みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

言わなきゃよかった

2014-10-25 11:47:43 | Weblog
最近,恵子は夜になると調子が悪くなる。
多分,体力が夜までもたないのだろう。
昼間一生懸命リハビリに頑張り一生懸命食べているせいか、だんだん寝る時間が早くなっていくようだ。
夕食が終わるともうすぐに休むような体勢になり,大体8時前にはベッドに入ってしまう。
だんだん寒くなると筋肉が緊張し手や足が曲がって縮こまってしまう「けい縮」の度合いが強くなるせいもあるのかもしれない。
そのことを指摘すると,ふだん彼女の中で意識的に(懸命に)治そうとしている部分なだけに逆に彼女の神経をかえって苛立たせてしまうのか泣きながら反発する。
最近、夜になるのが怖い時すらある。
彼女の表情からも昼間の明るさが消えてベッドの中でため息をつくことが多い。
きっと麻痺している身体の右半分が相当に辛いのだろう。
そういうことを訴えられても身体をさすったりするだけではこの問題,そう簡単には解消しない。
おそらく精神的な不安定さと自律神経のアンバランスさがそうした痛み(というよりはダルさ,重さと彼女は言うのだが)を増しているのではと思い、私はなるべく彼女の心から「心配事」を取り去ろうと努める。
しかし、ことばを慎重に選ばないとかえって彼女の心を乱してしまう。
昨日の夜も「泣いてないでもうちょっと明るくしようよ」と言った途端(これがまた火に油をそそいでしまったようで)「だって,モノが高くなったって言ってたじゃない。心配だよ」と言われてしまった。
「そうかアレか」と,昼間の自分の発言を思い出す。
昼にスーパーに買い物に出かけ、家に帰って玄関を開けるなり私が言ったひとことを彼女がずっと気にしていたのだ。
「近頃、メチャクチャ物価が高くなったよ。以前だったらこれぐらいで3千円ぐらいの買い物と思っていたものが、今じゃあ軽く5千円越しちゃうもんね」。
私は,単なる世間話のつもりだった。
これがイケなかったのだ。
彼女の中では,買い物にも自分では行けないこと,そして自分は仕事もできずに私にお金のやりくりを全て任せてしまっていることは,自分の身体が思うようにならないことと同じぐらい「悔しい」ことなのだ。
そこまで思いを馳せるべきだった。
夜ベッドの中で泣きながらそんなことを言われて私は「ああ、そうか。あんなこと言うべきじゃなかったナ…」とちょっと悔やんだ。

それでも気を取り直し、彼女の機嫌を何とか直そうとする。
「別に,いま元通りになってなくったっていいじゃない。毎日明るく楽しく暮らせていればそのうち治るよ。テッチャンも言ってたじゃない。<ナマケナイ、アセラナイ、ガンバラナイ>って」。
テッチャンというのは,私の幼なじみの同級生で十年ほど前に恵子と同じ脳卒中を患った過去を持ちながら今はそれほど後遺症も残らずに仕事を元気にしている友人だ。
彼が,私たちに送ってくれた色紙には亀の絵が描かれていて,その脇にリハビリに励んでこの病気を克服するための(彼なりの)標語が書かれているのだ。
「ナマケナイ,アセラナイ、ガンバラナイ」。
きっと今の恵子にはこの3つのモットーのどれもがうまく行っていないのかもしれない。
けっしてナマケている訳ではない。
そんなことは百も承知だ。
しかし、以前のようなゆったりした気持ちで自主トレができていないのも確かなのだ。
それは、全て彼女の「焦る」心が全てを悪い方に回転させているからだ。
私はせめてものリラックスタイムを作ろうと,毎日夜ベッドサイドで彼女に足湯をする。
温泉をひいている我が家の利点を有効に活用しない手はない。
大きな容器に浴槽で温泉を入れてそれをベッドサイドまで運ぶ。
重たいお湯を運ぶ(ヘタをすると腰をやられそうな)日課だが,何とか彼女のためにも毎日欠かさずやっている。
固くこわばった右足を温泉につけ二人で一緒に「グーパー、グーパー」とリズムを取りながらかけ声をかける。
温かい足湯の中で右足の指を開く運動だ。
昨日と今日で何が違うのかわからないような(ささやかな)リハビリだが、それでも,成果を期待するのではなく、お互いの落ち着きを取り戻すために欠かせない日課の一つになっている。