みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

記念日

2014-09-02 18:51:22 | Weblog
とはいっても、私にとって本当は思い出したくもない「悪夢の記念日」だ。
恵子が病気に倒れたのは、三年前の2011年9月2日。
この三年間彼女の介護を続けてきて、三年前よりも気持ちが明るく落ち着いてきたかと言えば必ずしもそうとは言えない。
逆に、いろいろな不安が増えたような気もする。
三年前のこの日病院のベッド脇で思った「起こってしまったことはしょうがない。問題はこれからだ」という「覚悟」自体は揺らいでいないが、まだ何もわかっていなかったあの時と比べて、冷静にいろいろなことが判断できるようになってくると逆にどんどん「怖さ」も増している。
一つには、「再発の恐怖」というのがいつも頭のどこか片隅にあるからだろう。
脳梗塞も脳出血も「再発」の可能性はいつでもある(脳梗塞の方が再発の頻度ははるかに高いのだが)。
この病気は、単に「生活習慣病」とばかりは言えない別の要素もあるからだ。
むしろ「生活や食べ物が悪い」から病気になったのだったら、それを改めれば良いだけのこと。
しかし、それをやったところで「再発」する人はいる。
きっと別の何か重大な問題がこの病気には潜んでいるのだろう。
そうなるリスクは毎日の生活の中から極力取り除くようにしている。
それでも…。時々何か肝心なことを忘れているような気がする。
疲れがたまったりすると(私自身の苛々からか)、時々彼女に声を荒げる時がある。
おそらく、介護の日々を送っている人ならそうした日常生活の苛々から、本当はしたくない言動をしてしまう時は必ずあるのだと思う。
で、そのたびに、自己嫌悪に陥る。
相手のことをすごく思いやっているつもりなのにどうしてそういう言動や苛々が出てきてしまうのか…。
介護の日常は、三年前に考えていたようなそんな「甘い」ものではやはりなかったということだろう。

発症当時はわからなかった恵子の麻痺の度合いも他の人よりはるかに高いことも徐々にわかってきた(なので、余計に他の人と比較して「何でまだこれぐらいしか回復していないのだろうか」とつい思ってしまう)。
「それ」が三年前の今日何の前触れもなく突然起こったのと同様に、これからもいつ何時何が起こるかわからない。
昨日は防災の日で至るところで防災訓練が行われていたようだが、もし万が一私と恵子の目の前で大災害が起こったらどうすれば良いのか。
これもいつも考えていることだ。
「おぶって避難するしかないな、でも軽くてよかったよ」。
恵子にそう冗談めかして言うとかすかに彼女の顔が微笑んだような気がしたが、その表情は以前とはまったく違う。
私たちの脳の中で何が行われているのかはまだ本当に私たち人間は解明していない。
恵子の脳の出血がどれだけのダメージをもたらしたのかは私たちにも未だによくわからないし、きっと医者にも(研究者にも)それほどよくはわかっていないのだろう。
恵子の身体半分が麻痺してしまったことは確かだが、彼女が受けたダメージは単にそれだけではない。
ほんの少しの刺激で涙が出たり、右の耳の聞こえが悪くなったり、すぐに「暑い」「寒い」を交互に繰り返す環境変化への過敏な反応など、いくらでも(異常は)出て来るのだが、私が一番懸念するのは、「喜怒哀楽」の反応が以前よりはるかに鈍いのではないかということだ。
それもいつも同じ調子ではなく、調子が「いい時」と「悪い時」が微妙にあったりする。
ただはっきり言えることは、以前よりも「笑わない」し「怒り」もしないし、「驚き」もしないということ。
一緒にいる私でも感情の起伏がなかなか読み取れないのだ。
いろいろ調べたり同じ病気の人に聞いたりしても、こうした変化は別に一律に同じように現れるわけではないらしい。
結局、みんな症状は違うということ、それしかわからない。
なので、恵子のこうした症状をどうしたら治していけるのかと思っても、いわゆる(担当医師である)神経外科の医師にとってこれは、ある意味「専門外」なのではないかと思う。
おそらく、「心療内科」の医師の方がより適切な指導をしてくれるのかもしれない。
これまで起こった三回の転倒も彼女の「ある悩み」が直接の引き金を引いていた。
つまりは、心的要因が身体的パニックを引き起こしたものだと私は今でも思っている(それが「心療内科なのでは?」と私が考える理由だ)。
つい先日もこんなことがあった。
彼女を入浴させ、洗い場から脱衣スペースへいざ上がろうとする時彼女の足が突然止まってしまったのだ。
洗い場と脱衣スペースの間には5センチほどの段差がある(どこの風呂場でもこれぐらいの段差はあるはずだ)。
しかし、そこにはとても掴み易い場所に二カ所手すりがついている。
いつもだったらそこをつかみ若干の躊躇はあっても問題なく移動はできていた。
しかし、この日はまったく事情が違っていた。
何度も何度も上がろうと試みていることはよくわかるのだが、彼女の足がまったく動かない。足が上がらない。
動かそうと試みていることは彼女の膝の動きや微妙な動きでわかるのだが、足はピタっとそこに留まったままだ。
彼女の身体をかかえて移動させてしまうのは簡単だが、それは絶対にしたくなかった。
いったん、そうやって誰かに助けられてしまうと「ああ、この動作は自分ではできないんだ」と脳が覚えてしまうことを恐れて私はどんなに動作が遅くても彼女の手助けはしないようにしている。
なので、ひたすら辛抱強く待った。
しかし、十分待っても二十分待っても彼女の足は一向に動く気配がない。
私は、意を決して彼女を無理矢理かかえ脱衣場へと移動させた。

この後、二人で話しあい原因を探った。
絶対どこかに「そうなった理由」があるはずだからだ。
やはり、原因は彼女の脳の中にあった。
彼女は、来週に迫った骨折の定期検査の結果を恐れていたのだ。
6月の検査で医師に言われたひとことにその伏線があった。
レントゲン写真を見ながら何気に言った医師のことばが彼女の脳裡にトラウマのように居座り続けていたのだ。
X線写真というのは、けっして骨の細部までは見せてくれない。
いろいろな病気の「カゲ」のようなものを映し出すことはあっても、けっして「骨の中身」まではっきりと見せてくれているわけではない。
なので、医師も「~の可能性があるネ」といった曖昧なことを言う。
別に自己弁護でも何でもないだろう。
整形外科の医師として、X線写真だけでは本当に判断できなかっただけなのだろう。
しかし、患者とその家族にしてみると、医師のことばというのは、ある意味「神のことば」にも等しい場合がある。
「え~?うそ、ホントですか」と突っ込みを入れてもその「神様」にも確信がないのだからそれ以上突っ込みようがない。
仕方なく、その「不安」は、患者とその家族が背負い続けることになる。
「そうか、恵子はこのことばをずっと引きずっていたのか」。
骨折はしたものの息のあう療法士との出会いによって恵子の回復は思ったよりも早く順調に見えたのに、恵子はこのことをずっと悩み続けていたのだ。
退院直後はかなり回復していたように見えていた。
しかし、それ以降彼女の身体の調子は悪くなる一方で、夏の終わりのこの時期最悪の状態になっていた。
しかも、その原因は「暑さ」だけではなく、こんな「心理的要因」に影響されていたのだ。
「そんな歩き方じゃダメだよ」といつもダメを出してばかりの私だが、こうした彼女の心の動きにもっと思いを寄せる必要があったのでは…。

「介護する人」と「介護される人」との間の駆け引きは、「何かをする、される」という関係だけではけっしてないということを心にいつも留めていたつもりだったが、何か大事なことをどこかに「置き去り」にしてきたのかもしれない。
ふだんからお年寄りのケアや認知症の方に対するケアを「相手目線」でしようとしている自分なのに、こんなに身近な人間の「目線」にすらなれないなんて…。
いつも恵子が「自分じゃ何もできないのが悔しい。全部やってもらっちゃって」と訴えるたびに「いやあ、俺が全部やるのは別に何でもないよ。それよりも一所懸命治ることだけ考えればいんだよ」と応えるが、ひょっとしたら、こんな私のことば自体が彼女には負担になっていたのかもしれない。
どんなに努力してみても本当に「他者の気持ち」になることはできない。じゃあ、それで諦めてしまえば良いのかというと絶対にそうではないだろうと思う。
人間というのは、一人では生きていけない以上、他者との関わりの中でしか生きられない。
その中でも最も身近な人、最も大事な人の心を思いやることだけは忘れないようにしたいし、その方法も一つじゃないんだろうナ…と思う。きっと。