みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

音楽のルーツ

2004-06-19 01:44:59 | Weblog
 音楽のルーツって何だろう?といつも考える。
人類の祖先がたった一人の「イヴ」から生まれたという本がちょっと前に話題になったことがあった。人類の祖先がアフリカ大陸にいたということは、学問の世界では今や常識的になっているようだが(私にはそれを確かめる方法もないので)、それでは、そのアフリカにいた人間がどんな音楽を作っていたのだろうかと同時に考える。
 現在のアフリカの音楽やそこから派生した音楽から考えても、打楽器の音楽がルーツなんじゃないかというのはおおかたの人たちの考えるところ。多分、人類最古の楽器も骨や木、石などでできた打楽器というのがもっとも考えやすい結論なので、私もそれにあえて異論は差し挟まないが、それでも、音楽のルーツはやっぱり声なんじゃないのかナ?と思わずにはいられない。
 人間が楽器を発明する前から人間は声を出すことはできたはずなので、人間には大昔から必ず「うた」というものが存在していたような気がする。しかも、その「うた」も、宗教や儀式、労働のための「うた」なんかではなく、親が子供に唄った「子守唄」が最初なのではと思う。人が存在すれば、親がいて子供が生まれるのは当然のこと。だとすれば、子供が泣く時に親が子供をあやし寝かせつけるために歌う「うた」は、それが「うた」として完成されていなくても、どんなに単純なものであっても「子守唄」であることには代わりはない。だとすれば、音楽のルーツは子守唄?
 そう言うと、ある人が反論した。「いや、子守唄ではなく、求愛のうただろう。鳥でも、動物でも求愛のために鳴くのだから」。
 うん、それも確かに一利あるとは思う。そうなってくると、にわとりが先が卵が先かみたいな議論になって、恋愛が先か、子供が先かで議論をしなければならなくなってくるのだが、それでも私は子守唄が先だという考えに固執したい。というのも、確かに鳥の泣き声が求愛を現していたり、動物が繁殖期に異性を求めて鳴いたりするのは事実だろうが、果たしてそれが人間にも当てはまるのだろうかとも思ってしまう。
 「人間はまず愛していると叫んだ」というタイトルの生命科学の本を読んだことがある。この本の主旨は、人間がことばを発明したのは相手のことを考え支配するためであって、相手を最初に支配するためのことばとして「愛している」という表現が必要だったと言っているのだが、同時にこんな面白い説も登場する。「人間がことばを発明したと同時に正常位も生まれた」。つまり、こういうことだろう。人間がことばを発明したことによって、脳が発達を始める。それまでは、単純に動物的なセックスしかしていなかった人間がことばの発明のおかげで脳を進化させ、社会を作り、セックスに理性を持ち込む。ただ、私は、学者がどう結論づけようが、愛はなくても子供は生まれるし、ことばがなくても感情が存在するのではと思っている。ことばは体系であり論理だから、正常位が論理から生まれたというのも何となく納得はできるのだが、それと「愛している」とはあまり関係ないのではと思ってしまう。
 裸の人間がいろんなモノを身体にまとい始めたのも、別に「恥ずかしい」からではなく、ただ単にまとわないと「寒い」からだったのだろうし、異性と営むのも異性に愛情を感じたからではなく、ただ単に本能的に子供を作る必要を感じたからそうしただけだったのではないのか?
 人間は、進化の過程で脳を発達させ理性を生み出し、秩序を生み、そして、タブーを作っていった。そして、その大前提にあったものが、母と子の関係だったのでは?
 あえて、親と子とか父と子とは言わないのは、今も昔も、そういう関係はあまり存在しないと思うから。父という存在は、きっと社会的にしか意味のない存在で、子孫を残すための種としての意味しか父や男性は持っていないのだから、種さえもらえば、後は母だけ、女性だけで子供は産れる。だからこそ、そこに「子守唄」の意味と価値が生まれて来る。
 人間は子守唄と共に生まれ、そして、子守唄を求めて死んでいく。そんな気がしてならない。