みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

脳のキャパシティ

2012-08-22 19:45:05 | Weblog
というものは、きっと人間によって生まれた時から決まっているのか、あるいは、「人」という種に元々一定の量が割り振られたものなのか私にも良くわからない。
しかし、恵子の最近の症状を見ていると、そのことがものすごく気になってしまう。
今日もそのことをリハビリで通院している病院の神経内科の先生に聞いてみた。
「先生、例えば、普通食事をしている最中に話をしていてもお互いの会話は食べながらすることができますよね。でも、恵子の場合、それができないようなのです。彼女が食べ物に箸をつけてそれを口に運ぼうとしている時私が彼女に話しかけても彼女には私のことばがまったく聞こえていません。いくら私が大声で『ねえ、今日誰々と会ってさ』みたいな話をしても、彼女はまったく私の方を振り向こうともしません。まったく聞こえていないのです。でも、じゃあ、彼女の耳が聞こえないかというとそうではありません。食事以外に普通に話している時はちゃんと会話できますし、ちゃんと聞こえています。要するに、彼女は、自分が食事に没頭している時は、『食べなきゃ、食べなきゃ』という行為に夢中でそれ以外のことがまったく脳の中に入りこんでこないようなのです。彼女にとって、不自由な手で介助箸を使って食事をすること自体が『大変なこと』で、それをしている時には脳には『食事』以外のことが入り込むキャパシティが存在しなくなるのでしょうか?こういうことは、脳卒中の患者さんにはかなり普通にみられるのですか?」
私は、こう尋ねたつもりだった。
しかし、先生の答えはかなり曖昧だった。
「いや、そういう人もいますし、そうじゃない人もいますし、あまり一概にそういうことも言えないかもしれません」。
何とも要領を得ない歯切れの悪い答えしか返ってこなかった。
仕方がないので、こちらで勝手に結論づけて先生に礼を言って病室を出た。
すると、私と恵子が会計を済ませようとソファに座っていると、先ほどまで先生の横にいた看護士さんがつかつかと寄って来て私にこう話しかけてくれた。
「脳疾患の患者さんに運転のシミュレーションテストをやってもらうと(この病院では運転のリハビリ訓練も行っている)、大体70%ぐらいの人がテストで人を何人もひいちゃうんです。でも、自分じゃあ、そんな自覚はない人がほとんどです。そんなことオレした覚えないけどな、と。つまり、酔っぱらって飲酒運転をしているような感じです。みつとみさんのおっしゃるように、一つのことをやっているともう他のことが脳の中に入ってこなくなってしまう人が多いんです。やはり、これは『脳の病気』なんですよ。ですから、手足のリハビリも含めて気長に治していかないとダメだと思いますよ。そして、家族の方がそれをちゃんと受け入れてあげないと..みつとみさんなら大丈夫でしょうけど」。
そう言ってくれた。
やはり、イザとなると頼りになるのはお医者さんよりも看護士さんだ。ちゃんと私の聞きたいことを理解してくれている。
どの病院でも、患者の気持ちを本当に理解してくれるのはお医者さんではなく看護士さん。
私はそう確信している。
お医者さんはしっかりとした専門的な知識も技術もあるのはわかるけれども、何か「ことば」を知らない人が多い。そんな気がしてならない。
ことばというのはコミュニケーションの道具なので、これを知らないというのは人間生活においては決定的に致命傷になるのでは?と思うのだが、やはり「お医者さんの偉さと高度な専門性」がそれを覆い隠してしまうのだろうか。

それにしても、脳卒中というのは厄介な病気だ。
いったん血管が切れてしまうということがこれほどまでに人に打撃を与えてしまうものなのか。
でも、これも認知症と同じで、患っている本人には案外「打撃」ではないのかもしれない。
一年前の発症直後の彼女の目の「視野の異常な狭さ」は、それを目の当たりにした私にとってかなりの衝撃で、「ショック以上」だったことを今でも覚えている。
しかし、その時の彼女にとっては「これしか見えない」ことが現実で、それが「良いも悪い」もなかったのではなかろうか。
今の彼女の「脳のキャパシティの狭さ」も、私には「なんで」といつも私を苛立たせるが、本人にとっては「聞こえてないものは聞こえてない」ことに過ぎないのかもしれない。