みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

ネコは来るのかナ?

2004-06-10 00:18:13 | Weblog
 たまには、とりとめもないツレヅレ。
 7月に上演される芝居の音楽を作っている。勤王の志士(?)と新選組の浪士たちの話し。中岡慎太郎と坂本竜馬のニセモノとその回りの人たちのドタバタと人情話しとでも言えばいいのだろうか。笑いやタチマワリやシリアスな芝居ありのなかなか面白い芝居だ。時代劇っぽい音楽を作るなという演出家の意向なので、大河ドラマっぽい音楽(笑)にしてみようかとも思っている。といっても、もうほとんど書いてしまったのだが....。
 新しい子猫がウチに来る来ないで、ここ数日すったもんだしている。ホントにかわいい子猫をもらってくれないかという友人から写真をもらって、かなり気持ちが動いているのだが、一つだけ気持ちを躊躇させているのがオスだということ。以前飼っていたネコはメス。別に、だからメスじゃなきゃダメということはないのだが、今の自分の生活でオスを飼っていく自信はない。というのも、オスはイエネコとして飼うわけにはいかないからだ。オスネコは外に出るもの。それを家に閉じ込めていてはストレスがたまるだろうし、お互いによくない。オヤネコの飼い主は、「オスでも、大人しくてほとんどオカマのようなネコですよ」と言うが、オカマでもオスはオスだろうという気がする。まあ、しばらく悩む日が続く....。
 映画『キルビル』のDVDを借りて観る。いまいち劇場に行く気になれなかった映画だが、案の定、劇場に行くまでもない映画だなと思った。多分、タランティーノのこれまでの傑作映画たちと比べると、アニメ・オタクの彼の本性がむき出しになり過ぎていて、これだったら「役者なんかいらないじゃん」と思ってしまう。つまり、あまり演技の必要性のない映画だし、ストーリーも意外性がほとんどない。まあ、要するに、全体にホントにマンガ。これまでのタランティーノのヴァイオレンスにはカッコよさがあったのだが、この『キルビル』のヴァイオレンスにはあまりカッコよさは感じない。これなら、日本のヤクザ映画のヴァイオレンスの方がはるかにカッコいい。
 今回の小学生の女の子の事件でいちばん思ったことは、やはり「コミュニケーション」の問題。煎じ詰めれば、自分と他人しかいない世の中で、私たちがいつもしなければならないことは、他者とのコミュニケーション。これがイヤでひきこもったりオタクになる人はたくさんいる。でも、そうした人間でも、メールやチャットであれば、他人とコミュニケーションしている気になれる。でも、これって絶対に誤解だ。コミュニケーションっていうのは「ことば」だけでするものではないし、ましてや、「ことば」だけでコミュニケーションしていかなければならないメールやチャットでは、本当にことばを慎重に選んで行かなければならないはずなのに実際にやってることはそれとはまったく逆。次から次に意味のないことばを並べて対話をしている気になっている人たちがほとんど。これを錯覚だと思わずにやっているから、今回の事件だけでなく、世の中では至るところに悲劇が起きてしまう。どんな悲劇かと言えば、せっかく人間に与えられた「ことば」や「動作」や「音楽」や「アート」といった自分と他者がコミュニケートするためのさまざまな道具の意味を理解せずに、自分と他者を自分勝手に切り離してしまう悲劇とでも言えばいいだろうか。
 よく言われること。「相手の立場になろう」。コミュニケーションの基本って、これしかないはず。相手にどういうことばを使えば相手の心を理解し、自分の心を理解してもらえるか。みんな毎日これに苦労しながら生きているのに、何で、携帯メールのようなモノを重大に考え、それに頼る人が多いのだろう?会って、抱き合えばことばなんかいらないのに....。