みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

また一週間の東京を終え明日から伊豆

2009-06-07 23:05:16 | Weblog
この一週間の間に雑誌の仕事やミーティングをいくつもこなし、レッスンやリハーサルなどもやり明日から伊豆に戻る。
戻ったら戻ったでミーティングやレッスンが待っているのだから東京と似たようなもの。行ったり来たりの忙しさはこれからますます増えてくるのかな?と思う。

昨日、弟子の一人の女の子からメールをもらう。仕事でちょっと疲れて実家に帰ってノンビリしています。自分にしかできないことって何だろう?と悩んでますというメールの内容だった。
この彼女の悩みって、ある意味、人間として最もまっとうな悩みだろうと思う。
自分にしかできないこと、自分だけのオンリーワンの人生って何?と彼女は悩んでいるのだろうが、こうした悩みを持たずに、というかこうした悩みすら持てなくする強迫観念が日本の社会にはあるのじゃないのかなと時々思ったりする。

私が昔アメリカに留学しようと思った理由はただ一つだった。アメリカだったら私らしい生き方ができるんじゃないだろうか?
それが最大の理由だった。
誰にもおしつけられない、私にしかできないことを教えてくれるところ、それがアメリカかもしれないと思ったからだ。
アメリカ留学前、ヨーロッパに留学した先輩に話しを聞いたことがある。「バッハの正しい演奏法を教えてもらった」と先輩は言っていた。それを聞いた瞬間「こりゃダメだ。ヨーロッパに行くのはやめよう」と思った。
人生には百人には百通りの答えがあり、音楽にも百人の音楽家には百通りの答えがあるはずなのに「バッハの正しい演奏」って何のこっちゃ?と思った私は即座にアメリカ行きを決意した。
結果は大正解。アメリカには私の行き方を受け入れてくれる懐の深さがあったし、人生のあらゆる可能性も教えてくれた。
よく私のフルートの音は人と違っていると言われる。スタジオで演奏している時もステージでライブ演奏している時もそれは変わらない。他のフルーティストの音とはまったく違って聞こえるという。当たり前の話だ。私は人と違う音を出そうと思って演奏しているのだし、私が演奏するのだから「私の音」にしかなりようがない。
もし私の演奏や音が他の人と同じであるならば私が音楽家である意味なんて何もないじゃない?と私は本気で思う。
もし、私と同じことがAさんでもBさんでもできるのならば、どうぞAさんにお仕事を頼んでください。Bさんに頼んでくださいと言ってしまう。
そんな私は、ある意味、世渡り下手なのかもしれないが、この信念を変えてまで音楽の仕事を続けようとは思わない。私が音楽家であり私が演奏したり曲を作ったり解説したりするのは「私でしかできない仕事」だからこそ。そうでなければ私の存在理由などどこにもない。
でも、私にとってはこんな当たり前で単純なことが、意外と世の中では当たり前ではなかったりする。
人と同じことをやり、人と同じ目標を目指すことの方が理解されやすいし、何よりもこの国では一番評価されやすいのだろうから、ある意味しょうがないことなのかもしれない。でも、だからといって、私は自分の信念を曲げるつもりはないし、私の音楽と私の存在をもっとより多くのに欲してほしいなと思う。
自分を理解して欲しいのではない。理解して欲しいなどという不遜なことは思わない。自分がもっと欲せられればそれでいいのだと思う。
私という人間を私のやることを欲している人が一人もいなければ、それは即私の存在の否定になるのだから。

そんなこんなを書きつらねてその子に返信をした。
彼女からまた返信が返ってきた。
「みつとみさんはやっぱり強いですね。でも、勇気がわきました」。
そう思ってもらえることが何よりだ。