に初めて自分の著書(『オーケストラとは何か(新潮選書)』)が使われたのは、ちょうど二十年前の聖心女子大学の入試問題だった。
入試シーズンもとっくに終わった五月頃に突然大学から一枚の断り書きと共に入試問題(国語問題)が送られてきた。
さすがに「え?!」と驚くと共に「なんで事後承諾なの?」という疑問も同時に湧いた。
確かに、自分の関係者に同大学の受験生がいたとしたら公平性を欠くわけだから事後承諾はやむをえないのかなと思う反面もう一つ疑問も湧いた。
「印税はどうなっちゃうの?」。
例えば、新聞の記事が入試に使われようが作家の著書が使われようが「入試は営利事業ではないので、著作権法の特例にあたる」という訳のわからない理屈で入試問題に印税は発生しないのだという(この理屈に「そうだね」と素直に納得できる人はきっと少ないだろう)。
その当時このことをある週刊誌で告発記事にしてもらったが、そんなことぐらいで法律が簡単に変わるわけがない。
今もそのまま入試問題は著作権法の網の目をくぐりぬけて(というか、著作権法に守られて)大学側は「タダで全ての著作を使い放題」を決め込んでいる。
まあ、それがたったの一回ぐらいだったら入試に使われたことが私にとっても「名誉なことだ」で済むかもしれないが私の著書は、この二十年前の聖心女子大以来毎年どこかの入試で使われ続けている。
私がこれまで出した8冊の本全てが国語入試問題の格好のネタになっているが(先生たちは、天声人語のような新聞のコラムとかこういう本から入試問題のネタを探しているということだ)いい加減「印税ちゃんと払ってくれよ」と言いたくもなってくる。
幸いなことに、私はある著作権管理団体の会員なので、この団体が細かくチェックをしてくれていて入試問題そのものにギャラは発生させられなくても、「入試問題集」で発生した印税はきちんと徴収してくれる。
今年も幾つかの高校入試や中学入試に私の『音楽はなぜ人を幸せにするのか(新潮選書)』が使われたらしく、微々たる印税が振り込まれていた(問題集だと、たくさんの問題の中の一つなので、私に振り分けられる印税は本当に微々たるものだ)。
そして、私は今ちょうど次の著作のゲラの校正をしている最中だ。
今度の著作、これまでの8冊とはまったくタイプが違う。
ジャンルとしては、いわゆるドキュメンタリー本になる。
恵子の病気とこれまでの介護生活のことが中心に書かれているのだが、単なる「闘病記」ではないし最初からそのつもりで書いてはいない。
その類いの本なら私があえて書く必要もないと思ったからだ(世の中には患者本人や家族によるいろいろな病気の闘病記がたくさん出版されている)。
恵子の発病は確かに一つの大事なキッカケにはなったのだが、私は、もっと大きな視野で「音楽と病、音楽と介護との関連」を自分の体験を通して書こうと思ったのだ。
事実、私はこの本をキッカケに「音楽が介護に果たす役割」が大きく変わってくれたらと本気で思っている。
なので、著作中には、昨年から行っているある介護企業の経営する数十の介護施設での音楽体験や私が始めた女性オーケストラ<フルムス>の活動のこと、MUSIC-HOPEプロジェクトの話なども随所に登場する。
私は、小さい頃から音楽が単なる「個人の趣味」のような存在であることに強い疑問を持っていた。
個人的に「クラシック音楽が大好きだった」ことは確かだし、フルートという楽器を習いその音楽をこよなく愛していた人間であることも確かだ。
しかし、同時にこんな疑問も持っていた。
「もし、西洋のクラシック音楽を知らない人が初めてクラシック音楽を聞いたらどのように感じるのだろう?私と同じようにはきっと感じないのでは?ひょっとしたら、それを不快に感じる人もいるかもしれない。よく音楽は世界共通のことばとかいう言い方がされるけれど、それって本当だろうか?バッハはバッハ、ビートルズはビートルズって言われても、それって世界中でほんの一握りの人にしか通じない理屈なんじゃないのかな?」
ある意味、「音楽って何?」という疑問が最初っから私の頭を支配していたのだ。
そんなに理屈っぽい奴なら音楽評論家にでもなれば良いじゃないかという人もいるかもしれない。
でも、私は音楽評論家になる気などはサラサラなかった。
「自分自身が音を出さない音楽の世界なんて音楽じゃない」とも本気で思っていたからだ。
そんなことを考えていた十代だったから素直に「音大に行って音楽家になります」とは言えなかったし、料理人になる夢も同時に捨てきれなかった(その頃、シェフなんていうシャレたことばが一般的だったら私の将来も変わっていたかもしれない)。
音楽やろうか料理やろうかと自分の未来のビジョンを明確に持てないまま普通の大学に進みフランス語を専攻した。
そんな人生に迷っていた私の背中を押したのは当時つきあっていた妻の恵子だった。
「音楽の本当の意味を知りたいんだったらプロになるしかないじゃない。逃げることのできないギリギリの崖っぷちで勝負するしかないじゃない。そうやって自分を追い込まない限り見えないモノがあるはずよ。それを見たらいいじゃない」。
彼女のそのひとことで私はプロの道を歩もうと決心した。
それから四十年の月日がたって再び彼女の存在で私はまた新しい道を切り開こうとしている。
彼女が私の背中を押してくれたことによってこれまでのキャリアを作ることができたのだから、これからのキャリアもきっと彼女の存在によって切り開いていくことができる。
そんな気がしている。
なにしろ彼女自身が病気になることによって私に教えてくれた数々の事柄がなかったら今度の著作が誕生しなかったことだけは確かなのだから。
入試シーズンもとっくに終わった五月頃に突然大学から一枚の断り書きと共に入試問題(国語問題)が送られてきた。
さすがに「え?!」と驚くと共に「なんで事後承諾なの?」という疑問も同時に湧いた。
確かに、自分の関係者に同大学の受験生がいたとしたら公平性を欠くわけだから事後承諾はやむをえないのかなと思う反面もう一つ疑問も湧いた。
「印税はどうなっちゃうの?」。
例えば、新聞の記事が入試に使われようが作家の著書が使われようが「入試は営利事業ではないので、著作権法の特例にあたる」という訳のわからない理屈で入試問題に印税は発生しないのだという(この理屈に「そうだね」と素直に納得できる人はきっと少ないだろう)。
その当時このことをある週刊誌で告発記事にしてもらったが、そんなことぐらいで法律が簡単に変わるわけがない。
今もそのまま入試問題は著作権法の網の目をくぐりぬけて(というか、著作権法に守られて)大学側は「タダで全ての著作を使い放題」を決め込んでいる。
まあ、それがたったの一回ぐらいだったら入試に使われたことが私にとっても「名誉なことだ」で済むかもしれないが私の著書は、この二十年前の聖心女子大以来毎年どこかの入試で使われ続けている。
私がこれまで出した8冊の本全てが国語入試問題の格好のネタになっているが(先生たちは、天声人語のような新聞のコラムとかこういう本から入試問題のネタを探しているということだ)いい加減「印税ちゃんと払ってくれよ」と言いたくもなってくる。
幸いなことに、私はある著作権管理団体の会員なので、この団体が細かくチェックをしてくれていて入試問題そのものにギャラは発生させられなくても、「入試問題集」で発生した印税はきちんと徴収してくれる。
今年も幾つかの高校入試や中学入試に私の『音楽はなぜ人を幸せにするのか(新潮選書)』が使われたらしく、微々たる印税が振り込まれていた(問題集だと、たくさんの問題の中の一つなので、私に振り分けられる印税は本当に微々たるものだ)。
そして、私は今ちょうど次の著作のゲラの校正をしている最中だ。
今度の著作、これまでの8冊とはまったくタイプが違う。
ジャンルとしては、いわゆるドキュメンタリー本になる。
恵子の病気とこれまでの介護生活のことが中心に書かれているのだが、単なる「闘病記」ではないし最初からそのつもりで書いてはいない。
その類いの本なら私があえて書く必要もないと思ったからだ(世の中には患者本人や家族によるいろいろな病気の闘病記がたくさん出版されている)。
恵子の発病は確かに一つの大事なキッカケにはなったのだが、私は、もっと大きな視野で「音楽と病、音楽と介護との関連」を自分の体験を通して書こうと思ったのだ。
事実、私はこの本をキッカケに「音楽が介護に果たす役割」が大きく変わってくれたらと本気で思っている。
なので、著作中には、昨年から行っているある介護企業の経営する数十の介護施設での音楽体験や私が始めた女性オーケストラ<フルムス>の活動のこと、MUSIC-HOPEプロジェクトの話なども随所に登場する。
私は、小さい頃から音楽が単なる「個人の趣味」のような存在であることに強い疑問を持っていた。
個人的に「クラシック音楽が大好きだった」ことは確かだし、フルートという楽器を習いその音楽をこよなく愛していた人間であることも確かだ。
しかし、同時にこんな疑問も持っていた。
「もし、西洋のクラシック音楽を知らない人が初めてクラシック音楽を聞いたらどのように感じるのだろう?私と同じようにはきっと感じないのでは?ひょっとしたら、それを不快に感じる人もいるかもしれない。よく音楽は世界共通のことばとかいう言い方がされるけれど、それって本当だろうか?バッハはバッハ、ビートルズはビートルズって言われても、それって世界中でほんの一握りの人にしか通じない理屈なんじゃないのかな?」
ある意味、「音楽って何?」という疑問が最初っから私の頭を支配していたのだ。
そんなに理屈っぽい奴なら音楽評論家にでもなれば良いじゃないかという人もいるかもしれない。
でも、私は音楽評論家になる気などはサラサラなかった。
「自分自身が音を出さない音楽の世界なんて音楽じゃない」とも本気で思っていたからだ。
そんなことを考えていた十代だったから素直に「音大に行って音楽家になります」とは言えなかったし、料理人になる夢も同時に捨てきれなかった(その頃、シェフなんていうシャレたことばが一般的だったら私の将来も変わっていたかもしれない)。
音楽やろうか料理やろうかと自分の未来のビジョンを明確に持てないまま普通の大学に進みフランス語を専攻した。
そんな人生に迷っていた私の背中を押したのは当時つきあっていた妻の恵子だった。
「音楽の本当の意味を知りたいんだったらプロになるしかないじゃない。逃げることのできないギリギリの崖っぷちで勝負するしかないじゃない。そうやって自分を追い込まない限り見えないモノがあるはずよ。それを見たらいいじゃない」。
彼女のそのひとことで私はプロの道を歩もうと決心した。
それから四十年の月日がたって再び彼女の存在で私はまた新しい道を切り開こうとしている。
彼女が私の背中を押してくれたことによってこれまでのキャリアを作ることができたのだから、これからのキャリアもきっと彼女の存在によって切り開いていくことができる。
そんな気がしている。
なにしろ彼女自身が病気になることによって私に教えてくれた数々の事柄がなかったら今度の著作が誕生しなかったことだけは確かなのだから。