き取った。いまの夫と同居するようになった4年前まで、ミナミのクラブで働き、雑貨店も営んだ。「小学生に独り暮らしをさせたようなもの」
幼稚園の連絡帳に、「元気です。でも、お友だちにいじわるしたんですよ」と書かれた。夢はお相撲さん、後にプロボクサー。高校を出て職を転々とした。20代の一時期、うつ病だった。毎年一緒に行った沖縄旅行では、浜辺でぼんやり寝そべってばかりだった。
「孤独だ」「寂しい」。長男はいつだって、そう叫んでいたのだ、と母親は考えるようになった。SOSじゃないと思えるのは、3600グラムで生まれたことぐらい。自分の子育ては全て間違っていた。あらゆるSOSに気づけなかった。そう自分を呪い続けている。
長男の遺影は枕元に置いてある…
原田隆之 | 筑波大学教授
7/19(日) 10:00
メディアはどう報じるべきか
俳優三浦春馬さん死亡のニュースが報じられたのは、7月18日土曜日の午後でした。人気俳優の突然の訃報にメディアは騒然としています。報道によると自殺の可能性があるとのことです。
私はその直後に、あるメディアからの依頼を受け、自殺に関して一般の人々が知っておくべきことや、メディアの報道に関する注意点などについて寄稿しました(現代ビジネス「三浦春馬さんの突然すぎる死・・・自殺大国で私たちやメディアができること」)。
しかし、その後の報道の洪水を見ると、残念なことに自殺の方法や場所などが具体的に報じられていたり、その原因を単純化して推測したりする記事があふれています。
メディアの報道に関しては、世界保健機関(WHO)による「自殺予防 メディア関係者のための手引き」が出されています。そこでは、以下のような点が列挙されています。
努めて、社会に向けて自殺に関する啓発・教育を行う。
自殺を、センセーショナルに扱わない。当然の行為のように扱わない。あるいは問題解決法の一つであるかのように扱わない。
自殺の報道を目立つところに掲載したり、過剰に、そして繰り返し報道しない。
自殺既遂や未遂に用いられた手段を詳しく伝えない。
自殺既遂や未遂の生じた場所について、詳しい情報を伝えない。
見出しのつけかたには慎重を期する。
著名な人の自殺を伝えるときには特に注意をする。
自殺で遺された人に対して、十分な配慮をする
(札幌医科大学 河西千秋教授 訳)
ここでは特に、著名人の自殺の影響の大きさを考えて、センセーショナルな報道を控えるべきことや、自殺の方法などについて具体的に報じないことなどを求めています。著名人の場合は、一般の人々に与える影響が大きいことがその原因です。
さらに、いくら著名人であっても、一人の人間であることは変わりません。亡くなったあとに、その具体的なことをことさら詳細に報じられることは、個人の尊厳に対する冒涜です。また、残された家族なども、繰り返し報道されることによって、さらに傷を深めてしまううえ、プライバシーを侵害されることもあります。
自殺のリスクファクター
自殺の報道に関して、専門家がさらに求めていることは、自殺の原因を単純化せず、そのリスクファクターを正確に伝えるということです。
仕事のストレスがあった、繊細な性格であったなど、単純な理由で第三者があれこれと無責任な推測をすることはやめるべきです。
自殺のリスクファクターとして、日本精神神経学会は、以下のようなものを挙げています。このような要因が複雑に組み合わさって自殺は生じると考えるべきなのです。
個人的要因
過去の自殺企図・自傷行為歴
心身の疾患の罹患やその悩み(うつ病、病苦)
アルコール、薬物の乱用
孤立や社会的支援の欠如(悩みを相談したり、支援してもらえる相手がいない)
自殺につながりやすい心理状態や性格(不安、衝動性、絶望感、攻撃性)
家族歴
状況的要因
喪失体験(身近な者との死別、失恋、人間関係の破綻など)
過去の苦痛な体験(被虐待歴、いじめ、犯罪被害など)
職業・経済・生活上の問題(失業、多重債務、生活苦、不安定な生活)
自殺手段への容易なアクセス(毒劇物や刃物などが身近にある)
ストレスの大きなライフイベント
社会文化的要因
支援を求めることへの偏見や抵抗感
支援へのアクセスの障害
特定の文化的・宗教的信念
他者の自殺行動を見聞きすることの影響
自殺についての誤解
自殺については、一般に大きな誤解があることも指摘されています。
誤解
1. 自殺を口にする人は本当は自殺しない。
2. 自殺の危険の高い人の死の意志は確実に固まっている。
3. 自殺は何の前触れもなく生じる。
4. 極度の抑うつなどの危機的状況がおさまって症状が改善すると、二度と自殺の危機は起きない。
5. 自殺は予防できない。
事実
1. 自殺した人のほとんどはその意図を前もってはっきりと打ち明けている。
2. 大多数の人は死にたいと言う気持ちと生きていたいという気持ちの間を揺れ動いている。
3. 自殺の危険の高い人はしばしば死にたいというサインを表わしている
4. うつ病の最盛期は自殺するエネルギーすらないことが多い。いったん改善してエネルギーが戻ってきて、絶望感を行動に移すことができるような時期にしばしば自殺が生じる。
5.大多数は予防が可能である。
(平成14年度厚生労働科学研究費補助金「自殺と防止対策の実態に関する研究」研究協力報告書をもとに作成)
いまわれわれは
われわれは、自殺に対して正確な知識を持つことが大切です。それが自殺をきちんと理解し、正しい対処や予防が取れるようになる第一歩だからです。
新型コロナ感染症の不安にさらされるなかで、否が応でもわれわれは人間の弱さに直面させられる日々が続いています。われわれは、自然はコントロール可能で、感染症などは制圧したという愚かな勘違いをしていました。人間の都合で世の中が回っていると錯覚していました。
その勘違いや錯覚から目を覚まされ、大きな不安や先行き不透明感が世界を覆っています。
しかしその反面、命の儚さと尊さにも気持ちを新たにしているのではないでしょうか。命が有限であり、自分ではコントロールできないものだという事実は、どうしようもありません。しかし、だからこそその儚さと尊さを噛み締めているのです。
今回の訃報に対しても、センセーショナルなニュースとして消費するのではなく、失われた命と遺された人々のことに思いをはせ、静かに手を合わせる気持ちを忘れないようにしたいものです。
謹んでご冥福をお祈りします。
原田隆之
筑波大学教授
筑波大学教授,東京大学客員教授。博士(保健学)。専門は, 臨床心理学,犯罪心理学,精神保健学。法務省,国連薬物・犯罪事務所(UNODC)勤務を経て,現職。エビデンスに基づく依存症の臨床と理解,犯罪や社会問題の分析と治療がテーマです。疑似科学や根拠のない言説を排して,犯罪,依存症,社会問題などさまざまな社会的「事件」に対する科学的な理解を目指します。主な著書に「痴漢外来:性犯罪と闘う科学」「サイコパスの真実」「入門 犯罪心理学」(いずれもちくま新書),「心理職のためのエビデンス・ベイスト・プラクティス入門」(金剛出版)。
古典的経済学者は「人間は合理的」と考えた。だが、現実の人間は状況を見誤り、損な選択をしてばかりだ。今では行動経済学者に「バイアスもちの愚か者」と見なされている。では愚かな人類が繁栄できたわけは?
本書は、まったく新しい進化心理学を基礎に目からウロコの議論を展開する。動物にとっては、遺伝子の複製を増やす行動こそ合理的だ。進化がきみの脳に授けた愚かなバイアスは、じつは優れた仕組みだった!
【自殺するウミガメ】
愚かにも自殺するウミガメがいる。ふ化すると海ではなく道路に飛び出す。といっても、死を望んでではなく、本能に従ってのことだ。ウミガメは進化の過程で、真夜中にふ化し、明るい方へ進む本能を得た。夜の砂浜近くの明るい場所といえば、昔は月や星の光を反射する海だけだったから合理的だ。しかし、人工照明が出現し、その光に惑わされた海の賢者は愚か者となった。
人間はどうか? 現代人の脳は原始人のものとほとんど変わらない。太古の合理的な脳は現代の光に惑わされ、愚かな選択をしてしまう。
【合理的な転落人生】
無一文から大金持ちになり、破産を迎える人は少なくない。破天荒に生き、大金を一瞬で使い切る。堅実な人から見れば愚かだが、正しい使い道は?
ネズミとゾウのエネルギー投資が参考になる。ネズミは自らの成長よりも生殖に多く投資する。いつ死んでもいいように出し惜しまない破天荒タイプだ。ゾウは堅実タイプで、成長に多くを投資した後、じっくり子育てする。
貧しく不安定な幼少期を過ごした人にとって、明日失いかねない金は今使うのが正解だ。安定した幼少期を送った人は慎重になる。死にかけて、堅実から破天荒へ宗旨替えする人もいる。人の行動は合理性の表れではなく、それぞれがおかれた環境で懸命に生きようとした結果だ。
【原著について】
本書は、2013年にBasic Booksから出版されたThe Rational Animal: How Evolution Made Us Smarter Than We Thinkの翻訳である。ミラー、ゴールドスタイン、チャルディーニなど著名な意思決定科学者に賞賛された。アリエリー『予想どおりに不合理』やカーネマン『ファスト&スロー』より深く「人間とは何か」を考察した知的興奮の書。
2020/5/3 13:05神戸新聞NEXT
大手前大学総合文化学部 尾崎耕司教授
新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言から1カ月近くが経過し、社会の機能不全は長期化の様相を呈している。
歴史を振り返れば明治以降にまん延したコレラで健康を侵されることを恐れた人々が、患者に危害を加え、差別や暴動に至った経緯がある。大手前大学総合文化学部の尾崎耕司教授(公衆衛生史)は「不安による集団ヒステリーが社会規模で広がると、普段であれば理性的に対応できる人も、どんどん追い詰められていく」と警鐘を鳴らす。(井原尚基)
明治期の日本ではコレラがしばしば流行し、1879(明治12)年と86(明治19)年には国内での死者が10万人を超えた。
「コレラで亡くなる人が多いのは、生きている患者が殺されているからだ」。79年の流行時、新潟ではこんなデマが広がった。一部の住人が毒をまいたと疑われ、私刑にしようとする民衆と保護しようとする警官が衝突、暴動が発生したという。愛知でも同年、警察官が井戸の周囲を消毒しようとした際、住人から「毒を入れている」と疑われ、暴動が起きた。
尾崎教授によると、コレラ患者に対する危害は、デマだけでなく、実際に行われたという。85年、長崎市の高島炭鉱でもコレラが流行し、苦しんでいる患者が、亡くなった患者とともに海岸へ送られ、鉄板の上で生きたまま焼き殺されたとの記述が、当時の新聞にある。
また、1925(大正14)年に発行されたルポルタージュ「女工哀史」は、大阪の工場でコレラ患者が増えた際の様子を記録。工場側が患者の存在を隠そうとしたためコレラが広がり、工場主が医師を買収して感染者に毒を飲ませ、数百人の女性が殺されたとある。
「予防法も治療法も分からない状況で人々の恐怖心や不安が大きくなったため、いたましい出来事が起きた」と尾崎教授。一般の住宅でも、患者は行政によって有無を言わさず家族と引き離されたといい、残された家族らが、悲しみと怒りから病院を襲撃する事件が各地で起きた。集落ぐるみで患者を隠し、結果として感染を拡大させた事例も見られたという。
患者と家族との面会が制限されるといった明治期の悲劇は現代の日本と通じるものがある。過去の教訓を踏まえ、尾崎教授は「行政機関は、患者や家族の怒りや悲しみに寄り添う必要があり、予防法などの情報提供をより充実させることが求められている」と訴える。
【おざき・こうじ】1963年、大阪府岸和田市出身。96年、神戸大大学院文化学研究科博士課程単位取得退学。日本近代史を専門とし、特に医療や公衆衛生を研究している。論文に「万国衛生会議と近代日本」など。
もう魔女狩りや隣組を笑えない
辻田 真佐憲文筆家
近現代史研究
新型コロナウイルス感染症で、不安の暴走が止まらない。日本各地で、信じがたい差別事件が相次いでいる。
「感染している学生の名前や住所を教えろ」「殺しに行く」(朝日新聞、4月8日)、「学生を殺しに行く」「学生の住所を教えろ」「大学に火を付ける」(毎日新聞、4月16日)、「殺す」「この時期に海外旅行なんて生物兵器かよ」(北海道新聞、4月20日)。
これらはすべて、集団感染が発生した京都産業大に寄せられた脅迫電話やメールの文言である。さらに同大では、学生がアルバイトの出勤を拒否されたり、職員の家族がこどもの保育を断られたりする被害も出たという。
これひとつでもたいへんな問題だが、いまはコロナ禍でどんどん新しいニュースが報道され、古いものはすぐ流れ去ってしまう。
これでは同じことが繰り返されかねない。そこで以下では、ここ約1ヵ月に報道された差別事件などを振り返ることにしたい。
これを読むと、中世の魔女狩りや、戦時中の隣組などのことを笑えなくなってくる(カッコ内の月日は、いずれもメディア上の日付。なお掲載終了により、リンク先の記事が消えている場合もある)。
「卒業後は、どこに入社する予定だったのかな?!」
まず、差別的な発言から見ていこう。感染者本人のみならず、その関係先や医療機関の関係者にも、心無い言葉が投げかけられるケースが目立っている。
福島県では、郡山女子大系列校の生徒が、知らない男から「コロナ」と指をさされた(福島民友新聞、3月27日)。
関東地方では、訪問看護師が、路上で「お前のせいで感染が広がるだろう」「お前の患者にもコロナはいるだろう。そいつの家を教えろ」と話しかけられた(毎日新聞、4月15日)。
場所は不明だが、感染者の遺族が、職場などで「お前も感染者じゃないの?」と聞かれ、露骨に避けられることもあった(時事通信、4月17日)。
絵に描いたような差別の連続で、読んでいて頭が痛くなってくる。SNS上の発言も、匿名だけに深刻である。
秋田県内の感染をめぐっては、感染者や診療した医療機関などに対して、「バカなの?」「超迷惑」との書き込みが行われた(読売新聞、4月9日)。
鹿児島市で最初の感染者が確認された件をめぐっては、「標準語を話す人は隔離対象」「鹿児島に来る人には何かしら罰則規定を決めていい気がする」との書き込みが行われた(NHK、4月9日)。
日本では、かつて標準語を強要するために、学校で方言を話すと見せしめに「方言札」という木の札を首からかけさせたことがあった。それをほうふつとさせるような書き込みだ。
また、政治家が実名で、悪質な発言をするケースも見られた。
国土交通省の大臣政務官は、3月30日、感染した京産大の学生を念頭に「卒業後は、どこに入社する予定だったのかな?!」とツイートした。
大阪府泉南市の市議は、4月10日、自身のフェイスブックに感染者を「高齢者にとっては殺人鬼に見える」と投稿し、謝罪に追い込まれた。
これ以外にも、ヨーロッパを旅行した学生にたいする批判が多かったが、3月頭だと、感染症もそれほど広がっていなかった。それで「無責任」と責め立て続けるのは、あまりに酷薄ではないか。
そもそも、日本は同月24日まで東京オリンピックを開催する予定だったのであり、都知事も19日に「中止も無観客もありえない」と強調していたことも思い出したい。
県外ナンバーに、暴言、あおり運転、投石、傷つけ……
差別的な行為は、発言だけに留まらない。
兵庫県小野市では、医療機関の関係者や患者らが、ばい菌扱いされたり、出勤停止にされた(東京新聞、3月28日)。
京都府城陽市では、感染者の名前が書かれた真偽不明の紙が住宅の壁などに張り出された(共同通信、4月8日)。
三重県では、感染者の家に石が投げ込まれ、壁に落書きされた(朝日新聞、4月22日)。
いずれも深刻な人権侵害だが、本来ならば警鐘を鳴らすべき公的機関も、ときにこれに拍車をかけているのだから始末に負えない。
愛媛県新居浜市では、長距離トラック運転手の世帯が、公立小学校よりこどもを登校させないように求められた(読売新聞、4月9日)。
岩手県花巻市では、東京からの移住者が、住民よりマンションへの入居を渋られただけではなく、市役所から転入届の受け取りを拒まれた。しかもその移住者は、仮住居で火災に遭い亡くなった(毎日新聞、4月18日)。
よく知られるように、一部の自治体では、県外ナンバーの監視、来県者への検温などを行っている。ただちに深刻な人権侵害とはいえないのかもしれないが、これが「越境者」への過度な警戒心を高め、不当な行為を誘発している面はあるだろう。
徳島県では、県外ナンバーの車に、暴言、あおり運転、投石、傷つけなどの被害が発生した。同県知事はこれを受け、県外ナンバーの調査が「強いメッセージになり過ぎたかもしれない」と釈明している(徳島新聞、4月24日)。
これにたいして、「徳島県在住者です」と記されたステッカーまで発売され、よく売れているというが、本末転倒といわざるをえない。
「まだ営業しているぞ」と密告も
厳密には差別と異なるが、自粛の強要も今回見逃せないできごとである。
東京都港区では、スポーツクラブのドアが、まだ営業していると腹を立てた男に破壊された(ライブドアニュース。日本テレビ配信、4月9日)。
大阪府では、「対象の店が営業している」との通報が同府のコールセンターに4月20日までに500件以上寄せられた。また、営業再開の方針を打ち出した吹田市のレストランには、「なぜだ」「見損なった」との批判メールが多数届いた(共同通信、4月20日)。
東京都杉並区では、ライブハウスに「次発見すれば、警察を呼びます」という自粛を求める紙が張り出された(ハフポスト、4月27日)。
日本で「自粛要請」が機能するのは、「民度が高い」からではなく、このような「道徳自警団」や「自粛警察」の私的制裁が存在するからだ。しかもこれらの人々は、しばしば「地域を守るため」「家族を守るため」善意でやっているのだから、手に負えない。
おそらく役所の電話口には、「あいつの家はひそかに旅行しているぞ」などという通報がいくつも届いているのではないか。驚くほど陰湿な相互監視社会である。
以上は筆者が集めたものなので、漏れはあるだろう。それでも、たった1ヵ月でこの惨状となった。世界のできごともあわせると、事例は何十倍にも膨れ上がるにちがいない。
これまでもそうであったように、非常時は人々の感覚を麻痺させる。それは、普段やってはいけないとされていることが、大義名分のもとで解除されるからだ。
たとえば、「お前はなんで国策に協力しないのか」と突っかかり、他人を従わせることなどがそうだろう。それはときに快楽にもなりうる。
そのため、なかなか自制がむずかしいのだが、やはりこういう想像力を持つしかないのではないか。「新型コロナウイルスには誰でも罹るし、感染の噂だって流される可能性がある。そのとき、以上のような差別が、自分や周りの身に降り掛かってくるかもしれない」と。
後世の学校教科書に、「この時代の人々はこんな愚かなことをしていました」と紹介される振る舞いをしないように心がけたい。
8/29(土) 0:51配信
神戸市の企業主導型保育所「須磨うみとやま保育園」では保育士らが一斉に退職の意向を示し保護者からは困惑の声が上がっている。
労働条件の問題から保育士や調理師ら10人が8月末で退職し、園長も9月に退職する意向を示している。
京都にある運営会社から労働条件が一方的に変更されたり、賞与の金額の内訳が知らされないことなどが理由だという。
園長は「子どもたちのため保護者たちのためというところでは本当はもっと続けたい。
やっぱり、この運営のもとでは続けるのが難しいというのが結論」と話した。また
保護者からは「一番の被害者は子供。友達も、慣れ親しんだ先生たちも園もすべて失ってしまうことになるので本当にかわいそうだ」という声があがった。
運営会社は8月27日28日の2日間にわたり保護者への説明会を開いた。また、神戸市の聞き取りに対しては
「新たな職員を採用し、9月以降も事業は続ける」と説明している。
8人は出血した男性を発見後、すぐさま110番通報。近隣住宅に助けを求めるなど協力して迅速に動き、人命救助に貢献した。
感謝状を贈呈されたのは、浅見胡太朗君、伊藤汐優君、大田匠真君、岡安大優君、菅野隆紀君、斉藤理人君、柴田陸君、横森瑛翔君の8人。
同署によると、8人は7月30日午後4時20分ごろ、岩槻区黒谷の和土住宅公園で遊んでいる最中に、公園南側の路上を歩行器で歩いていた男性が突然倒れるのを発見。男性は側溝につまずいて頭部から出血し、動けない状態だったという。
「おじいちゃんが血を流している」。転倒する瞬間を見た浅見君が男性に近寄り、持っていたスマートフォンですぐさま110番。ほかの7人は役割分担し、助けを求めて近隣住宅を訪れたり、警察の到着まで男性に「大丈夫だよ」などと声を掛け、励まし続けた。大田君は「おじいちゃんが死んじゃうと思って必死に走って大人の助けを求めた」と話す。
その時の様子を岡安君は「人生で一番焦った」。横森君は「パニックになり、友達みんなでできることを協力した」と振り返る。
その後、警察官が到着し、男性は救急車で病院へ搬送され頭を数針縫ったが、命に別条はなく、退院したという。 男性を励まし続けた斉藤君は「助かって本当に良かった」。救助する時に友達と役割を確認し合ったという菅野君は「おじいちゃんが心配だったので、無事の知らせを聞いてうれしい」と安堵の表情。浅見君は「今回をきっかけに、また困っている人がいたら助けたい」と大きな自信を手にした様子で話した。 8人に表彰状を手渡した山崎満署長は「けがをして動けないお年寄りを見てすぐに110番通報し、協力して救助してくれたことは素晴らしい。これからも人を思いやる優しい気持ちを忘れずに、困っている人を見たら手を差し伸べてもらいたい」と、とっさの判断で協力して人命救助に貢献した8人に賛辞を贈った。
神奈川新聞社
村尾 行一 (著)
友愛労働歴史館は4月24日(月)14:00~16:00、第14回政治・社会運動史研究会を開催しました。
テーマは「全体主義と闘った男 河合栄治郎」で、今回の政社研は産経新聞の湯浅博論説委員を招き、公開報告会の形で開きました。
元東京帝国大学教授の河合栄治郎は、「理想主義、人格主義、教養主義」の人とされ、戦前期の日本において左の全体主義(共産主義・マルクス主義)を強烈に批判し、また軍部が台頭すると右の全体主義(軍国主義、ファシズム)とも闘った人物として知られています。
このため河合栄治郎は「闘う自由主義者」と呼ばれました。ファシズム・軍国主義を批判して東京帝国大学を追われ、1944(昭和19)年に53歳で亡くなっています。
河合栄治郎は多くの門下生を育ています。
学会では大河内一男・安井琢磨・木村健康・山田文雄・猪木正道・土屋清・関嘉彦・音田正巳らがいます。
戦後、河合の精神を受け継いだ人々は、社会思想研究会・社会思想社・民主社会主義研究会議(現・政策研究フォーラム)を創立し、社会党右派や民社党のブレーンとしても活躍します。ビジネス界では東京電力社長の木川田一隆や日銀総裁の山際正道・宇佐美洵・佐々木直らが知られています。
報告を行った湯浅博氏は、2月に『全体主義と闘った男 河合栄治郎』(産経新聞出版)から刊行しており、今回の報告会はそれを記念したもの。湯浅氏は河合栄治郎に影響を与えた人々(徳富蘇峰、新渡戸稲造ら)から話しをスタートし、河合の人間像・思想について1時間余に亘って報告を行いました(詳細は略)。その後、参加者からの質疑・意見交換を行い、16時前に閉会しました。
NHK取材班・編 2004年刊)
平民宰相 原敬暗殺――くじかれた改革に夢――
大正10年(1921)11月4日、東京駅構内、駅長室前で突然現れた暴漢によって、時の宰相(さいしょう)・原敬は暗殺されるという大事件があった。
平民宰相の名で親しまれた原は、国民の圧倒的人気を集めていた。
原は日本を平和的な産業国家とするべくさまざまな改革に着手した。
だが原を待っていたのは相次ぐ困難の数々だった。
言う事を聞かない官僚たち、軍縮に反対する軍部。
次々に発覚するスキャンダル。
なんとかして政治への信頼を取り戻したいと考えた原は、直接国民に話しかけるため遊説に出発する。
今回新たに発見された「原家日記」には、原が就任直後から執拗な脅迫を受けていた記録がある。
暗殺者に付け狙われていることを知りながら、原は遊説の旅に出かけた。
原はなぜ危険を承知で遊説に向ったのか。
命を賭して原が訴えようとしていたものはなにか。
そして原がめざしていた理想の政治とは。
平民宰相原敬暗殺の瞬間に秘められたドラマを描く。
グラビア
Ⅰ 青年時代の挫折
1 岩手県平民・原敬
2 陸奥宗光との出会い
3 人生の転機
Ⅱ 政党内閣誕生
1 米騒動
2 平民宰相・原敬
3 次の時代に備えた教育改革
Ⅲ 暗殺者の影
1 脅迫状
2 政治腐敗の構造的要因
Ⅳ 原敬暗殺
1 しのびよる影
2 列車内の危機
3 運命の日
4 気丈に振る舞った妻・浅
5 我々の時代の課題
6 原の政治理念
取材ノート&参考文献
原 敬(1856-1921)
明治・大正時代の政治家。新聞記者を経て官僚となり、伊藤博文に信任されて立身。
立憲政友会に属し、逓信相・内相を歴任。
1914年(大正3)立憲政友会総裁に就任。
寺内正毅内閣のあとを受けて、最初の政党内閣を組閣し「平民宰相」と呼ばれて立憲政友会の全盛時代を現出したが、東京駅で暗殺された。
『原敬日記』は大正政治史の重要史料。
〈ゲスト〉川田 稔(かわだ みのる)
名古屋大学大学院環境学研究科教授・法学博士。
1947年高知県に生まれ、岡山大学を卒業し、名古屋大学大学院法学研究科東洋政治思想史専攻博士課程修了。
政治思想史を研究分野とする。日本福祉大学教授から名古屋大学教授となる。この間に、フランス国立社会人類学研究所客員研究員を務める。
著書に『原敬と山県有朋』『原敬 転換期の構想』『柳田国男の思想史研究』『意味の地平ヘ――レヴィ・ストロース、柳田国男、デュルケーム』などがある。
Ⅰ 青年時代の挫折 top
1 岩手県平民・原敬
江戸時代の終わり、時代が明治へと移り変わる時。薩摩・長州を中心とした新政府軍と戦って敗れた東北地方の諸藩は、朝廷に弓を引いた者として、賊軍の恪印を押された。
岩手県盛岡市は、戦いに敗れ、賊軍となった南部藩の居城があった土地である。
原敬は、この南部藩の家老の家に生まれた。
12歳の時、藩は戦争に敗れて没落。その7年後、原は次のような届けを出した。
「岩手県平民・原敬」
原は自ら士族の身分を捨て、平民として生きる決意をしたのである。
――これからは身分や家柄によらず、自分のカで生きていくしかない。
そう思ったからであった。
学問で身を立てようと考えた原は、20歳の時、司法省法学校、のちの東大法学部を受験し、104人中、2位という抜群の成績で合格。
――たとえ賊軍の出身であっても、実力では負けないことを証明してみせる。
そう意気込んで学生生活をはじめた原だったが、思わぬ挫折を経験することになる。
寄宿舎の待遇改善を求める学生運動の先頭に立った原は、薩摩藩出身の校長と対立。
「賊軍の小せがれが生意気な真似をする」
そんなふうに原を見る校長の態度に、原は激しく反発した。
「国民の誰が朝廷に弓を引いたというのか。勝てば官軍、負ければ賊軍というとおり、汚名を着せられただけではないか」
やがて処分が決まった。校長の権威に逆らった原は、退学を命じられたのである。
2 陸奥宗光(むつむねみつ)との出会い
明治21年(1879)、23歳の時、原は郵便報知新聞に入社。
猛勉強の甲斐あって得た語学の力を生かし、海外からのニュースの翻訳を任される。語学力を認められた原は、26歳の時、外務省の翻訳係として採用された。
――今度こそ、自分の実力を思うまま発揮できる。
そう思った原は、期待に胸を膨らませて外務省へ出勤した。
ところが、そこで原を待っていたのは、またしても薩摩や長州の出身者が幅をきかせる門閥の壁だった。当人の実力ではなく、門閥や縁故で出世が決まる現実の前で、閑職に甘んじる日々がつづいた。
そんな原に転機が訪れたのは、明治25年(1892)、陸奥宗光が外務大臣となった時であった。
陸奥は原の実力を認め、通商局長に抜擢した。
陸奥のもとで原は異例の出世をつづけ、明治28年(1895)39歳で外務次官に就任。外務省の職員採用をこれまでのような縁故によるものではなく、試験によって行うという画期的な制度を導入する。
――コネや縁故に左右されない人事を行わなければ、組織は駄目になってしまう。
そう考えたからであった。
このころ、原は私生活でも人生の転機を迎えた。
新橋の芸者・浅との出会いである。浅は、原と同じく南部藩の士族の娘ながら、明治維新のあと一家が没落。苦難の人生を歩んでいた。
時代が大きく変わるなかで辛酸を嘗めてきたという同じ境遇を持つ二人は、やがて結婚。浅は生涯にわたって、原の政治家としての活動を支えつづける伴侶となった。
浅と出会ったころから、原は本格的に政治の世界に関わるようになった。
――門閥や既得権益の壁に阻まれて、多くの国民が恵まれないままでいる。そんな世の中を変えるには、政治を変えるしかない。
そう思ったからであった。
明治33年(1900)、原は立憲政友会の旗揚げに参加。
明治35年(1902)、故郷・盛岡から衆議院議員に立候補し、初当選を果たした。この時46歳。国政の最前線に立って活躍する日々がはじまった。
妻・浅に原が語った言葉がある。
「自分は61歳を限りとして、政治家生活を退くつもりである。それ以上政治に携わることがあれば、命はないものとして覚悟しなければならぬ」
大正7年(1918)、原は60歳を超え、妻への言葉どおり引退を考えはじめていたとも思われるころ、米の値上がりと買い占めに怒った
人々が暴動を起こした。
この富山県に端を発した、いわゆる米騒動は全国に拡大。やがて、原を首相の座に押し上げる要因となっていったのである。
3 人生の転機
今回のゲスト、大正時代の政治史を研究されている名古屋大学教授の川田稔さんにお話をうかがった。
――川田さんは、原敬についての論文や著書を数多くお持ちですが、原敬は青年時代、相当苦労したようですね。
川田 藩が没落し、生家も厳しい状況になり、仕送りがなくなったりもするんですね。
――また、青年時代の原敬を阻んでいた官僚主義の壁、この実態はどのようなものだったのでしょうか。
川田 明治時代になって、原は実力の時代が来ることを期待したのかもしれませんが、実際には江戸時代の身分制社会に代わって、明治維新に官軍として貢献した一部の薩摩・長州出身者が政治や行政の実権を握っていたんです。
原が入った官僚の世界も同じで、陸奥宗光と出会うまでは、なかなか実力が発揮できず、苦労したようです。一時はいまでいう窓際族に近い状況になりましてね。外務省時代、窓際族にされた原の日記には、一日じゅう、新聞の三面記事を読んで時間をつぶす」という記述があります。
――要するに実力があっても藩閥ということで除外される。そのことが、彼の政治家への方向性になったというふうに考えてよいのでしょうか。
川田 そうですね。やはり原が政党に入ったのは、一部の既得権益を待つ人々だけでなく、国民の誰もが能力を発揮できるような世の中の仕組みをつくりたかった、というのも一つの理由でしょう。
Ⅱ 政党内閣誕生 top
1 米騒動
大正6年(1917)、ロシアで起こった社会主義革命。その知らせは世界じゅうを驚愕させた。
時の首相は長州出身で、もと陸軍大将の寺内正毅(てらうちまさたけ)だった。
寺内内閣は、革命によるロシアの混乱に際し、大陸での日本勢力圏拡張を目的としてシベリアに軍隊を派遣する。
野党・政友会の総裁として政治の重鎮となっていた原は、出兵に反対した。
「国民に徹底的了解を得るまでは、シベリア出兵を延期すべきである」
無理を承知で強行したシベリア出兵は、やがて国内に深刻な影響をもたらすことになった。
大正7年(1918)8月、米騒動の勃発である。軍隊への兵糧米(ひょうろうまい)の需要が高まることを見込んだ商社が米を買い占め、米の価格が急騰したのだ。暴動は全国に拡大し、70万人が参加する大騒動になった。
寺内内閣は、商社から強制的に買い戻した米を放出し、価格を操作して、市場を規制するという手段で騒動を収めようとする。しかし効果は上がらなかった。
このころ、盛岡に帰省していた原を、政友会の幹部が訪ねた。寺内内閣の崩壊は近いと見た幹部は、政権奪取を訴えた。
「総裁たるあなたが即座に上京し、政局打開に当たるべし」
しかし原は動こうとしなかった。
『原敬日記』にはこう記されている。
「官僚系の寺内内閣を一掃して政局の一新を来す事を得べしと思う。
去りながらかくのごとき手段は必ずしも国家に利益の事のみにあらずと思うに付、なるべくはその荒療治なくして政局を一新する事を希望す」
――いま政権奪取に動けば、日本の政治に混乱を招くだけだ。
それが原の考えだった。
米騒動の収拾に手を焼いた政府は、ついに軍隊を投入して鎮圧をはかった。これに対して、国民に軍隊を向けるとは何事かという非難が集中し、寺内内閣は総辞職に追い込まれることになったのである。
2 平民宰相・原敬
――後継の首相は、はたして誰が務めるのか。
衆目は原敬に集まった。
政治の実権を握っていた薩摩・長州出身の実力者たちも、ことここに至っては、国民の人気が高い原に政権を委ねるしかないと判断する。
大正7年9月29日。原敬、第19代内閣総理大臣に就任。
それまで官僚や特権階級の出身者で占められていた日本の首相の座を、はじめて平民出身の政治家が占めることになったのである。
「平民宰相」
国民は、原をそう呼んで、親しみを表した。
国民の期待に応えるべく、原内閣は矢継ぎ早に政策を実行する。
まず取り組んだのは、米騒動の収拾だった。
就任から一か月後、原は、既得権を持つ地主たちの反対を押し切り、米の輸入自由化を実施。規制を撤廃して安い外国米を流通させ、市場原理に任せる政策をとったのである。
やがて米の価格は下落をはじめ、米騒動は収束した。
原の政策はつづいた。
12月、原内閣は、シベリアから軍隊を撤退させることを決定。財政再建のため、大幅な軍縮に乗り出す。
――日本が発展するためには、軍事カではなく、経済力を充実させなければならない。
原はそう考えていたのだった。
原は、演説のなかでこう訴えた。
「経済上の競争、即ち経済戦においても、敢えて負けないような計画を、今日より致しておかなければならぬ。
軍備は、直接国民の負担を重からしむるものなることは、論を待たざるところなれば、出来る限りは、その負担を軽減せんと努むべきは、当然のことである」
(「原敬の演説」より)
軍縮につづいて、原は教育改革にも着手。
「有為の人をつくるには、教育」
大学令を公布し、早稲田や慶應など私立の教育機関にも大学の地位を与える。官僚や学者ばかりでなく、実学を修める人材を育てることも、これからの日本には必要だと考えたからである。
さらに原は、大規模な鉄道敷設計画を発表。
「交通機関を十分に発達させるべし」
日本のどの地域にも交通と商業の発展を促すことを目的としたこの政策によって、不景気に喘いでいた地方経済は活気を取り戻した。
首相就任2年後の総選挙で、原が総裁を務める政友会は、278人の当選者を出し、単独過半数を達成。
平民宰相ふ原敬の人気に支えられた地滑り的大勝利だった。
3 次の時代に備えた教育改革
――首相となった原は、矢継ぎ早に改革を実行しますが、その主眼は、日本を軍事国家ではなく、産業国家にして経済発展をはかることにあったようですね。
川田 当時は世界的にも、軍事力によって植民地を拡大していくという外交が曲がり角にきていました。第一次世界大戦が終わり、本格的な国際経済競争の時代になり、また国際協調の流れが有力になっていたのです。原は、そういう世界の動きに敏感に対応して、これからの日本が進むべき道を軍事力の強化という方向ではなくて、国際協調を重視して経済発展に力を傾けるべきだと考えたのですね。
――米の輸入自由化をはかるなど経済を安定させて、今度は軍縮を提案するわけですが、さらに教育改革という大変大きな改革に着手します。
川田 教育改革についてはあまり注目されていませんが、かなり重要な問題なのです。
当時は大学といえば帝大であり、私立は一段低いものと思われていました。原はそうした官僚的な体質を改めて、私学の地位を引き上げ、高等教育の充実をはかろうとしたわけです。来るべき経済の時代に備え、実業人を育てようとしたところに特徴があったのです。
――原敬といいますと、いろいろな調整をしたり、会談をしたりということが得意な政治家というイメージがあるのですが。
川田 原はよく「力の政治家」と呼ばれて、駆け引きのうまさや組織のまとめ役としての側面ばかりが強調されてきましたが、実際は来るべき時代の構想を持ち、国際協調と産業立国というはっきりとした理念を持っていたようです。
それまでの日本は、一部の特権的な人々が政治を動かしているうえ、かなり軍事力を重視していました。しかし原は、議会政治というものを重視し、この議会政治のもとで、経済力でも十分欧米の国々と対等な立場になれる国をめざすことを理想にしていたようですね。
Ⅲ 暗殺者の影 top
1 脅迫状
首相就任に際して、原家の人々を写した記念写真がある。この時、原敬62歳。妻・浅47歳。息子・貢16歳。これが遺族の手に残された、唯一の家族の肖像である。
原の自宅には、首相に就任して記念写真を撮った直後から、不気味な脅迫状が届くようになっていた。
今回の取材で、暗殺当時の状況を明らかにする資料が、京都・嵐山の原家で新たに発見された。
『原家日誌』。原家に勤めた執事の記録である。このなかから、原に宛てられた脅迫状の写しが二通見つかった。
「君の天下は明智光秀、三日天下の第一日目」
原を明智光秀になぞらえて、その最後が近いことをにおわせる文面である。暗殺の標的を意味する丸印が大きく描かれた脅迫状もあった。
原の改革に対する最大の障害、それは軍部であった。
当時、日本の陸海軍は、天皇に直属するものとされ、内閣から独立した存在だった。
原内閣は、軍部の最高責任者に軍人ではなく政治家を据(す)え、軍隊を内閣の影響下に置くことをめざし、あくまで軍部を内閣から独立した存在にしておこうとする参謀本部と激しく対立した。
そのころの原の日記にはこう記されている。
「参謀本部は所謂軍国主義を脱せず。衝突すれば、之を改革するに躊躇すところあるべきや」
軍部を敵に回しても、あくまで改革を断行しようとする原。
しかし、その改革の足元を揺るがすスキャンダルが、突然巻き起こった。
大正10年(1921)1月に発覚した満鉄疑獄事件である。
政府傘下にある企業が、政友会の代議士の関連会社から、鉱山や船舶を時価よりかなり高い金額で買い取っていたことが明らかになった。
莫大な利益が、原が総裁を務める政友会の政治資金として使われたと報じられた。
そのわずか2週間後、追い討ちをかけるようにもう一つ別のスキャンダル、阿片(アヘン)事件が発覚。
押収した阿片を横流しして利益を得ていたとして、政友会の関係者が3人逮捕され、世論の批判に曝されたのである。
自分の母体である政党にまつわるスキャンダルの連続に、原は頭を抱えた。
政友会の腐敗は、原総裁の責任であるとして、反対派は一気に攻勢に出る。
大正10年2月19日には、原内閣に対する不信任案が提出された。
2 政治腐敗の構造的要因
――国民の圧倒的人気を得て船出した原内閣ですが、次々とスキャンダルにまみれます。
この問題にある構造的要因を解説していただけますか。
川田 大きく二つの原因があると思います。
一つは政治資金の問題。おもに選挙費用ですね。当時、選挙権が拡大しまして、選挙民の数がかなり増えたため、立会演説会の開催やパンフレットの発行など選挙費用が膨大に膨れ上がってきました。したがって政治家は、その費用を工面することにかなり苦労するようになっていたのですね。
もう一つは、政治と利権の問題です。これは原自身が言っているのですが、政党が政権につくようになると、どうしても利権と接触する機会が多くなってくるのですね。そこから政治腐敗が起こってくるということなのです。これは世界共通の問題だといえると思いますが。
世界共通だし、時代を問いませんね。
川田 そうですね。ただ、原は公私の区別にも金銭にもかなり潔癖だったようです。たとえば、ある夜、実業家から立派な植木鉢が贈られてきたんですね。帰ってきた原が、実業家から贈られてきたと聞いて、その日のうちに戻させたとか、隣家に実業家が引っ越してきた時も、癒着を疑われてはいけないからと、息子にまで、隣家の子どもと付き合わせなかったくらいです。
そういうふうに、自分自身や家族にも常々注意していたようですが、彼が率いた政友会から次々と汚職事件が起こるというのは、やはり任命責任や監督責任を問われるところでしょう。
Ⅳ 原敬暗殺 top
1 しのびよる影
不信任案が提出された二日後、二人の男が原の自宅を訪ねてきた。
座敷に上がった男たちは、口々に原内閣の政策を非難した。
二人は常々、シベリアからの撤退を決めた原の外交方針を弱腰であると痛烈に批判していたのである。
――このままでは家族にも危害がおよぶかもしれない。
そう案じる原に、妻の浅は毅然として言い放ったという。
「家のなかのことは一切私がお預かりしています。
なにも心配はございません。あなたは政治のことだけ、お考えください」
大正10年2月19日。原内閣への不信任案は否決され、原は当面の危機を脱した。
しかし原は、スキャンダルによって地に落ちた国民の政治への信頼を取り戻さなければならないと考えていた。
8月、原は延べ4ヵ月におよぶ全国遊説の旅に出発する。国民に直接語りかけ、信頼を取り戻そうとしたのである。
2 列車内の危機
10月9日。政友会甲府大会での遊説を終えた原は、わずかな側近とともに列車で東京へ向かっていた。
しかしその車中には、車掌に扮した暗殺者が潜んでいたのである。
犯人は、あらかじめ新聞で遊説の日程を知り、原がこの列車に乗っていることを知っていた。
車掌の姿を隠れ蓑にした暗殺者は、原の姿を求めて車内を徘徊する。
その懐には、短剣が忍ばせてあった。原を見つければ、有無を言わさず刺し殺すつもりだったのである。
ところがこの日、東京行きの列車には客車が増結され、車両の配置がいつもとは異なっていた。
事前の準備も空しく、男は原を見つけることができず、この日の暗殺を断念した。
男の名は中岡艮一(こんいち)。当時18歳。彼はシベリアからの撤退を決めた原の外交方針を弱腰と断ずる世論に同調し、相次ぐ汚職の発覚に怒りを燃やしていた。
――原を殺せば民衆は救われる。
そう信じる中岡は、原の暗殺をあきらめてはいなかったのである。
そんなある日、中岡は、原がふたたび遊説の旅に出かけることを知った。
――今度こそ原を暗殺する。狙う場所は確実に原を捕捉できる駅がいい。
中岡はそう考えた。
3 運命の日
大正10年11月4日。
この日、原は官邸で中国人記者と会談。弱腰外交と呼ばれた対外協調路線についての質問を受け、原は次のように応えた。
「20世紀の今日、領土的征服などはまことに時代遅れのお粗末な政策です。
我々が求めるべきものは通商です。通商こそ、なににもまして重要なものです。
自分がいまこの瞬間に職を去ろうとも、この政策は変わらないでしょう」
これが内閣総理大臣としての原にとって、最後の公式発言となったのである。
夕方、原は旅行の支度を整えるため、官邸から自宅へ戻った。
いざ出発という時、妻の浅は原に厚手の外套を着せ掛けようとする。
ところが原は、それを断った。人に会うたび、脱いだり着たりするのが面倒だというのである。
結局、原は背広だけで出発。
この時、外套を着なかったことが、のちになって原に悲劇をもたらすこととなった。
午後6時、東京駅。改札口に中岡艮一が姿を現した。
今度は書生姿で雑踏のなかに身を隠して原の到着を待つ。
午後7時20分、原は東京駅に到着。側近とともに駅長室へ入った。
その5分後、午後7時25分。駅長室のドアが開き、駅長に先導された原が中岡の前に姿を現した。
この時、護衛の注意は駅構内の雑踏に向けられていて、暗殺者の存在に気づいてはいなかった。
一瞬の出来事だった。
物陰から走り出た暗殺者の短刀は、原の胸を直撃。短刀は薄手のシャツを貰き、肺から心臓にまで達した。
――あの時、厚手の外套を着て出かけていれば、致命傷にはならなかったかもしれない。
関係者は、のちのちまでもそれを悔やんだという。
大正10年11月4日午後7時35分。第19代内閣総理大臣・原敬、絶命。享年66。
4 気丈(きじょう)に振る舞った妻・浅
急を聞いて現場に駆けつけてきた原の妻・浅を迎えたのは、報道陣のフラッシュだった。
大勢の群衆に取り囲まれたなかで、浅は気丈に振る舞った。
浅は涙一つ見せず、夫の乱れた衣服を整えたという。
原の側近たちが、遺体を官邸に運ぼうとした時、浅は静かに目を開いた。
「生きていてこその総理大臣。亡くなれば、もはや官邸には用のない人ですから、宅(私邸) へ送り届けたいと思います」
その夜、自宅に戻り原の亡骸とふたりきりになった浅は、はじめて遺体に取りすがり、泣き伏した。
61歳を過ぎてなお政治の場に身を置けば、命はないものと思ってくれと言ったその言葉どおり、原は非業の死を遂げてのち、やっと友・浅のもとに戻ったのである。
――平民宰相、暗殺さる。
その知らせは国民に大きな衝撃を与えた。
原という強力な指導者を失った政友会はやがて分裂。以後、他の政党との離合集散を繰り返し、力を失っていった。
原の死から10年後の昭和6年(1931)、満州事変が勃発。
さらにその2年後、日本は国際連盟脱退を通告。
日本は原がめざした国際協調路線と逆の方向へ突き進んでいくことになる。
軍事大国よりも経済発展による産業立国をめざした原の構想は、その暗殺とともに夢と消えたのである。
5 我々の時代の課題
――この大正10年11月4日、今回の「その時」である原敬暗殺の瞬間をどうご覧になりますか。
川田 原は、一部の特権的な人々による政治から、議会を基盤とした政治への変革をめざそうとしたわけですね。
それから軍事力に頼らず、国際協調路線のもとで新しい経済立国・産業立国の進を追求しようということで、軍縮を推進しました。しかし、そうした原の改革は、既得権を侵された反対勢力の人たちにとっては、非常な脅威に映ったため、強く反発したわけです。
結局原は殺されてしまうのですが、原の暗殺は、大正デモクラシーという時代の日本がめざした民主政治、それから国際的な平和協調や経済を充実する産業立国などの夢すべてに大きな打撃を与えた出来事であったと言えますね。
――どのように歴史を動かしたかということについてはいかがでしょう。
川田 原は政党政治を追求して、軍部を政治家や国民のコントロールの下に置こうと努力しました。
国際的な平和協調のもとに日本を進んでいかせようとしましたし、またそれを成し遂げるだけの強力なりーダーシップも持っていました。
もし、原が暗殺されなければ、その後の日本の歩みも変わっていた可能性はかなり大きいと思います。
その後敗戦を経て、原の考えた政党内閣や、平和を基礎にした産業立国というものが戦後日本で実現されるわけです。
そういう意味では、私たちは、原の追求した路線の上を歩んでいるといえるかもしれません。
ですが、いくつか重要な問題は残りました。
たとえば、原の時代にも噴出した汚職や政治腐敗という、一面で政党政治の問題、いわば民主政治の弱点ともいえるこれらの問題が、いまだ克服されていないのですね。
それから国際社会の安定化の問題。これらは我々の時代の我々自身の課題、つまり我々の手に解決策が委ねられているといえるのではないでしょうか。
6 原の政治理念
暗殺から一週間後の11月11日、原敬の葬儀は、遺言に従って故郷・盛岡で行われた。
かつては賊軍の汚名を着せられた南部の地。そこから出発して一国の首相となり、国政の舵を担った原敬。
いまは物言わぬ身となって故郷に戻ったその亡骸を、盛岡の人々は雨のなかで出迎えた。
暗殺ののちに原の遺書が公開された。その冒頭には、次のような言葉が記されている。
「死去の際、位階勲等(いかいくんとう)の陛叙(しょうじょ)は余の絶対好まざるところなれば、死去せば即刻発表すべし」
(爵位や勲章は自分の好むものではないから、たとえ死んでも叙勲(じょくん)など行わないで、すぐ荼毘(だび)に付してほしい)
――最後まで、平民・原敬として人生を全うする。
それが原の望みだった。
原の愛した言葉がある。
「宝積(ほうじゃく)」
人に尽くして報酬を求めないという意味である。
原が残した遺産は、借地に建てられた小さな家とわずかな貯金だけであった。
原の故郷、岩手県盛岡市。その市内に、原家の菩提寺・大慈寺がある。
原の墓に記されたのは、ただ「原敬」の二文字のみ。
あくまで平民宰相として飾らぬ立場を貫いた原は、首相就任の時、次のような言葉を残している。
「いずれの国においても、国民多数の世論によって政治の動いているということは明らかなり。
国民一致の力でなければ、到底国家の進運ははかることはできぬ。
政党内閣、祝すべしといえども、国民の意思を基礎として、国政を料理するにあらざれば不可なり」
政治にあって、なによりも大切なのは、国民の意思を尊重することである。
大正デモクラシーの旗手として改革に身を捧げた原敬。
その原が肝に銘じていた政治理念である。