今朝TVで見る。
その中で印象に残った部分がいくつかあった。その一つが「近代」ということば。
これは、別にことば遊びでも何でもなく、日本でも世界でも「中世、ルネサンス、貴族階級社会、革命、そして、近代、現代」という風に歴史は必然的に流れていくものなのだけれども(ヨーロッパはきちんとそのプロセスをとった)、日本では、それが明治維新という、革命だったのか革命じゃなかったのかわけのわからない「疑似革命」のママ国家が「近代」に向かってしまったことが今日までの日本のすべてのジャンル(政治、宗教、文化、すべてにおいて)においてものすごい歪みを作っているのではないかと私なんかは思ってきたけれども、加藤さんもまさしくそう思っていたのだと思う。
その意味では、小林秀雄という評論家はあの時代に「モオツアルト」とかいって、モーツァルトの価値を認めていたのはそれこそ達見だけれども、それでも日本の音楽の世界にどんな「近代」が必要だったのかまでは論及していない(そこらへんも加藤さんには不満なのだろうし、私も不満だ)。
ヨーロッパでは十九世紀がまさしく「近代」のはずなのだが、そこにあった音楽批評や音楽評論はドイツ音楽以外認めません、的な思想(この時代の音楽の世界で音楽批評がどれだけの価値を持っていたかは現代では想像もできないほど)。
評論家が「あいつはモーツァルトの音楽なんかやってなんて軟弱な」と言えば、それはモーツァルトの音楽のように子供でも弾けるぐらいの技量しかない音楽でお金を取るなんてもっての他、という考え方だ。
このドイツ音楽一辺倒の思想は日本の戦前はもちろんだけれども(戦前の日本ではフランスに留学したって何の価値も評価もされなかった)、戦後しばらくは一流のピアニストは自分のリサイタルのプログラムにモーツァルトのソナタなんていうのは絶対に演奏できなかったし、オーケストラの演奏会にしたって「オペラの前座音楽だったモーツァルトの交響曲」なんて何の価値もない音楽だった時代が長く続く(サティというフランスの作曲家の名前がちゃんと音楽史の中に登場するのはここ十数年のこと。それまで音楽史の教科書にはサティのサの字もなかったのだ)
もちろん、今そんなことを言っても「ウソ!」と信じない人も多いかもしれないが、日本の音楽の「近代」の中身というのは所詮そんなもので、今もその状況から完全に脱しているとは言いがたい。おそらく、この辺にこそ私がもっとも気にかけている「日本で音楽でメシを食う」ことの困難さの原因が横たわっているような気がしてならない。
今、TVをひねれば「こんな不況は未だかつてなく」「明日にも路頭に迷う人たちがたくさんいる」といったフレーズのオンパレードだけれども、その解決策として政治主導で景気を回復しなければ、とか各国の政治経済のリーダーがきちんとリーダーシップを発揮して、云々というけれど、それができないからみんな右往左往しているわけなのではないのか。
で、思うに確かに私もこういう時こそ世の中には「リーダー」や「カリスマ」が必要なのだろうと思う。でも、このリーダーとかカリスマって、政治家なの?財界人なの?宗教家なの?っていう気もする。
そういう分野の人たちが何もできなかったからこそこうなってしまったのじゃないの?と私は思う。
だからこそ、私は、今も昔も、世の中にとって本当に必要なのは「評論家」なんじゃないのかナ?と思わずにいられない。
評論家というと、ただ無責任に言いたいことだけをメディアでしゃべっているような人たちのことを想像するかもしれないけれど、私はああいう人たちを「評論家」とは呼ばない。
少なくとも、評論家と呼ぶに値する人はどんなジャンルであっても「きちんと科学的な分析ができていて、それを平易なことばで万人に納得させられる人」であると同時に「その問題に対する解決策も同時に発表できてそれに命をかけられる人」でなければならないと思っている。
そうなると、そんな人が世界中にいるのだろうか?とも思ってしまう。
少なくとも「中世」から一気に西部開拓の時代に入ってしまったたアメリカという国は未だに「中世」のままなので「現代はおろか「近代」だって経験していない(だからこそ、リンチや銃の乱射がいまだにまかり通っている)、そんなアメリカにこの世界の「現代評論」を期待しても所詮無理というもの。
ウム、ひょっとしたら世界のどこかにいるのかもしれないが、そういう正しい考えを出す人をメディアは意図的に抹殺するのかもしれないなとも思う(一人の正しい評論家が出現すれば9999人の正しくない評論家たちはただちに仕事を失うわけだから)。
評論のことをしゃべり始めるとキリがないので、今日のところはこれぐらいにしておく(世の中のほとんどの音楽家の人たちは、自分は演奏家で評論家ではないので音楽評論とはまったく無縁だと思っているかもしれない。しかし、その認識こそが「音楽」というものが未だに「ただの芸事」で「世の中には何ももたらさない」と多くの人に思われ続けている根本原因だということにそろそろ本気で気づいて欲しいのだが)。
その中で印象に残った部分がいくつかあった。その一つが「近代」ということば。
これは、別にことば遊びでも何でもなく、日本でも世界でも「中世、ルネサンス、貴族階級社会、革命、そして、近代、現代」という風に歴史は必然的に流れていくものなのだけれども(ヨーロッパはきちんとそのプロセスをとった)、日本では、それが明治維新という、革命だったのか革命じゃなかったのかわけのわからない「疑似革命」のママ国家が「近代」に向かってしまったことが今日までの日本のすべてのジャンル(政治、宗教、文化、すべてにおいて)においてものすごい歪みを作っているのではないかと私なんかは思ってきたけれども、加藤さんもまさしくそう思っていたのだと思う。
その意味では、小林秀雄という評論家はあの時代に「モオツアルト」とかいって、モーツァルトの価値を認めていたのはそれこそ達見だけれども、それでも日本の音楽の世界にどんな「近代」が必要だったのかまでは論及していない(そこらへんも加藤さんには不満なのだろうし、私も不満だ)。
ヨーロッパでは十九世紀がまさしく「近代」のはずなのだが、そこにあった音楽批評や音楽評論はドイツ音楽以外認めません、的な思想(この時代の音楽の世界で音楽批評がどれだけの価値を持っていたかは現代では想像もできないほど)。
評論家が「あいつはモーツァルトの音楽なんかやってなんて軟弱な」と言えば、それはモーツァルトの音楽のように子供でも弾けるぐらいの技量しかない音楽でお金を取るなんてもっての他、という考え方だ。
このドイツ音楽一辺倒の思想は日本の戦前はもちろんだけれども(戦前の日本ではフランスに留学したって何の価値も評価もされなかった)、戦後しばらくは一流のピアニストは自分のリサイタルのプログラムにモーツァルトのソナタなんていうのは絶対に演奏できなかったし、オーケストラの演奏会にしたって「オペラの前座音楽だったモーツァルトの交響曲」なんて何の価値もない音楽だった時代が長く続く(サティというフランスの作曲家の名前がちゃんと音楽史の中に登場するのはここ十数年のこと。それまで音楽史の教科書にはサティのサの字もなかったのだ)
もちろん、今そんなことを言っても「ウソ!」と信じない人も多いかもしれないが、日本の音楽の「近代」の中身というのは所詮そんなもので、今もその状況から完全に脱しているとは言いがたい。おそらく、この辺にこそ私がもっとも気にかけている「日本で音楽でメシを食う」ことの困難さの原因が横たわっているような気がしてならない。
今、TVをひねれば「こんな不況は未だかつてなく」「明日にも路頭に迷う人たちがたくさんいる」といったフレーズのオンパレードだけれども、その解決策として政治主導で景気を回復しなければ、とか各国の政治経済のリーダーがきちんとリーダーシップを発揮して、云々というけれど、それができないからみんな右往左往しているわけなのではないのか。
で、思うに確かに私もこういう時こそ世の中には「リーダー」や「カリスマ」が必要なのだろうと思う。でも、このリーダーとかカリスマって、政治家なの?財界人なの?宗教家なの?っていう気もする。
そういう分野の人たちが何もできなかったからこそこうなってしまったのじゃないの?と私は思う。
だからこそ、私は、今も昔も、世の中にとって本当に必要なのは「評論家」なんじゃないのかナ?と思わずにいられない。
評論家というと、ただ無責任に言いたいことだけをメディアでしゃべっているような人たちのことを想像するかもしれないけれど、私はああいう人たちを「評論家」とは呼ばない。
少なくとも、評論家と呼ぶに値する人はどんなジャンルであっても「きちんと科学的な分析ができていて、それを平易なことばで万人に納得させられる人」であると同時に「その問題に対する解決策も同時に発表できてそれに命をかけられる人」でなければならないと思っている。
そうなると、そんな人が世界中にいるのだろうか?とも思ってしまう。
少なくとも「中世」から一気に西部開拓の時代に入ってしまったたアメリカという国は未だに「中世」のままなので「現代はおろか「近代」だって経験していない(だからこそ、リンチや銃の乱射がいまだにまかり通っている)、そんなアメリカにこの世界の「現代評論」を期待しても所詮無理というもの。
ウム、ひょっとしたら世界のどこかにいるのかもしれないが、そういう正しい考えを出す人をメディアは意図的に抹殺するのかもしれないなとも思う(一人の正しい評論家が出現すれば9999人の正しくない評論家たちはただちに仕事を失うわけだから)。
評論のことをしゃべり始めるとキリがないので、今日のところはこれぐらいにしておく(世の中のほとんどの音楽家の人たちは、自分は演奏家で評論家ではないので音楽評論とはまったく無縁だと思っているかもしれない。しかし、その認識こそが「音楽」というものが未だに「ただの芸事」で「世の中には何ももたらさない」と多くの人に思われ続けている根本原因だということにそろそろ本気で気づいて欲しいのだが)。