みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

長い間不思議に

2006-09-06 00:08:12 | Weblog
思っていたことの一つにおやじギャグというのがある。私は基本的にああいうダジャレが苦手なので(というか、ああいうギャグを言う人をあまりカッコイイとは思わないので)自分から口にすることはほとんどないが、私の周りには、驚くほどおやじギャグを連発する人が多い。よく飽きずにあそこまで次から次ぎに「ギャグ」が出てくるものだと感心するほど彼らはそれを連発する。
おやじギャグはダジャレの一種。だから、相手のことば尻をとらえて、それに似た「音」や「ことば」をたちどころにオウム返しのように文章やことばにするので、ある意味、「頭いいナ」と思わせることもあるのだが、基本的におやじギャグというのは、「おやじ」とついているだけあって、ある程度年令のいった人に多いことば遊び。年令を重ねているからこれだけ豊富な語彙と経験で次ぎから次にことばが出てくるのだろうと感心ばかりしてはいられない。これも一種の老化現象だ。
人間の脳は、新しいことばを覚えたり、新しい物事を経験するたびに、脳に新しい回路をシナプスを通じて作っていくもの。おやじギャグは、脳に何の刺激も与えない。単純に、これまで覚えたことばを、今聞いたことばにつなげているだけ。これこそが、経験や年令を重ねれば単純な反復作業として(パブロフ反応のようなものだ)誰にでもできる作業なわけで、こればかりやっていると本当の意味でボケてくるかもしれない。
よく料理をしたり、楽器をやったり、大工仕事をしたり、絵を描いたりする作業をしていればボケにくいと言われているが、単なる反復作業だけではあまり新しい刺激は脳にもたらさない。常に新しいことを覚えようとする「意志」が絶対的に必要だろうと思う。クリエイティブな仕事は、常に、新しさを必要とする。今までの反復やこれまでの繰り返しだけでは、クリエイティブなものはけっして生まないからだ。新しい色を使う。新しい形を作る。新しい音を聞く。これまでやらなかった音楽に挑戦する。これまで作らなかった料理を作る。そういう作業をしなければ、けっして脳は新しいシナプスを作ってはくれないのだろうと思う。
私は、毎回毎回、ライブやコンサートをやるたびに新しいレパートリーを必ず入れるようにしている。前のレパートリーとまったく同じにはしない。自分自身が飽きることもあるし、前回聞いた人に「また同じかよ」と思わせたくないという意味もある。それよりも、自分自身に何か新しいことを覚えさせる作業を課しているといった方が正しいかもしれない。人生、夢やチャレンジがなかったら何が面白いんだろう?と思う。
でも、人は年を重ねれば重ねるほど、その夢とチャレンジを失っていくものだ。何やら政治家が「再チャレンジ」なんていうことばを使っているが、50過ぎても60過ぎても「再チャレンジ」したくなるようなモノがなければ、そんなかけ声は絵に描いたモチに過ぎないし、「何をたわごとを」で終わってしまう。
80過ぎの方でも90過ぎの方でも元気な人はたくさんいる反面、10代20代で既に「終わっている」人たちも最近はけっこういる。なんで、もっと夢をもったりチャレンジしたりしないのかナ?と不思議に思うのだが、多分、世の中が便利になり過ぎたのだろうナと思う。人というのは、モノがない環境ほど頭を使う。使わざるをえないのだ。例えば、無人島に一人で取り残された時、生死を分けるのは頭の使い方だ。どうやって食料を調達し、どうやって寒さをしのぐのか?要するに、人間というのは、どうやって生き延びていくかを、脳に蓄積された過去の記憶と目の前にある環境との連関で新しい方法を開発していくようにできているのだと思う。そうでなければ、人類があの厳しい氷河期を生き延びてこれたわけがない。
そんなことをアレコレ考えながら、おやじギャグを聞くと、そんなこと言う前に、もっとちゃんとやるべきことがあるだろうに?と思わずツッコミを入れたくなる。そんな大人を見てるから、若い人たちが、「こんな大人にはなりたくないな」と思ってしまうのではないだろうか?