というケースは、世間でそれほど珍しくはないのだろうが、かといってそう頻繁に起こるわけでもない。
これまでの日本の大半の家庭では、どちらかというと「介護は妻や娘、嫁の役目」になる傾向が強かった。
それは、育児や家事と同じように介護のような日常的なこまごました仕事は、ある意味、男性が不向きとされていた面もあるからだ。
しかし、突然、妻が認知症になったとしたら、あるいは、私のように夫婦二人の生活で妻が突然病気で倒れてしまったら....夫やその家族に選択肢はあまり残されていない。
夫が妻を介護するしかないのだ。
しかし、この「妻を介護する夫」というケースでしか起こり得ないような出来事に気づく人はそれほど多くない。
主婦が夫の下着を買うことは、それも主婦の仕事の一つと思って頓着する人は少ないだろう。
しかし、夫が妻のために下着売り場で下着を買う時に感じる羞恥心に気づく人が一体どれだけいるだろうか。
オムツを買う方がはるかに簡単だし、羞恥心を感じることもあまりない。
同じように、妻がコンビニや病院のトイレに入る時、ドアの前で待つ夫の姿を当たり前と思える人もけっして多くはないだろう。
トイレの中で万一のことがあってはと、鍵をかけずに中に入ってもらう。
夫はドアの外に立ち鍵の代わりをする。
そんな姿を「不審者」と思われないよう懸命に装う「介護する夫」の姿に気づく人もけっして多くはない。
私のように妻が外見から「身体が悪い」ということがわかる場合はまだマシで、認知症の患者を外見から判断する術はない。
ほとんどの「妻を介護する夫」は、毎日の買い物に追われ、家事の面倒を見る。
「それ」までの人生、仕事一途でやってきた大半の「介護する夫」は、あらゆる事柄を「初心者」からスタートしなければならないだろう。
でも、私は絶対大丈夫。そう思っていた。
学生時代「主夫になりたい」とさえ思ったほどの家事好きの私だ。
家事なんかでつまづくはずはないと思っていた。
料理は、ヘタな栄養士、調理師より私の方がはるかに上手といつも思っていた。
だから、私が料理なんかでつまづくはずはないとも思っていた。
しかし、そんな私の「自信」は、介護の日々の中で音をたてて崩れていった。
「介護」とは、単に食事を作ることでも単に家事をすることでもないことに気づかされたからだ。
介護というのは、「介護される人間」と向き合って生きていくこと。
こんな「当たり前なこと」も介護を実際に体験するまでまったくわからなかったことだった。
もともと夏に弱い痩せ形の恵子にとって、今年の夏はひときわ厳しい。
特に、昨日今日は格別に堪えているようだ。
昨日の夜中「身体がびしょびしょなの。着替えるから身体を拭いて」と二回ほど起こされた。
片手しか使えない彼女だが、私が着替えを手伝ったことはこれまで一度もない。
しかし、汗でびしょびしょになり身体に貼り付いている衣服を脱ぐのは両手の使える健常者でもけっこう手間取る作業だ。
それを彼女は絶対に私の手を借りずに一人でやる。
私が手伝おうとすると「一人でやる」と言って断固として拒否する。
エアコンの風にも扇風機の風にも弱く、自然の風しか受け付けない彼女の身体は、病気の後遺症で代謝の異常に悩まされている。
暑さ寒さの感覚に異常なまでに敏感なのだ。
身体は汗をかいていても、エアコンの風がほんのちょっとあたるだけで「寒い」と言って、くしゃみをしたりセキをする。
暑さにうだっている私はエアコンをつけたいのだが彼女がそんな調子ではつけるわけにもいかない。
それではと、彼女の寝る部屋とは別の部屋に私が移動しようとすると、それも彼女は嫌がり私を引き止める。
別に駄々をこねているわけではない。
それが彼女の「病気」の一部なのだ。
それを受けて入れていくことも「介護」」の一つなのだろうと思う。
早くこの「暑さ」が通り過ぎていってくれることを願うしかない。
これまでの日本の大半の家庭では、どちらかというと「介護は妻や娘、嫁の役目」になる傾向が強かった。
それは、育児や家事と同じように介護のような日常的なこまごました仕事は、ある意味、男性が不向きとされていた面もあるからだ。
しかし、突然、妻が認知症になったとしたら、あるいは、私のように夫婦二人の生活で妻が突然病気で倒れてしまったら....夫やその家族に選択肢はあまり残されていない。
夫が妻を介護するしかないのだ。
しかし、この「妻を介護する夫」というケースでしか起こり得ないような出来事に気づく人はそれほど多くない。
主婦が夫の下着を買うことは、それも主婦の仕事の一つと思って頓着する人は少ないだろう。
しかし、夫が妻のために下着売り場で下着を買う時に感じる羞恥心に気づく人が一体どれだけいるだろうか。
オムツを買う方がはるかに簡単だし、羞恥心を感じることもあまりない。
同じように、妻がコンビニや病院のトイレに入る時、ドアの前で待つ夫の姿を当たり前と思える人もけっして多くはないだろう。
トイレの中で万一のことがあってはと、鍵をかけずに中に入ってもらう。
夫はドアの外に立ち鍵の代わりをする。
そんな姿を「不審者」と思われないよう懸命に装う「介護する夫」の姿に気づく人もけっして多くはない。
私のように妻が外見から「身体が悪い」ということがわかる場合はまだマシで、認知症の患者を外見から判断する術はない。
ほとんどの「妻を介護する夫」は、毎日の買い物に追われ、家事の面倒を見る。
「それ」までの人生、仕事一途でやってきた大半の「介護する夫」は、あらゆる事柄を「初心者」からスタートしなければならないだろう。
でも、私は絶対大丈夫。そう思っていた。
学生時代「主夫になりたい」とさえ思ったほどの家事好きの私だ。
家事なんかでつまづくはずはないと思っていた。
料理は、ヘタな栄養士、調理師より私の方がはるかに上手といつも思っていた。
だから、私が料理なんかでつまづくはずはないとも思っていた。
しかし、そんな私の「自信」は、介護の日々の中で音をたてて崩れていった。
「介護」とは、単に食事を作ることでも単に家事をすることでもないことに気づかされたからだ。
介護というのは、「介護される人間」と向き合って生きていくこと。
こんな「当たり前なこと」も介護を実際に体験するまでまったくわからなかったことだった。
もともと夏に弱い痩せ形の恵子にとって、今年の夏はひときわ厳しい。
特に、昨日今日は格別に堪えているようだ。
昨日の夜中「身体がびしょびしょなの。着替えるから身体を拭いて」と二回ほど起こされた。
片手しか使えない彼女だが、私が着替えを手伝ったことはこれまで一度もない。
しかし、汗でびしょびしょになり身体に貼り付いている衣服を脱ぐのは両手の使える健常者でもけっこう手間取る作業だ。
それを彼女は絶対に私の手を借りずに一人でやる。
私が手伝おうとすると「一人でやる」と言って断固として拒否する。
エアコンの風にも扇風機の風にも弱く、自然の風しか受け付けない彼女の身体は、病気の後遺症で代謝の異常に悩まされている。
暑さ寒さの感覚に異常なまでに敏感なのだ。
身体は汗をかいていても、エアコンの風がほんのちょっとあたるだけで「寒い」と言って、くしゃみをしたりセキをする。
暑さにうだっている私はエアコンをつけたいのだが彼女がそんな調子ではつけるわけにもいかない。
それではと、彼女の寝る部屋とは別の部屋に私が移動しようとすると、それも彼女は嫌がり私を引き止める。
別に駄々をこねているわけではない。
それが彼女の「病気」の一部なのだ。
それを受けて入れていくことも「介護」」の一つなのだろうと思う。
早くこの「暑さ」が通り過ぎていってくれることを願うしかない。