みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

当たり前

2015-04-04 11:55:08 | Weblog
と自分では思えることでも世の中や他人にとっては当たり前ではないことはゴマンとある。
これも当たり前の話だ。
メディアでここ数年よく見かけるワードの「男女共同参画」。
私はこの単語にとても違和感を覚える。
だって、何を今さらと思うからだ。
そんなこと「なんで当たり前じゃないの?」という意識が自分の中では強いからだろう。
誰かエライ人の言う「女性の力を最大限に生かして…」云々。
え、なんで今まで生かせなかったの?
それとも、男の方が女性よりエライとでも思っていたの?
介護や看護の世界でここ数年注目されている「ユマニチュード・メソッド」と「ヴァリデーション・ケア」。
お世話する相手の目を見て、同じ目線にたって、優しく声かけをしながらケアをする。
ユマニチュード・メソッドの基本だ、
え?そんなこと当たり前じゃないの?
みんなそんなことすらやっていなかったの?
逆に、こちらが驚く。
でも、きっとそれが当たり前じゃないからこそ世の中では施設や病院でいろいろなトラブルが起きるのだろう。
認知症の方たちがよく言う「アンタ、私のお金取ったでしょ」とか「そこに誰か人が立っている!」みたいな妄想は介護する家族には受け入れ難い。
そんなバカなことを言って!」。
だから、ことばとことばの争いが起こって認知症の方のケアに失敗する例が後を絶たない。
ヴァリデーション・ケアでは、そんな認知症の方のことばには「すべて意味がある」として相手のことばを「受け入れ、評価する」ところからケアをスタートさせる。
もともとヴァリデートという「相手の評価する、認める」という自己啓発的な意味で使われていたことばから派生したケアだからだ。
これも考えてみれば「当たり前」のことかもしれない。
人をケアするということは「人とコミュニケートする」ということに他ならない。
それが、何かすべてテクニカルなこと(これが「マニュアル」になる)として誤解されてしまうからこうした「当たり前」が当たり前でなくなってきてしまうのだ。
介護は、食事、排泄、入浴などのお世話をマニュアルとしてこなしていくことだと多くの施設では思われているが(ファミレスにしても介護施設にしてもそうでもしないと人が集まらないからだろう)、そんなことは絶対にない。
人が食事をする、排泄をする、身体をきれいにする。
そんなことは、人として生きていくためには最低限当たり前のこと。
それだけこなして「介護した」といばっている人は介護の本質を忘れている。
というか、まったく理解できていない。
介護にしたって、音楽にしたって、そこで何が「やり取りされる」かと言えば、生身で生きている人間同士の心の触れ合い以外の何者でもない。
つまり、コミュニケーションだ。
だから、どうやったら「相手とコミュニケートできるのか」が基本にない事象など、この地上ではまったく必要ないのではとすら私には思えてくる。
男女半々しかいないこの地球上で「男女共同参画?」
何を今さら寝ぼけたことを言っているんだろう。
そんなこと、地球ができた時から当たり前だったんじゃないの?
女性が男性よりも有色人種が白人種よりも生物学的により強い要素を持っていることを体験的に知っていたからこそ、男性は女性を、白人は有色人種を差別してきたのだろう。
差別意識の根底にあるのはコンプレックスだという心理学者の指摘はその意味ではあっている。
相手の目を見て相手と同じ目線でコミュニケートする?
それだってコミュニケートの基本でしょ。
上から目線も相手を見ずにしゃべることも、こちら側が相手を「支配」しようとしていることやコンプレックスの「裏返し」なのだから、そんなのコミュニケーションでも何でもない。
まず相手の意見を聞く。
認知症患者じゃなくったって、まず相手の意見が先なのはこれも「当たり前」。
自分の尺度で相手が理解できないから切り捨てる。
だから争いが起こる。
これも当たり前。
まったく自分とは違う「気」の中に住む認知症患者のことばをまず受け入れない限りその人の住む「世界」は理解できない。
「アンタはどろぼう」と言われたら「どろぼうなんかいる訳ない」と自分の尺度で考えるのではなく、「一体どこにどろぼうがいるのだろう」と考えて行くと、案外その人の中の「どろぼう」に容易く行き着くことができたりする。
そうか、小さい頃学校で隣の机の子にケシゴムとられちゃったんだ,,,。
そんな記憶を引き出すことが認知症患者と私たちのコミュニケーションの大きな糸口になったりもする。
一度施設を訪問していた時、演奏後私のもとに一人の車椅子の女性(まだ六十代後半のようにも見えた)が号泣しながら近づいてきたことがある。
どうなさったのですか問うと「亡くなった主人を思い出しました」と言われる。
私がご主人に似ていたのですかと問うとそうではないと答える。
私の顔とか立ち居振る舞いがご主人に似ていたのではなく、たまたまこの時歌った曲をご主人と一緒に歌ったことがあり、目の前にいる私がその年代に近かった(介護施設には私のような年代の男性は案外少ない)、ただそれだけのことでこの方の中は亡くなられたご主人と出会っていたのだ。
こんな他愛もない出来事で人を違った「世界」に誘ってくれるのも音楽の力なのかナと思う。
行政も現場も、介護や医療に対してテクニカルな対策だけでなく、「コミュニケーション」という視点から介護や医療を見直してくれないだろうかといつも思う。
当たり前のことができていないということは、どこか基本ができていないということ。
その「当たり前」がどこにあるのかを探すことも必要なのではとふと思う。