今でも昨日のことのように鮮明だ。
2011年の9月2日。ちょうど台風が日本列島にいくつもやってきていた日だった。
ふだん自宅から見えるはずの房総半島も伊豆大島も伊豆七島もまったく見えない、ただただ雨と風だけの一日。
そんな日は逆に練習に身が入るのでかなり練習に時間を費やした日だった気がする。
夕食を食べソファに横になろうとしていたちょうどその時、突然携帯電話が鳴った。
久しぶりに聞く義弟の声だった。
彼が、電話の向こうでこう告げてきた。
「ケイが倒れて救急車で運ばれたよ」。
え。何。恵子が倒れた?
自分の身内が病気や事故で倒れるなどという事態を予測している人はあまりいない。
私は、その時の彼のことばの意味をしばらく理解できないでいた。
恵子が脳溢血で倒れた。電話口の向こうの声ははっきりとそう告げていた。
しかし、私の頭は「そんな、まさか。あり得ない」という先入観から、まったく違った風に彼のことばを理解しようとしていた。
「え。ケイ? 叔母さんじゃないの?」
恵子の東京の実家で同居している八十四歳の叔母ならいつ倒れてもおかしくない。
私の頭は、勝手にそう解釈しようとしていた。
しかし、この私の小さな望みは彼の次のことばであっさりと否定されてしまった。
「いや、倒れたのはケイの方。たった今救急車で運ばれたところ。けっこう大変そうだよ。また病院に着いたら連絡する」。
そう言うなり彼は電話を切った。
戸外の強風のもたらす激しい音に我に返った私は、一体何をなすべきか呆然と佇み考え込んだ。
窓を叩く雨音が激しさを増しているような気がした。
「ええい」。私は、車のキーを握りしめ、取る物も取り敢えず外に飛び出した。
ふだんは観光客であふれかえっている伊豆高原の町だが、さすがに台風の日に訪れる観光客は少ない。
いつもは品川、練馬、足立などの東京ナンバーや千葉ナンバー、湘南ナンバーで賑わう国道も、その日ばかりは地元の伊豆ナンバー、沼津ナンバーばかりだった。
伊豆から都心に向うには幾つもの急な峠を越えていかねばならない。
心の中で「落ち着け、落ち着け」と自分自身の気持ちをなだめながらフロントガラスの向こうに視線を集中させた。
「こんなところで事故ってしまっては身もふたもない」。
正直、最悪の事態を何度も予想した。
そのたびに、私は首をふりそれを否定する。
運転中はひたすらその繰り返しだったような気がする。
東名高速を用賀料金所で降りて国道二四六号線に入った私は、病院への曲がり角を探した。
私が東京目黒の病院に着いた時、既に時計は午後十一時を回っていた。
救急外来の入り口を見つけてそこから中に入った。
入り口のすぐそばにある待合室には、こんな遅い時間にもかかわらず大勢の患者が診察を待っていたのは驚きだった。
私はそんな人たちの脇をすり抜けるように、四階の救急病棟へと向った。
ほとんど人気もなくガランとした薄暗い救急病棟の待合室にいたのは、電話をくれた義弟一人だった。
「先生は明日の朝改めて説明すると言っていたけど、私には、左の脳の出血が三センチぐらいあるのでかなりの重傷だと言っていた。相当長い入院生活を覚悟しておいた方がいいかもね」。
義弟は、事情もよく飲み込めていない私にあっさりと「それなりの覚悟をしろ」と迫っていた。
どこの病院でも一番重篤な患者はナースステーション付近の病室に置かれるが、恵子の寝ている病室はまさにナースステーションのすぐ目の前にあった。
私は、おそるおそる病室に入った。
目の前に並ぶたくさんの管。
そして、薄暗い部屋の中でひときわ明るい光をはなつ心電図のモニターには、ピッピッという規則的な電子音と共に恵子の心臓の波形が映しだされていた。
恵子は、そんな器械の中に埋もれるようにベッドの上で眠っていた。
静かな呼吸音が彼女の口から漏れてきた。「ああ生きている。良かった」。
これがその時の私の偽らざる気持ちだった。
運命の女神がもしそう願えば二度と会うことが叶わなかったかもしれない人が生きてそこにいた。
私はベッド脇に置かれた椅子に腰を掛けた。
何が起こったというのだろう。
これからどうなるのだろうか。
私の頭は状況を懸命に整理しようとしていた。
ただ、不思議と悲壮感はなかった。
まだ情報があまり頭の中になかったからかもしれない。
そんな私に繰り返し襲ってきたのは「これは何の啓示なのだろう」という思いだった。
私は、何をしろと言われているのだろうか。
数年前から介護と音楽とを結びつける企画をいろいろな介護企業にプレゼンしていた。
だから「お前も口で言うだけじゃなく、頭で考えるだけでなく、自分で実践してみろ」そう言われているのだろうか。
恵子の眠る静かな病室でそんなことを考えながら過ごしたのがちょうど二年前の9月2日の晩だった。
あれから丸二年という月日がたってしまったが、あの晩に考えた「これから起こるかもしれない数年間」と現実に体験した「実際に起こった二年間」はまったく違っていた。
両親を十代でなくした私に親の介護は無縁のはずだった。
だから、子供もいない私たち夫婦にとって、「介護」という二文字は、お互いの間にしか起こりえないと思っていたが、現実にそれが起こってしまったのだ。
介護の事情というのは、一人一人ケースバイケースで全部違うのだから、自分の状況を「大変だ、大変だ」と叫んでみても何の助けにもならない。
それよりも、介護という現実は人にいろいろなことを教えてくれる。
そのことの方がはるかに大事なような気がしてならない。
時に「地獄」のような場面も訪れたりはするが、問題はそんなことではない。
やはり、問題は「どう生きるか」ということ。
つまり、介護とは「生き方」そのものが問われているんだということに結局は気づかされる。
私という「介護する人」と恵子という「介護される人」はまったく違う人間だし、それぞれ別の人生があるということ。
こんな「当たり前」のことがとっても新鮮で「大発見」のように思えるのが「介護」なのかもしれないと思う。
「介護する側」と「介護される側」では百八十度も立場が違う。
でも、この二者は絶えず近い距離(精神的にも物理的にも)にいなければならない。
ここが一番の問題なのだろうと思う。
本当は「近く」なければならない二人なのに、この二人の間の距離は思ったほどは近くない。
時に、絶望的とも思えるほどにこの距離がなかなか縮まらないのだ。
「早く治してあげたい」「早く治りたい」。
この二つの願望は、一見同じことを目指しているようだが実際は微妙に違う。
「全部食べなきゃ体力つかないよ」「でも、なかなか全部食べられないよ」
こんな何気ない日常の食事場面が何度も何度も繰り返されていくうちに、お互いの中でズレていくものを修正することがだんだん難しくなっていく(介護というのはこんな小さなズレが日々集積していくことなのかもしれないとも思う)。
それまで一緒に行けた外食も、一緒に行っていた映画も「そんなこといつのことだっけ?」と感じるほど遠い世界に追いやられてしまっている。
別にそんなこと望まないよと強がってみても、心の中では「早く一緒に外で食事を楽しみたいな」と思う。
でもそれを許さない現実の二人の「距離」に時に絶望し、時に涙する。
そんな日々をどう生きていくのか。
あるいは、どう演出していくのか。
介護に疲れちゃいけないんだよな。
介護に疲れるということは、すなわち「生きることに疲れてしまう」ことにつながっていくんだから。
まだそんな結論には到達したくないし、そうするべきではない。
介護というのは、結局「介護する側」と「介護される側」の距離をどう縮めることができるのか…その方法を探ること。
だんだん素直にそう思えるようになってきた。
その答えを見つけることができるのかできないのか、残りの人生をそこに賭けてみるのも悪くない。
「これから」やっていくことの一つ一つでその答えに近づいていければ…。
「あの日」から二年後の私の偽らざる心境といったところだろうか。
2011年の9月2日。ちょうど台風が日本列島にいくつもやってきていた日だった。
ふだん自宅から見えるはずの房総半島も伊豆大島も伊豆七島もまったく見えない、ただただ雨と風だけの一日。
そんな日は逆に練習に身が入るのでかなり練習に時間を費やした日だった気がする。
夕食を食べソファに横になろうとしていたちょうどその時、突然携帯電話が鳴った。
久しぶりに聞く義弟の声だった。
彼が、電話の向こうでこう告げてきた。
「ケイが倒れて救急車で運ばれたよ」。
え。何。恵子が倒れた?
自分の身内が病気や事故で倒れるなどという事態を予測している人はあまりいない。
私は、その時の彼のことばの意味をしばらく理解できないでいた。
恵子が脳溢血で倒れた。電話口の向こうの声ははっきりとそう告げていた。
しかし、私の頭は「そんな、まさか。あり得ない」という先入観から、まったく違った風に彼のことばを理解しようとしていた。
「え。ケイ? 叔母さんじゃないの?」
恵子の東京の実家で同居している八十四歳の叔母ならいつ倒れてもおかしくない。
私の頭は、勝手にそう解釈しようとしていた。
しかし、この私の小さな望みは彼の次のことばであっさりと否定されてしまった。
「いや、倒れたのはケイの方。たった今救急車で運ばれたところ。けっこう大変そうだよ。また病院に着いたら連絡する」。
そう言うなり彼は電話を切った。
戸外の強風のもたらす激しい音に我に返った私は、一体何をなすべきか呆然と佇み考え込んだ。
窓を叩く雨音が激しさを増しているような気がした。
「ええい」。私は、車のキーを握りしめ、取る物も取り敢えず外に飛び出した。
ふだんは観光客であふれかえっている伊豆高原の町だが、さすがに台風の日に訪れる観光客は少ない。
いつもは品川、練馬、足立などの東京ナンバーや千葉ナンバー、湘南ナンバーで賑わう国道も、その日ばかりは地元の伊豆ナンバー、沼津ナンバーばかりだった。
伊豆から都心に向うには幾つもの急な峠を越えていかねばならない。
心の中で「落ち着け、落ち着け」と自分自身の気持ちをなだめながらフロントガラスの向こうに視線を集中させた。
「こんなところで事故ってしまっては身もふたもない」。
正直、最悪の事態を何度も予想した。
そのたびに、私は首をふりそれを否定する。
運転中はひたすらその繰り返しだったような気がする。
東名高速を用賀料金所で降りて国道二四六号線に入った私は、病院への曲がり角を探した。
私が東京目黒の病院に着いた時、既に時計は午後十一時を回っていた。
救急外来の入り口を見つけてそこから中に入った。
入り口のすぐそばにある待合室には、こんな遅い時間にもかかわらず大勢の患者が診察を待っていたのは驚きだった。
私はそんな人たちの脇をすり抜けるように、四階の救急病棟へと向った。
ほとんど人気もなくガランとした薄暗い救急病棟の待合室にいたのは、電話をくれた義弟一人だった。
「先生は明日の朝改めて説明すると言っていたけど、私には、左の脳の出血が三センチぐらいあるのでかなりの重傷だと言っていた。相当長い入院生活を覚悟しておいた方がいいかもね」。
義弟は、事情もよく飲み込めていない私にあっさりと「それなりの覚悟をしろ」と迫っていた。
どこの病院でも一番重篤な患者はナースステーション付近の病室に置かれるが、恵子の寝ている病室はまさにナースステーションのすぐ目の前にあった。
私は、おそるおそる病室に入った。
目の前に並ぶたくさんの管。
そして、薄暗い部屋の中でひときわ明るい光をはなつ心電図のモニターには、ピッピッという規則的な電子音と共に恵子の心臓の波形が映しだされていた。
恵子は、そんな器械の中に埋もれるようにベッドの上で眠っていた。
静かな呼吸音が彼女の口から漏れてきた。「ああ生きている。良かった」。
これがその時の私の偽らざる気持ちだった。
運命の女神がもしそう願えば二度と会うことが叶わなかったかもしれない人が生きてそこにいた。
私はベッド脇に置かれた椅子に腰を掛けた。
何が起こったというのだろう。
これからどうなるのだろうか。
私の頭は状況を懸命に整理しようとしていた。
ただ、不思議と悲壮感はなかった。
まだ情報があまり頭の中になかったからかもしれない。
そんな私に繰り返し襲ってきたのは「これは何の啓示なのだろう」という思いだった。
私は、何をしろと言われているのだろうか。
数年前から介護と音楽とを結びつける企画をいろいろな介護企業にプレゼンしていた。
だから「お前も口で言うだけじゃなく、頭で考えるだけでなく、自分で実践してみろ」そう言われているのだろうか。
恵子の眠る静かな病室でそんなことを考えながら過ごしたのがちょうど二年前の9月2日の晩だった。
あれから丸二年という月日がたってしまったが、あの晩に考えた「これから起こるかもしれない数年間」と現実に体験した「実際に起こった二年間」はまったく違っていた。
両親を十代でなくした私に親の介護は無縁のはずだった。
だから、子供もいない私たち夫婦にとって、「介護」という二文字は、お互いの間にしか起こりえないと思っていたが、現実にそれが起こってしまったのだ。
介護の事情というのは、一人一人ケースバイケースで全部違うのだから、自分の状況を「大変だ、大変だ」と叫んでみても何の助けにもならない。
それよりも、介護という現実は人にいろいろなことを教えてくれる。
そのことの方がはるかに大事なような気がしてならない。
時に「地獄」のような場面も訪れたりはするが、問題はそんなことではない。
やはり、問題は「どう生きるか」ということ。
つまり、介護とは「生き方」そのものが問われているんだということに結局は気づかされる。
私という「介護する人」と恵子という「介護される人」はまったく違う人間だし、それぞれ別の人生があるということ。
こんな「当たり前」のことがとっても新鮮で「大発見」のように思えるのが「介護」なのかもしれないと思う。
「介護する側」と「介護される側」では百八十度も立場が違う。
でも、この二者は絶えず近い距離(精神的にも物理的にも)にいなければならない。
ここが一番の問題なのだろうと思う。
本当は「近く」なければならない二人なのに、この二人の間の距離は思ったほどは近くない。
時に、絶望的とも思えるほどにこの距離がなかなか縮まらないのだ。
「早く治してあげたい」「早く治りたい」。
この二つの願望は、一見同じことを目指しているようだが実際は微妙に違う。
「全部食べなきゃ体力つかないよ」「でも、なかなか全部食べられないよ」
こんな何気ない日常の食事場面が何度も何度も繰り返されていくうちに、お互いの中でズレていくものを修正することがだんだん難しくなっていく(介護というのはこんな小さなズレが日々集積していくことなのかもしれないとも思う)。
それまで一緒に行けた外食も、一緒に行っていた映画も「そんなこといつのことだっけ?」と感じるほど遠い世界に追いやられてしまっている。
別にそんなこと望まないよと強がってみても、心の中では「早く一緒に外で食事を楽しみたいな」と思う。
でもそれを許さない現実の二人の「距離」に時に絶望し、時に涙する。
そんな日々をどう生きていくのか。
あるいは、どう演出していくのか。
介護に疲れちゃいけないんだよな。
介護に疲れるということは、すなわち「生きることに疲れてしまう」ことにつながっていくんだから。
まだそんな結論には到達したくないし、そうするべきではない。
介護というのは、結局「介護する側」と「介護される側」の距離をどう縮めることができるのか…その方法を探ること。
だんだん素直にそう思えるようになってきた。
その答えを見つけることができるのかできないのか、残りの人生をそこに賭けてみるのも悪くない。
「これから」やっていくことの一つ一つでその答えに近づいていければ…。
「あの日」から二年後の私の偽らざる心境といったところだろうか。