「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

播州揖保川・室津みち Long Good-bye 2024・11・08

2024-11-08 06:57:00 | Weblog

 

 

  今日の「 お気に入り 」は  、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 播州揖保川・室津みち 」。

  今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

 連載されたもの 。

 備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 「 播州については『 播磨灘物語 』を書いている
  ころ 、あちこちとあるいた 。
    もっともこの小説は 、主として東播の三木や西
  播の姫路付近が舞台だったので 、歩くについて
  も 、ついそのあたりにかぎられた 。たとえば
  因幡(いなば)とのさかいにつづく宍粟(しそう)郡
  の山崎までは行っていない 。
   そのころ 、山崎に行っていないことが絶えず気
  になっていた 。」

 「 山崎は 、三木や姫路のように播州平野の真只中
  にある集落ではない 。因幡や但馬(たじま)の山
  なみが播州の宍粟郡にまで南下し 、山崎で尽き
  る 。山崎という地名は 、京都府の山崎もそうだ
  が 、おそらく山なみの先端という地勢から出た
  ものに相違ない

  『 播磨灘物語 』という小説は 、西播の土豪だっ
  た黒田官兵衛が主人公になっている 。かれは 、
  父祖以来の城として姫路城を持っていたが 、その
  後徳川期にできた姫路城からみれば 、屋根なども
  わらや板などでふき 、石垣もほとんど用いず 、
  堀を掘った土を掻きあげて土塁にした程度の 、い
  わば小屋同然といっていいほどに規模が小さかっ
  た 。
   織田勢力が播州まで伸びたときに 、播州の大小
  の勢力はこれをきらい 、毛利・本願寺方についた
  が 、官兵衛は四面ことごとく敵という政治的惨境
  のなかにあって織田方に与(くみ)し 、信長の代官
  である羽柴秀吉に属するという思いきったカード
  を選んだ 。中世末期の人としての官兵衛のおもし
  ろさはこのことにすべてを賭けて 、たじろがなか
  ったことである自分の個人的信念をあくまでも
  持しぬくという点では 、日本の歴史のなかではめ
  ずらしい存在といっていい 。かれは自分の累代の
  居城である姫路城まで秀吉にくれてしまい 、かれ
  自身は住まいがないまま 、家族と家臣をひきい 、
  姫路の北方十里の山里である山崎に移った 。自分
  の賭けに対するこれほど思いきった忠実さとか 、
  あざやかな見きわめといった感覚は 、ひとつには
  官兵衛の祖父が商人( 目薬の委託販売 )であった
  ことからも来ているといってよい 。この点 、かれ
  は江戸期の武士や文人よりはるかに強烈な合理主義
  をもっていたといっていい 。」

 「 私は官兵衛が一時期居城とした山崎の土地に行っ
  てみねばと思いつつ 、ついに行かなかった 。か
  つて姫路へ行ったとき今度こそは行ってみようと
  想い 、タクシーの運転手に所要時間を聞いてみる
  と 、思ったより長い時間だったため 、どうも体
  力に余裕がないと思い 、やめた 。そういうまわ
  りあわせになっている土地が 、私には幾つかある 。
   この須田画伯との旅で 、播州山崎へ行ってみよ
  うとおもった 。」

 「 山崎の盆地には 、北方の山間部から幾筋かの川
  が流れこんでいる 。それが盆地で合流して揖保(い
  ぼ)川になり 、大きく南流して播州平野を沾(うる
  お)しつつ播磨灘にそそぐ 。途中 、脇坂氏の旧城
  下町の龍野を洗ってゆくのだが 、海へそそいでい
  るあたりに 、日本でもっとも古い舟泊(ふなどまり)
  である室津(むろつ)がある 。このために 、この稿
  の道中は 、山崎から出発することにした 。以下 、
  川に沿って龍野の古格な町を経 、室津に出 、その
  あたりに鄙(ひな)びた宿でもあれば泊ろうとおもっ
  た 。」

  引用おわり 。

  語りの名人の達意の文章 。

  (⌒∇⌒) 。。

 ( ついでながらの

   筆者註:「『播磨灘物語』(はりまなだものがたり)は 、
       司馬遼太郎の歴史小説 。1973年5月から1975年
       2月にかけ 、『 読売新聞 』に連載された 。

        豊臣秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛( 孝
       高 、如水 )の生涯を描く。友人として竹中半兵
       衛も描かれる 。」

       以上ウィキ情報 。)

 

 

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小作争議 Long Good-bye 2024・11・06

2024-11-06 06:11:00 | Weblog

 

 

  今日の「 お気に入り 」は  、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 潟のみち 」。

  今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

 連載されたもの 。

 備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 新潟市の東方にある豊栄(とよさか)市は 、国道ぞ
  いだけが 、とりとめもなく都市化している
   国道から 、木崎という旧村へゆくべく枝道に入る
  と 、昔ながらの田園がひろがりはじめる 。昨夜降
  った雨があちこちに溜まって 、日射しをはねかえ
  したり 、樹影をうつしたりしている 。村内に入る
  と 、道は水をたっぷりふくんでいて 、スポンジを
  踏むような感がある 。
   木崎村は亀田郷とおなじ低湿地だが 、亀田郷のよ
  うにいかにも超現代的共同体というような基盤や自
  治的規制をもたないために 、どこにでもある都市
  近郊農村のように 、集落としての景色も秩序美も
  もっていない 。」

  (⌒∇⌒) 。。

 「 木崎村というのは 、大正末年 、ここに大規模な
  小作争議がおこったことで有名である 。結局は法
  廷でやぶれたが 、争議期間が長かったことと 、争
  議が整然と運営されたこと 、当時としてはめずら
  しく県外から有力な応援者が駆けつけたことなど
  で 、大正期に頻発した小作争議のなかでは一つの
  典型として記憶されている 。」

 「 当時の幹部で 、今なお元気な人がいるという 。」

 「 明治二十六年うまれの池田徳三郎氏だという 。」

 「  池田翁は 、
  『 木崎村は 、江戸時代はみな自作農だった 。明治
  になってから小作農になった 。』
   私のほうをむかず 、在来 、話し馴れている村の人
  のほうをむいていった 。この人の叙述の仕方はじつ
  に明晰で 、木崎村をはっきりと客観的に対象化して
  とらえている 。『 私は 』と 、途中で翁がいうの
  に 、
  『 はずかしいことだが 、尋常 ( 尋常小学校のこと )
  も 、六年上(あが)ればよかったのに 、四年しか行
  がねえ 』
   だからうまく言えねえが 、という 。しかし 、叙述
  の的確さは 、なまじいな研究者から物をきくよりも
  みごとなものがある 。
  『 宝暦年間( ほぼ一七五〇年代 )から
   と 、簡潔に村史をいう 。宝暦年間というのは江戸
  期でももっとも充実した時期で 、『 仮名手本忠臣
  蔵 』の作者竹田出雲の晩年であり 、蘭学者杉田玄
  白 、思想家の三浦梅園 、安藤昌益 、医家の山脇東
  洋などの活動期でもあり 、また大岡裁判の大岡越前
  守が最晩年をむかえたころでもある 。そのころから
  この湛水地にひとびとがやってきては 、土を投げこ
  んで稲を植えた 。
  『 ・・・ やってきた者たちが 、芦のはえたドブハ
  ラを耕して自分の田を自分でつくってきた 』
   その作業を子や孫が継ぎ 、江戸期いっぱいそれを
  繰りかえして明治を迎えた 。」

  明治維新直後 、太政官の財政基礎は 、徳川幕府
  と同様 、米穀である 。維新で太政官は徳川家の直
  轄領を没収したから 、ほぼ六百万石から八百万石
  ほどの所帯であったであろう 。
   維新後 、太政官の内部で 、米が財政の基礎をな
  していることに疑問をもつむきが多かった 。
  『 欧米は 、国家が来期にやるべき仕事を 、その
  前年において予算として組んでおく 。ところが
  日本ではそれができない 。というのは 、旧幕同
  様 、米が貨幣の代りになっているからである 。
  米というのは豊凶さまざまで 、来年の穫れ高の予
  想ができないから 、従って米を基礎にしていては
  予算が組みあがらない 。よろしく金(かね) を基礎
  とすべきであり 、在来 、百姓に米で租税を納めさ
  せるべきである 』
   明治五年 、三十歳足らずで地租改正局長になった
  陸奥宗光が 、その職につく前 、大意右のようなこ
  とを建白している 。武士の俸給が米で支払われる
  ことに馴れていたひとびとにとっては 、この程度
  の建白でも 、驚天動地のことであったであろう 。
   が 、金納制というのは 、農民にとってたまった
  ものではなかった
   農民の暮らしというのは 、弥生式稲作が入って
  以来 、商品経済とはあまりかかわりなくつづいて
  きて 、現金要らずの自給自足のままやってきてい
  る 。『 米もまた商品であり 、農民は商品生産者
  である 』というヨーロッパ風の考えを持ちこまれ
  ても 、現実の農民は 、上代以来 、現金の顔など
  ほとんど見ることなく暮してきたし 、たいていの
  自作農は 、米を金に換えうる力などもっていなか
  った 。」

 「 どうすれば自作農たちが金納しうるかということ
  については 、政府にその思想も施策も指導能力も
  なにもなく 、ただ明治六年七月に『 地租改正条
  例 』がいきなりといっていい印象で施行されただ
  けである 。
   これが高率であったこと 、各地の実情にそぐわ
  なかったことなどもふくめて 、明治初年 、各地
  に大規模な農民一揆が頻発するにいたるのだが 、
  木崎村はこのときには一揆をおこしていない 。
   池田翁の話ではただ仰天し 、とても納める金な
  どない 、ということで 、金納の能力をもつ大地
  主をさがして 、
  『 安い金で買ってもらったんです 。地主に金納
  してもらい 、自分は先祖代々耕してきた田を依然
  として耕し 、以前 、藩に米を納めたように 、地
  主に物納してゆく 。つまり 、小作になったわけ
  です
   と 、池田翁はいう 。全国的にその傾向があり 、
  これによってどの府県でも圧倒的な大地主という
  のはこの時期にできあがるのだが 、その間のこと
  を 、池田翁のように父親からなまに聞いてきた人
  が肉声で言うのを聴くのは 、ちょっと凄味があっ
  た 。」

 「 この消息を 、池田翁は 、やや諧謔をこめて 、
  『 地主だって 、小地主はそう田地を持ちこまれ
  ても 、金納の能力はない 。そこをなんとかお願
  いします 、といって 、酒や赤飯を持って行って
  ただで引きとってもらった例も多いんです 。そう
  いうぐあいにしてみな小作になった 』
   やがて小地主も倒れてゆき 、大地主だけは膨れ 、
  明治政府は大地主から得た金で財政をまかなって
  ゆくのだが 、大正期になると 、小作農は暮らし
  の苦しさと政治意識の自覚が高まって 、各地に
  小作争議が頻発する 。」

 「『 争議のきっかけは 、はっきりしていないが 、
  大正十一年にスガイ・カイテン翁がやってきて 、
  各部落に小作組合ができた 』
   以後 、話の中でしばしば 、スガイ・カイテン
  ( 須貝快天 )翁という名が出たが 、池田翁はこ
  の名前を発音するたびに微妙な懐かしさを籠めた 。
  川瀬新蔵著の『 木崎村農民運動史 』では 、カ
  イテン翁については 、『 北越農民運動史のリー
  ダー 』とあるのみでこの名前は一ヵ所しか出て
  いないが 、池田翁はカイテン翁がおそらく好き
  だったにちがいなく 、勢い 、その生い立ちに
  まで触れはじめた 。( 後 略 )」

 「 池田翁は 、話術の名手といっていい 。話が外
  (そ)れたりもどったりしつつも しん が通って
  いる 。話が外れるのも当時の人情を語るためで 、 
  話全体が 、絵でいえば明治の錦絵の描法のよう
  でもあった 。」

 「 この争議のヤマは 、裁判だった 。
   大正十二年五月 、地主の真島家が小作人十二人
  に対し 、小作料未払いを理由にその請求のための
  訴訟を新発田区裁判所に提起した 。つづいて同十
  三年三月 、同家は小作人六十余人に対し 、小作
  米未納を理由に仮処分の申請をし 、新発田区裁判
  所によって受理された 。
   このことについては 、川瀬新蔵氏の『 木崎村農
  民運動史 』には 、

  父祖伝来愛着の土地に『 小作人立入る可(べか)
  らず 』の禁札が 、雪解の水を湛えて氷雨煙る
  中に鷗(かもめ)の如く点々として樹てられた 。

   とある 。鷗のごとくとあるのは禁札に白ペンキ
  が塗られていたためらしく 、こういう叙景は 、
  川瀬氏という著者自身が当事者の一人だったから
  こそ書けたのであろう 。」

 「 裁判は 、小作人側の弁護人として片山哲氏がひ
  きうけた 。後年 、昭和二十二年六月に成立した
  社会党内閣の総理大臣である
  『 新発田の裁判所まで何度も足を運んで 、傍聴
  に行った 。あのころの傍聴は羽織袴でないといか
  んという規則があったが 、私は羽織も持たず 、
  袴も持っていなかったので 、そのまま行った 。』
   と 、池田翁はいう 。
   裁判は相当ながびき 、その間 、全国の無産運動
  者側の応援もあり 、争議団の大会 、講演会 、就
  学児童五百余人の同盟休校 、農民学校の開設など
  もあって 、よほど世間の耳目をあつめたらしい 。
  東京の新聞はほぼ争議団に同情的で 、国権主義傾
  向のつよい『 国民新聞 』でさえ 、大正十五年八
  月十五日付の社説で 、『 元来 、土地は天賜のも
  の 』という基本論を説いている 。

    元来土地は天賜のもの 、之を一国の法制を以つて
    私人の所有に委ねる所以のものは 、土地の能力を
    国家社会のため十分に発揮せしめるに出づる 。国
    は土地を私に有用に利用すべく信託するのである 。
    これ以外には土地私有の合理的根拠はない筈であ
    る 。所有は後であって 、地力発揮が先きである 。
    しかるに土地の法的所有そのものを至上に尊しと
    するは 、社会生活の理想に反する 。

   土地私有と私有にともなう行為についての無制限
  にちかい現実はいまも変ることがなく 、この社説
  はこんにちの新聞に掲げられても 、すこしの違和
  感もない

   木崎村の小作問題の裁判は 、女学生まで団体で
  傍聴にきたらしい 。
   当時 、田舎では女学生の姿そのものがめずらし
  い時代で 、『 何もかも忘れっしもうた 』と池田
  翁は言いつつも 、そのことだけはよくおぼえてい
  る 。
  『 あるとき 、傍聴人だったか 、静かな法廷で大
  きな屁をひった者がある 。それでもっておおぜい
  の女学生が笑いだして笑いがとまらず 、法廷もな
  にも 、どうにもならなかった 』
   と 、追想の風景を 、笑わずにいった 。

   裁判は 、結局 、小作人側の負けになった
   が 、八十翁の記憶にはそのことがない 。
  『 忘れっしもうた 。あンだけ新発田まで足を運ん
  だのだが 』
   と言い 、このときだけは風の中で口をあけて笑っ
  た 。」 

  引用おわり 。

  ながながと引用してしまったが 、

  この文章が書かれてから50近く経った現代日本の

 土地私有と私有にともなう行為についての無制限に

 ちかい現実はいまも変ることがないどころか 、混迷

 の度を深めているように思える

 

 

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潟(かた)のみち Long Good-bye 2024・11・04

2024-11-04 06:06:00 | Weblog

 

  今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 潟のみち 」。

  今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

 連載されたもの 。述べられている風景は 、こんにち

 でも余りかわっていないのではないか 。知らんけど 。 

  備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 「 幾度ものべたように 、新潟市の南につらなる
  田郷は 、まことに一望鏡のように平坦である 。
  『 潟のみち
   と自分で勝手に名づけてこの変哲もない田園を
  歩いているのだが 、こんにち 、ただ一つの例外
  を除いて潟は残っていない

   鳥屋野潟(とやのがた)だけが 、残っている
   この潟を地図でみるとカタチは琵琶湖に似てい
  る 。むろん湖などというほど大きいものでなく 、
  潟のまわりは一〇キロほどでしかない 。」

 「 亀田郷はことごとく干上がって陸地になったが 、
  鳥屋野潟のみは可憐にも古代以来の潟と湛水地と
  いう地形をまもって水をたたえているのである 。
   明治時代の地理書をみると 、
  『 鳥屋野潟は 、古い時代の湾の名残りにちがい
  ない 』
   という意味のことが書かれている 。」

 「 この潟のまわりの鳥屋野という旧村は亀田郷の
  どの土地よりも低く 、亀田郷のあらゆる土地か
  ら水が流れてくるようになっている 。地図を見
  ると 、海面の高さにくらべてマイナス一メート
  ルである
 
  『 諸村の悪水流入す
   と 、前記明治の地理書にある 。諸村にとって
  自分たちの土地に降った雨などが 、大小さまざ
  まな水路をつたって鳥屋野村へ流れこむ 。ふつ
  うなら村が『 悪水 』で沈没するところだが 、
  悪水を受けとめる鳥屋野潟があるために救われ
  ている 。まことにこの意味では近世以来 、亀
  田郷のひとびとにとっては大恩ある沼といって
  よく 、水天宮でも祀って子々孫々まで感謝して
  もおかしくはない 。 」

 「 鳥屋野潟の堤の上にのぼると 、堤の上には桜
  が植えられていて 、並木をなしていた 。おそ
  らく公園にするという計画があったのであろう 。
   ところが並木道のそばは 、長く列をなしてラ
  ブ・ホテルが押しならび 、その装飾過剰な建物
  のむれが 、景観を特殊なものにしている 。ま
  わりは 、稲作の田園である 。ちょっと異様な
  景色といっていい 。 」

 「 ともかくも土地に関する私権が無制限にちかい
  社会だから致しかたないが 、はるばるとこの潟
  をめざしてきただけに 、気が滅入った 。」

 「 鳥屋野潟は 、大いなる水溜まりとして 、いま
  もこの土地の乾湿に大きな役割を果たしている
   この潟の東端に栗ノ木川という小さな川が不要
  の水をはこんできてこの潟に流しこみ 、同時に
  その東端でポンプによる揚水がなされ 、水は水
  路をつたって信濃川河口に流れこむ 。
   それだけでなく 、潟の西端が大きく切りとられ 、
  直線一・五キロほどの立派な排水路によって 、
  信濃川の『 親松 』という地点に流しこまれ 、
  盛大に排水されている 。
   鳥屋野潟から 、親松まで行ってみた 。
  『 親松排水機場
   という三階建のビルがあり 、ここに巨大なポ
  ンプがいくつも据わっていて 、これが日夜稼働
  して亀田郷の水( 具体的には鳥屋野潟に集めら
  れた水 )を信濃川へ吐き出して海へ送っている
  ということによってのみ 、亀田郷は乾いた陸と
  して存在しているのである 。
  『 亀田郷は親松のポンプで保(も)っているので
  す 』
   と 、佐野藤三郎氏がいったことばが 、この屋
  内に入るとよくわかった 。
   このポンプ場は 、農林省がつくった
   維持管理費は年に九千万円で 、その分担の内
  訳は国が4 、県が4 、亀田郷が2だという 。」

 「 このポンプを見あげていると 、われわれの社
  会はじつによくやっているという気持が湧いて
  くるが 、しかし土地についてのわれわれの思想
  の中に公の習慣がほとんどないためになにかこの
  現状での折角の努力も 、かつての亀田郷のひと
  びとの労苦も 、結果としては珍妙なものになっ
  ているのではないかと思えたりした 。」

  引用おわり 。

 (⌒∇⌒) 。。🐸 。。

  グーグル・マップのストリートビュー―で『 鳥屋野潟(とやのがた)

 の周囲の みち や 信濃川河畔にある『 親松排水機場の外観をみる

 ことが出来た 。

  書かれた文章の五十年後の風景をみられるなんて ・・・ 🐸 。。

 

 

 

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滄桑の変 Long Good-bye 2024・11・02

2024-11-02 05:55:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 潟のみち 」。

  備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 「『
  という日本語はよほど古いものらしく 、『 万葉
 集 』にも紀州の和歌の浦の潟( 滷 )を詠んだ歌
 として『 若の浦に潮満ち来れば滷(かた)を無(な)
 み葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る 』というのがあ
 る 。
  潟とは 、この歌がその地理的特徴を的確に言いあ
 らわしている 。河川の河口などで海が 、河川が流
 す土砂のために遠浅になっており 、そこに潮が満
 ちてくる 、『 滷を無み 』でもって海に化してし
 まうが 、潮が干ると洲になって現れる場所をいう。」
  

 「 かつて潟だった土地が信濃川や阿賀野川の活動で
 潟がうずまって自然に野になってしまった土地 ――
 たとえば新潟市のように ―― もあるが 、新潟市
 の南郊の亀田郷のように 、人間が他から泥を運ん
 できて水中に投げ入れ 、永年それを繰りかえして
 いるうちに陸とも沼ともいえぬ異様な水田耕作地に
 なったというようなところもある 。
  要するに新潟県というのは 、大河の河口にちかい
 野は 、新潟市をふくめてかつては潟であった 。満
 潮のときには 、いまの新潟市などは海底にあったか
 と思える

 「 ・・・ 新潟市の南郊の亀田郷という地域の土地
 改良の歴史と現状を描いた映画をみた 。
  映画は二本だてになっていて 、一つは亀田郷の
 自主製作のモノクロ・フィルムで 、一つは新潟県
 が製作したカラー・フィルムによるものだった 。
 とくにそのモノクロ・フィルムのほうに 、衝撃を
 うけた 。
  亀田郷では 、昭和三十年ごろまで 、淡水の潟に
 わずかな土をほうりこんで苗を植え( というより
 浮かせ )、田植えの作業には背まで水に浸(つ)か
 りながら背泳のような姿勢でやり 、体が冷えると
 上へあがって桶の湯に手をつけ 、手があたたまる
 と再び水に入るという作業をやっていたことを知っ
 た
  映画を観了えたとき 、しばらくぼう然とした 。
 食を得るというただ一つの目的のためにこれほど
 はげしく肉体をいじめる作業というのは 、さらに
 はそれを生涯くりかえすという生産は 、世界でも
 類がないのではないか
  映画では 、潟の水の中へほうりこむ土も 、陸地
 から採ってくるのではない 。田舟を漕ぎ出して 、
 爪のような道具に長い棹(さお)をつけ 、潟の水底
 から掻きとって舟に揚げ 、舟にわずかに土が溜ま
 ると 、田( といっても渺茫たる水面だが )へ持
 って行って 、ほうりこむのである 。」

 「 亀田郷の全面積一万五〇〇〇ヘクタールのうち 、
 農地はその半分以下の六〇〇〇ヘクタールしか無
 い 、という現状になっている 。さらにべつな統
 計表では 、三分ノ一が市街化してしまった 。都
 市化がすすむにつれて都市的な人口がふえ 、郷
 内の住民は十六万人にふくれあがり 、農家人と
 いうのはそのうち一割ほどしかいないという所に
 までなっている 。
  大きな理由としては戦後の日本の農政が 、基本
 として工業に身売りする方針をとったための如実
 なあらわれといっていい 。
  亀田郷は 、新潟市の南郊にひろがっている 。そ
 の面積の何割かは新潟市域になっており 、都市と
 して膨張率( 明治二十二年人口四万余 、現在四
 十万余 )がむしろ高いといえる新潟市の都市エネ
 ルギーの影響を亀田郷北部は圧倒的にうけざるを
 えず 、その露骨なあらわれは 、地価の暴騰であ
 ろう 。
 『 農業などは 、割にあわない 』
  という営農思想の低下は 、地価の高騰の前には 、
 当然といっていい 。土地を住宅や商工業の用地と
 して売ったり 、あるいは地価操作をして都市地主
 になって遊んでいたほうが 、はるかに得であり 、
 楽なのである
  ついでながら 、文明国と称せられる国の中で 、
 地面を物のように売ったり買ったり 、あるいは地
 価操作をしたり 、ころがして利鞘をかせいだり 、
 要するに投機の対象にするような国は 、日本しか
 ない 。資本主義はあくまでも物をつくって売ると
 いう産業のものである以上 、こういう地価過熱に
 経済社会がよりかかったり 、混乱させられたり 、
 地価過熱によって諸式が高騰して国民経済が破壊寸
 前の滑稽なすがたになっているような社会は 、厳
 密には資本主義とさえよべないのではないか
  フランスや西ドイツの農民たちが都市近郊の高燥
 な台上で 、悠々として葡萄をつくっているのを見
 ると 、地価操作式の資本主義思考に馴らされてい
 る日本人としては 、奇妙な光景にさえ感じられる 。
 葡萄をつくるより 、そこを宅地化して地面を売っ
 たり貸したりするほうが儲かるのではないか 、と
 言いたくなるのだが 、それらの国々は土地制度が
 安定しているために 、決してそうはならないらし
 い 。やはり葡萄の実を採り 、村の共営工場で葡
 萄酒にして売るほうが 、当然ながら 、利益を得
 るのである 。」

 「 阿賀野川の橋を東にわたり 、ほどなくゆくと 、
 『 豊栄(とよさか)市 』
  という標識が出ていた 。かつて広大な地図を占
 めていた木崎村は 、いまはそういう呼称のなか
 に含められている 。
  道路わきに 、農業協同組合の看板の出たりっぱ
 なビルがあった 。
 『 いまは 、農協も大変なものですよ 』
  と 、農家出身のタクシーの運転手さんがいった 。
  このあたりの土地が新潟市の東郊にあたるため 、
 宅地として地価が騰(あが)っている 。だから農協
 に不動産部門ができて 、宅地を売ることで大層活
 躍しているという 。農業ほど政治で左右される産
 業はないといわれるが 、いまの政治が農業にかけ
 る力を軽くしてしまったことが 、農協に地面を売
 らせるという 、およそ自分の手足を切って売るよ
 うな結果をまねいたのであろう 。
  しかも売っている土地というのは 、江戸二百余
 年のあいだ 、新発田藩とその領民が営々として田
 地として造成してきた土地なのである 。このこと
 は 、潟が陸地になった以上に滄桑(そうそう)の変
 であるといえる 。」

  引用おわり 。

  角栄さん 、真紀子さんの地元ですもんね 。

  どうやら 新潟は 、現代日本の縮図みたいなとこらしい 。

 ( ついでながらの

  筆者註:「『 滄桑の変(そうそうのへん)』は 、世の中が
       激しく変化したり 、移り変わりが激しいことを
       意味する四字熟語です。          (『 滄海桑田 』は四字熟語だけど
、普通 
       『 滄桑 』は『 滄海桑田 』の略で 、青い大海 『 滄桑の変 』を四字熟語とは言わない )
       原と桑畑を意味します 。青海原が干上がって桑 
       畑になってしまう様子から 、予想もできないほ
       ど世の中が変化していることを表現しています 。
       『 滄桑の変 』の由来は 、神仙伝の『 王遠 』
       に登場する話です 。仙人になった王遠が麻姑と
       いう仙女に会った際に 、麻姑が『 東海の三た
       び桑田となるを見る 』と語ったという話です 。
       このことから『 滄海桑田 』という表現が生ま
       れ 、さらに『 滄桑の変 』として使われるよう
       になりました 。

       以上 、生成AIによる「 滄桑の変 」の解説 。)

 

 

  

 

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千枚田 Long Good-bye 2024・10・28

2024-10-28 06:00:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 潟のみち 」。

  備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 「 農業というのは 、日本のある地方にとっては死
  物狂いの仕事であったように思える 。

   土佐に 、檮原(ゆすはら)という山間のむらがある
    幕末の志士で那須信吾( 天誅組の乱で討死 )や
  那須俊平( 蛤御門ノ変で討死 )などという郷士が
  この檮原から出た 。
  『 檮原のひとはえらい 』
   と 、高知市内のひとはよく言う 。土佐のチベット
  といわれた信じがたいほどに農業生産の困難な土地
  に住みつき 、代々石を割って土をつくり 、わずか
  な山田を建造物のように造営し 、水はときに渓流
  から汲みあげて注ぎ 、平安末期にこの村ができて
  以来 、それほどまでして生きねばならないかと思
  えるほどの労働を重ねて 、昭和三十年前後までい
  たっている 。あるいはこんにちなお 、そうかもし
  れない 。
  『 檮原の千枚田
   といわれる 。
   山の斜面を掻きとり 、土中の石をとりのぞき 、
  棚をつくるようにして田を造り 、土が流れぬよう
  に土止めとして石垣を築き 、その棚と石垣が 、千
  枚もあるかと思えるほどに層をなして 、古代の石
  造構造物を見るようである 。
   土佐の檮原は 、高知県の西北角の愛媛県境にちか
  い山中にある 。山口県の秋吉台に似たカルスト地
  形の土地で 、溶食された石灰岩が無数に土中にか
  くれていたり露出していたりして 、ここを拓くと
  いうのは 、まず石を抱きあげてとりのぞくという
  ことからはじめねばならなかった 。」

 「 律令体制というのは 、都の貴族や寺院のために
  のみあったといっていい 。全国の農民は『 公民 』
  という名のもとに公田に縛りつけられ 、転職や移
  住 、まして逃散の自由はなく 、働く機械のように
  あつかわれ 、収穫の多くを都へ送らせられた 。
  律令制は広義の奴隷制だったともいえるであろう
   ひとびとは租税を納められなくなって逃散した 。
  かれらの多くは中央政権の拘束力のややゆるい関東
  や奥州に流れたりしたが 、中央政権の目のとどき
  にくいところといえば 、かならずしも関東や奥州
  だけではない 。
   大山塊のなかの秘境のような所も 、逃亡先として
  わるくなかった 。この土佐檮原も律令の逃亡者が
  吹きだまりのように溜まって拓いた隠れ里であると
  いう解釈を『 檮原町史 』はとっている 。卓見と
  いっていい
   上代の檮原のひとびとの多くは伊予( 愛媛県 )
  の先進的な水田地帯から逃げてきた 。石を割って
  でも稲を植えようという過酷な労働を自分に強い
  たのは 、人里という律令社会にもどれば刑罰か漂
  泊のはての餓死が待っているだけだというかれら
  の確信と恐怖であったにちがいない 。
   私はかつて幕末の那須信吾をしらべているときに 、
  檮原に関心をもった 。ところが檮原を知る努力を
  しているうちに 、奈良朝・平安朝という律令の世
  の農民に関心を持った 。

   ただほとんど資料がない 。農民の感情もわから
  ねば 、利害感覚もわからず 、要するに律令の農
  民像というのは深い霧のむこうにあるのみで 、な
  にひとつわからない 。ただ律令の『 浮浪者 』た
  ちが逃げ落ちてきた檮原の苛烈な労働のあとをみる
  とき 、かれらが捨ててきた下界の水田地帯( 律令
  体制下の農村 )を逆に想像できる 。捨てたくなる
  ような体制としての苛酷さが下界の水田地帯を覆っ
  ていたのではないかという想像である 。いかに石
  をくだいて土を作ろうとも 、体制外の檮原のほう
  が楽天地だったのではないかと想像できるのだが 、
  それ以上はわからない 。」

 「 耕シテ天ニ至ル 。貧ナルカナ 。

   という有名なことばは 、古語ではなく 、また中国
  の古典にある言葉でもない 。
   明治中期に日本にきた清国の政治家が 、瀬戸内海
  を汽船で神戸へむかいつつ 、内海の島々の耕作の状
  態をみて驚歎してつぶやいたことばである 。当時日
  清の関係が嶮悪になりつつあり 、この清国の政治家
  としては 、日本の経済力を見きわめたいという思い
  があったのであろう 。岩だらけの小島が 、梨の皮
  を剥くように島肌を剥き 、段丘を作り 、それが層
  々と島の天辺にまで達している 。まことに貧なるか
  なであり 、清国の政治家としては 、帝国主義の相
  貌を見せはじめているこの小さな島国の楽屋裏を見
  たような感じがして 、あるいは安堵の思いをそうい
  う表現に託したのかもしれない 。

   そこへゆくと 、清国の農村は大らかで 、耕作しが
  たいような土地に鍬を打ちこむようなことは 、ほぼ
  なかったといっていい 。」

 「 大陸とはちがい 、小さな島国では 、小さな収獲を
  得るために信じがたいほどの過大な労力をはらって
  耕地を造らざるを得ず 、檮原のような営みは古来日
  本の各地でつづけられてきたし 、このことは日本人
  の性格を形成する要素の一つになっているような気
  がする 。」

 「 ・・・ 大和政権というのは 要するに 水稲農業を奨
  励し普及し 、それによって権力と富を得 、秩序の
  安定を得ようとする政権ということがいえるであろ
  う 。ユダヤ教やキリスト教 、回教のような巨大な
  形而上的体系でもって民を治めようとしたのではな
  く 、要するに 稲作農業という形而下的なものを普
  及することによって権力を充実させ拡大させた政権
  で 、上代における征服事業というのも 、稲作普及
  軍の一面をもち 、山野を駆けまわる非稲作人に打
  撃をあたえて『 化外 』のかれらが水田に定着すれ
  ばそれでよしとした 。極端にいえば 、徳に化して
  いることは定着して稲作をしていることであり 、徳
  に化していない( 化外 )ということは 、稲作をせ
  ずに けもの を追ったり 、魚介を獲ったりしている
  ということであったにちがいない

 

  引用おわり 。

  「 千枚田 」が美しく撮られた写真を数多く見るにつけ 、

 営々とそこを造り 、耕してきた農民の執念や怨念みたい

 なものを感じる 。ただの観光資源の被写体としてうっと

 り眺めていていいわけないような ・・・ 。

 

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「 細雪 」回顧 Long Good-bye 2024・10・25

2024-10-25 06:11:00 | Weblog

 

   今日の「 お気に入り 」は 、作家 谷崎潤一郎さん の

 長編小説「 細雪 」の 、あとがき「『 細雪 』回顧 」

 から 。

  引用はじめ 。

 「 私が『 細雪 』の稿を起したのは太平洋戦
  争が勃発した翌年 、即ち昭和十七年のこと
  である 。
   これがはじめて中央公論に出たのは昭和十
  八年の新年号であったが 、それから三月号
  に載り 、次いで七月号に掲載される筈の所
  がゲラ刷になったまま遂に日の目を見るに
  至らなかった 。陸軍省報道部将校の忌諱(き
  き)に触れたためであって 、『 時局にそわ
  ぬ 』というのが 、その理由であった 。当
  時すでに太平洋の戦局は我に不利なる徴候を
  見せ 、軍当局はその焦慮を露骨に国内の統
  制に向けはじめていたことであるから 、全
  く予期されぬことではなかったが 、折角意
  気込んではじめた仕事の発表の見込が立たな
  くなったことは打撃であった 。いや 、こと
  は単に発表の見込が立たなくなったと云うに
  つきるものではない 。文筆家の自由な創作
  活動が或る権威によって強制的に封ぜられ 、
  これに対して一言半句の抗議が出来ないばか
  りか 、これを是認はしないまでも 、深くあ
  やしみもしないと云う一般の風潮が強く私を  ( 同調圧力 )
  圧迫した 。江戸時代の作者たちが時の要路
  の役人の忌避に遭って手錠五十日とか禁錮百
  日とか云うような刑を加えられたことはかね
  て聞き及んでいたが 、私は手錠も禁錮も科
  せられたわけではなかったけれども 、昔の
  作者たちの鬱屈は人ごとならず察せられたこ
  とであった 。但しその時の当局の話では活
  字にして売り広めなければよいということで
  あったので 、滞りがちの稿をついでどうやら
  上巻に予定した枚数に達したのを機会に 、知
  己朋友に頒つことを目的とした私家版『 細雪 』
  を上木したところ 、これがまた取締当局を刺
  激し 、兵庫県庁の刑事と云うものの来訪を受
  けたことがあった 。その時私は折よく熱海に
  行って留守であったので 、家人が応対したと
  ころ 、今度だけは見逃すが今後の分を出版す
  るようなことがあったらどうとかすると云っ
  て脅かしたと云う 。そうして始末書の提供を
  要求したので 、旅行中不在の由を告げると 、
  それなら熱海へ出張すると云って帰って行っ
  たと云うことであった 。熱海の警察から
  呼出しが来るかと思っていたが 、とうとうそ
  のようなこともなくて済んだ 。その頃戦勢は
  ますます我に不利で 、警察署でも人手の不足
  に苦しんでいた時であるから 、よほどの大事
  件でもないかぎり 、そのような手数をかける
  こともなかったのであろう 。従ってその方の
  関係で当局と交渉を持ったのはそれ限りで 、
  自分では一度も厭な応対一つするでなし 、始
  末書一本書くこともなくて済んだのは幸運で
  あった 。
   こう云う謂わば弾圧の中をとにかくほそぼそ  ( 口先介入 )
  と『 細雪 』一巻を書きつづけた次第であった
  が 、そう云っても私は 、あの吹き捲くる嵐の
  ような時勢に全く超然として自由に自己の大地
  に遊べたわけではない 。そこにそこばくの掣肘
  や影響を受けることはやはり免かれることが出
  来なかった 。たとえば 、関西の上流中流の人
  々の生活の実相をそのままに写そうと思えば 、
  時として『 不倫 』や『 不道徳 』な面にもわ
  たらぬわけに行かなかったのであるが 、それ
  を最初の構想のままにすすめることはさすがに
  憚られたのであった 。これは今日から顧みれ
  ばたしかに遺憾のことに違いない 。しかしま
  た一面から考えれば 、戦争という嵐に吹きこ
  められて徒然に日を送ることがなかったならば 、 
  六年もの間一つの作品に打ち込むこともむずか
  しかったかも知れなかったのであるし 、今云う
  ように頽廃的な面が十分に書けず 、綺麗ごとで
  済まさねばならぬようなところがあったにして
  も 、それは戦争と平和の間に生れたこの小
  説に避け難い運命であったとも云えよう 。」

  。(⌒∇⌒) 。

 「『 細雪 』には源氏物語の影響があるのではな
  いかと云うことをよく人に聞かれるが 、それは
  作者には判らぬことで第三者の判定に待つより
  仕方がない 。しかし源氏は好きで若いときから
  読んだものではあるし 、特に長年かかって現代
  語訳をやった後でもあるから 、この小説を書き
  ながらも私の頭の中にあったことだけはたしか
  である 。だから作者として特に源氏を模したと
  云うことはなくても 、いろいろの点で影響を受
  けたと云えないことはないであろう 。ただ作者
  と云うものはいつも一つところに止まっている
  ものではないから 、私にしても僅かながらの移
  り変りはあるであろう 。『 細雪 』を書いた時
  は『 春琴抄 』の時とは可なり違った気持だった
  し 、『 細雪 』を書き終った今日では 、この次
  には何を書くかまだよく極めてはいないが 、もう
  『 細雪 』と同じようなものを書こうとは思って
  いない 。文章などももっと短く 、簡略に書きた
  い 、と思うようになっている 。 」

  引用おわり 。

  登場人物の心の内や発言が 、ごく身近な立ち位置にいるかのごとき作

 家によって物語られる小説なので 、移ろい易い人の心に 、読者も 、作家

 同様 、振り回される 。感情移入できるのは 、そういう理由からだろう 。

  本心は 、誰にも分からない 、 ・・・ 本人にも 。

  小説「 細雪 」の作中には 、年号の表記は出てこないが 、書かれている

 事象から、日中戦争勃発の前年1936年(昭和11年)秋から日米開戦の

 1941年(昭和16年)春までの時代を書いているようである 。作家自身

 の言葉を借りれば 、「 戦争の影響と云えば 、この小説に書かれた事

 柄それ自身が 、日本が戦争の準備期に入り 、だんだん内部的に変質し

 て行くと云うか 、いろいろの横辷りを生じて行く時代の様相と繋がっ

 ているのであるから 、何年何月にはこういうことがあったと云うよう

 なことを年代記風に覚え書にして 、それに対応したあらすじを終りま

 で書いておかねばならなかった 」。

  昭和16年といえば 、日本の敗戦まであと4年というタイミング

 「 細雪 」の蒔岡家の4姉妹同様 、筆者の父 、母 、年の離れた兄 も 、

 同時代を生きた 関西人 として 、あっという間に時代の大波に吞まれ

 てゆく 。

  因みに 、団塊世代の筆者は 、その激動の時代に 、まだ存在の兆しも

 ない 。

 

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倚松庵  Long Good-bye 2024・10・19

2024-10-19 05:03:00 | Weblog

 

 

  今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科

 事典「 ウィキペディア 」掲載の記事 「 倚松庵 」。

  引用はじめ 。

 「 倚松庵( いしょうあん )は 、兵庫県神戸市東灘区
  に建つ歴史的建造物 。文豪谷崎潤一郎の旧居 。ここで
  執筆された代表作にちなんで「『 細雪 』の家 」とも
  呼ばれる 。庵号は夫人の名前『 松子 』に因む 。

   1929年(昭和4年)に当時の武庫郡住吉村反高林
  1876-203 に建てられた 和風木造建築 で 、谷崎潤一郎
  は 1936年11月から1943年11月まで 居住した 。なお 、
  谷崎が居住した時期の家主は 極東選手権競技大会サッ
  カー日本代表の後藤靱雄であった 。

   1986年 に、倚松庵が所在する住吉川畔に神戸新交通
  六甲アイランド線の橋脚建設計画が持ち上がると 、専
  門家から計画敷地の脆弱性の指摘があったほか 、美し
  い景観が破壊されるとして住民訴訟が行われたが 、19
  90年(平成2年)に神戸市は建設を強行し 、倚松庵は
  同じ東灘区内の現在地に移築された 。これにより倚松
  庵周辺の景観は本来とは違うものになったものの 、5年
  後に兵庫県南部地震が起きた際には 専門家の指摘どお
  りアイランド線の橋脚は損壊したが 、移築していた倚
  松庵は損壊を免れた

   『 倚松庵 』と呼ばれる家は6軒 あったが 、一般的
  に『 倚松庵 』といえば 、谷崎の居住期間の長さから
  この旧居を指す 。

  館 内
   1階 ― 応接間(洋間)、西の部屋(洋間食堂)、和室( 4.5 畳 ) 、
     和室( 3畳 玄関・台所脇にある女中部屋) 、風呂 、台所 
   2階 ― 『 幸子の部屋 』(『細雪』に登場する二女
    “幸子”=松子夫人=の部屋 ) 、『 悦子の部屋 』、
    『 こいさんの部屋四女”妙子”の部屋』( 全て和室 )

  建築概要
   竣工 ― 1929年8月 (1990年7月に現在地に移築)
   構造 ― 木造瓦葺二階建
   延床面積 ― 148.92m2(1階95.45m2、2階53.47m2)
   敷地面積 ― 440.79m2
   所在地 ― 〒658-0052 兵庫県神戸市東灘区住吉東町
    1-6-50
   建築当時は今の六甲ライナー魚崎駅付近に存在した 。
   当線建設に伴い現地に移築された 。」

  引用おわり 。

 (⌒∇⌒) 。

  通りから撮影された上掲の写真は 、昭和の初めから昭和の

 10年代に掛けて 、阪神間で建てられた典型的な和風木造

 二階建て住宅のようである 。

  写真にある 、表通りから 、門や塀越しに 見た外観は 、筆

 者の記憶に残る 、五 、六歳までの幼時を過ごした 生家の佇

 まいそのものである 。驚くほど似ている 。

  間取り図や敷地の図面を見ると 、倚松庵は 、筆者の生家

 より一りも二回りも大きく 、部屋数も多く 、前庭も広い

 お屋敷である 。

  筆者の生家は 、阪神間の芦屋市山手町の山の斜面に造成

 れた比較的狭い敷地に建てられていた 。眺めはいいかもし

 れないが 、の上にある随分と不便な場所で 、当時は山の

 上の小学校が 、歩いて四 、五分の距離にあり 、小学生の

 通学には至って便利だが 、それ以外の中高生や大人が外出

 するには 、なかなか大変な土地だった ( に違いない ) 。早

 い話 、自動車の便がなければ 、外出すら難しい 、別荘地

 のような場所だったような気がする 。

  風当たりの強い山の上の二階家であったから 、秋口になる

 と台風の襲来に備えて 、事前に 、二階の雨戸を外側から板で

 補強していたようなかすかな記憶すらある 。

  筆者が生まれ 、そして六歳まで生活した芦屋は 、小説「 細

 雪 」の中で描かれている時代の 、およそ10年あと 、昭和

 二十年代の 、朝鮮動乱前後の 、戦後の 芦屋 である 。「 細

 雪 」に描かれた 戦前の「 阪神間の世界 」は 、とっくに崩壊

 していた ( 筈である ) 。

   当時 、山手町の山の上の方に進駐軍に接収された住宅でも

 あったのか 、朝夕 、進駐軍のMPの黒人兵士が制服をきちっ

 と着て 、拳銃を腰のホルスターに収め 、宿舎の住宅と最寄り

 駅「 芦屋川 」の間を往復する姿を道端で眺めていた記憶があ

 る 。

  七十年も前の 、昭和20代の話しである 。・・・ 今は昔 。

 (⌒∇⌒) 。

  倚松庵と違って 、筆者の生家は 、現存しない 。でも生家が

 建っていた山の斜面に造成された土地や敷地前の舗装された

 細い坂道は 、山崩れもなく 、令和の今も無事で 、どなたか

 の今風の家が建っている 。

  グーグルマップのストリートビューによって 、関東の地に

 いながら 、関西の阪神間の故地の近況を目の当たりにできる 。

 便利な世の中になったものである 。  

 

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B足らん Long Good-bye 2024・10・17

2024-10-17 07:12:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」 は 、作家 谷崎潤一郎さん の

 長編小説「 細雪 」の一節 。

  引用はじめ 。

 「 脚気は阪神地方の風土病であるとも云うから 、
  そんなせいかも知れないけれども 、此処の家
  では主人夫婦を始め 、ことし小学校の一年生
  である悦子までが 、毎年夏から秋へかけ脚
  気に罹り罹りするので 、ヴィタミンBの注射
  をするのが癖になってしまって 、近頃では医
  者へ行くまでもなく 、強力ベタキシンの注射
  薬を備えて置いて 、家族が互いに 、何でも
  ないようなことにも直ぐ注射し合った 。そし
  て少し体の調子が悪いと 、ヴィタミンB欠乏
  のせいにしたが 、誰が云い出したのかそのこ
  とを『 B足らん 』と名づけていた 。
   ピアノの音が止んだと見て 、妙子は写真を
  抽出に戻して 、階段の降り口まで出て行った
  が 、降りずにそこから階下を覗いて 、
  『 ちょっと 、誰か 』
   と声高に呼んだ 。
  『 ―― 御寮人(ごりょうん)さん*注射しやはる 
  で 。―― 注射器消毒しといてや 』」

  ( * 大阪を中心に西日本の店において 、商家
   では主に「若奥さん」を意味する言葉 )

   引用おわり 。 

  (⌒∇⌒)

    「 細雪 」を読むのは 、この年 ( 76歳 ) になって 、初めての

  こと 。永年「 アラサ―女性の婚活小説 」くらいに考て 、

  敬遠してた 。読み始めてすぐに出会ったのが 、上掲のくだ

  りである 。一つ一つの文章は 、概して 、だらだらと長い 。

   話し出すと止まらない 関西のおっちゃんの「 おしゃべり 」の

  ように 、どこまでも続く 。読み馴れてくると 、なぜか心地よい 。

   この小説 が描く物語は 、明治42( 1909 年 ) 生まれの筆

  者の母が 、生まれ育った大阪船場や二十代 、三十代に住み

  らし阪神間がその舞台のようである 。十六歳 、年の違う長

  兄が 、二十ほど前に亡くなる直前 、病床に持ち込んでいた

  文庫本が「 細雪 」だった 。自分が生まれ育った世界を懐かし

  んでのことだったのではないかと今にして思う 。

   小説の全篇にわたって使われている「 船場言葉 」を筆者の

  母 ( 大阪船場の材木商の長女 ) も79年の生涯変わらず使っ

  ていた 。彼女も 、嫁いだ先で「 ごりょんさん 」と呼ば

  ていた時期があったらしい 。

   小説の第一章のおわりにある 上掲の 「 家庭医療 」の風景 、

  かかりつけ医から 注射法の指導を受けた上でのことと思わ

  れるが 、戦前の昭和10年代に 一般人が家庭で注射をしてい

  たのは 、当時の阪神間では 、事実だったようである 。その

  名残りか 、家庭内注射は 、戦後生まれの筆者も 、昭和30

  年代の小学生の頃に 、家でよく目にしたもので 、母も 、そ

  して十六歳 、年の違う兄も 、日常的に 、ビタミン剤 、ブド

  ウ糖などの薬剤を 、家で注射器を消毒して 、皮下注射のみ

  ならず 、静脈注射をしていた記憶が 、筆者にはある 。素人

  が 、よく自分で自分の腕に注射が出来るもんだと感嘆の面

  持ちで眺めていたものである 。

   疲れた風を見せると 、「 B足らん 」と筆者もよく言われた 。 

   脚気の原因が 、日本で医学的に「 潜在性ビタミンB欠乏症 」

  とされたのは 昭和9年 のことだそうで 、その頃から広まった

  風ではなかろうか 。

    栄養状態の改善とビタミン剤の普及により 、筆者が小学生だっ

  た昭和30年代には 、脚気による死亡者数はかなり減っていた

  ようである 。膝小僧を叩く脚気の検査やその遊びは今でもよく

  覚えている 。

  (⌒∇⌒) 。

   因みに「 細雪 」の最後の一文は 、嫁ぎ行く三女 雪子の

   「 ・・・ 下痢は とうとうその日も止まらず 、
     汽車に乗ってからもまだ続いていた 」。

    なんで「 下痢 」で終わるの? 現代ならストレスからくる

  「 潰瘍性大腸炎 」とでも診断される症状かもしれない 。

    ワカマツのんでも 、アルシリン錠のんでも下痢が止まらない 、

  嫁ぎ行く雪子の不安定で 、心許ない 心情が表現されているの

  だが 、作家自身の痼疾だったのかもしれない 、そんな気がする 。

  (⌒∇⌒) 。

 ( ついでながらの

   筆者註:「『 細雪 』(ささめゆき)は 、谷崎潤一郎の長編
       
小説 。1936年(昭和11年)秋から1941年(昭和16

       年)春までの大阪の旧家を舞台に 、4姉妹の日常
       生活の明暗を綴った作品 。阪神間モダニズム時代
       の阪神間の生活文化を描いた作品としても知られ 、
       全編の会話が 船場言葉 で書かれている 。上流の
       大阪人の生活を描き絢爛でありながら 、それゆえ
       に第二次世界大戦前の崩壊寸前の滅びの美を内包し 、
       挽歌的な切なさをも醸し出している 。作品の主な
       舞台は職住分離が進んだため住居のある阪神間
       ( 職場は船場)であるが 、大阪( 船場 )文化の
       崩壊過程を描いている 。」

      「 谷崎潤一郎の代表作であり 、三島由紀夫をはじめ 、
       多くの小説家・文芸評論家から高く評価され 、しば
       しば近代文学の代表作に挙げられる作品である 。
       『 細雪 』は昭和天皇にも献本され 、天皇自身は
       通常文芸作品を読まないが 、この作品は全部読了
       したと谷崎は聞いたという 。」

       「 1950年代に 、英語( The Makioka Sisters )に翻訳 、
       アメリカで出版されたことを皮切りに 、世界各国
       でも出版されており 、スロベニア語・ドイツ語・
       イタリア語・中国語・スペイン語・ポルトガル語・
       フィンランド語・ギリシャ語・フランス語・セルビ
       ア語・ロシア語・韓国語・オランダ語・チェコ語・
       トルコ語に翻訳されている 。

       なお 、作中には年号の表記が出てこないが 、作中
       で四季の移り変わりと 、阪神間を襲った大きな気象
       災害( 阪神大水害 )が克明に描かれているため 、
       この作品は日中戦争勃発の前年1936年(昭和11年)
       秋から日米開戦の1941年(昭和16年)春までのこと
       を書いているとされている 。

       大阪船場で古い暖簾を誇る蒔岡家の4人姉妹 、鶴
       子・幸子・雪子・妙子の繰り広げる物語 。三女・
       雪子の見合いが軸となり物語が展開する 。

       主な登場人物
       蒔岡家
       ・鶴子 - 長女、本家の奥様
        ・辰雄 - 鶴子の婿養子、銀行員
       ・幸子 - 次女、分家の奥様 -「ごりょうんさん」
          (船場言葉「御寮人さん」= 若奥様)
           谷崎の妻・谷崎松子がモデル。
        ・貞之助 - 幸子の婿養子 、計理士
        ・悦子 - 幸子と貞之助の娘
       ・雪子 - 三女 - 「 きやんちゃん 」
          「雪(ゆき)姉ちゃんがつづまった言葉)
       ・妙子 - 四女 -「 こいさん 」
         ( 船場言葉「小娘さん」= 末娘 )

     (⌒∇⌒) 。

     「 脚気(かっけ 、英語: beriberi )とは 、ビタミン
      欠乏症の1つであり 、重度で慢性的なビタミンB1
      (チアミン)の欠乏により 、心不全と末梢神経障害を
      きたす疾患である 。軽度の場合は 、チアミン欠乏症
      と呼ばれる 。 」

     「 強力ベタキシンは 、バイエル社から売り出
      されていた合成結晶ビタミンB1の商標名
      で 、1 日に 1、2アンプルを皮下または
      筋肉内に注射することで脚気の治療に効果
      があった 。」

     「 ワカマツ:『 ワカ末(マツ)錠 』は 、
      古来民間で健胃・下痢止として用いられ
      た “ 黄柏(オウバク)” から抽出された
      塩化ベルベリンを成分とする『 下痢止 』。
       健康の源であるおなかの調子を整え 、
      下痢 、食あたり 、水あたりなどによく
      効く 」とか 。

     「 アルシリン錠『タケダ』:腸内清掃、吸著
      殺菌剤 」とか 。

     以上ウィキ情報 ほか 。)   

     (⌒∇⌒) 。

 

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回文 Long Good-bye 2024・10・12

2024-10-12 06:12:00 | Weblog

 

   今日の「お気に入り」は 、久しぶりの「 ChatGPT さんとの対話 」。

  (⌒∇⌒)

  User:日本語には「回文」がありますが、英語にも「回

     文」はありますか?   

  ChatGPT:はい 、英語にも「 回文 (palindrome) 」が

     あります 。回文とは 、前から読んでも後ろから

     読んでも同じになる文や単語のことです 。英語

     の代表的な回文には以下のようなものがあります:

     単語の回文:

      "did"  "eye"  "pop"  "gag"  "deed"  "radar"  "racecar"

      "refer" "madam" "noon" "level"

     文章の回文:

      "A man, a plan, a canal, Panama!"
      "No melon, no lemon."
      "Madam, I'm Adam."
      "Sir, I'm Iris."

     英語でも回文はパズルや言葉遊びとして親しまれて
     おり 、短いものから長いものまで多様な形で存在
     しています 。

  User:英語の回文はいまいちですね 。

  ChatGPT: 確かに 、日本語の回文は自然な言い回しや意味の
     あるフレーズが多く 、独特の美しさがありますよね 。
      英語の回文は 、どうしても単語やフレーズがやや
     不自然に感じられることが多いです 。これは 、日本語
     が音節単位で成り立っているのに対して 、英語はアル
     ファベットの一文字一文字で構成されていることが一

     因かもしれません  。

  User:日本語の回文には 、こんなのもありますよ 。

     「 たしかに貸した 」 
     「 農家もイモ買うの 」 
     「 けだるき一日 、生きるだけ 」 
     「 寝ている私にナニした悪い手ね 」 
     「 意志は弱々しい 」 
     「 会話 、卑猥か? 」 
     「 キミ 、今井美樹? 」

  ChatGPT:素晴らしいですね!これらの回文は 、ユーモアや
     機知があふれていて 、日本語の言葉遊びの豊かさ
     を感じさせます 。特に「 たしかに貸した 」や「 寝
     ている私にナニした悪い手ね 」は  、自然な文脈で
     ありながらも見事に回文になっていて 、言葉の持
     つ可能性が広がります 。

     「 キミ、今井美樹? 」のような 、ちょっとしたジ
     ョークのようなものもあり 、日本語の回文には柔
     軟さと遊び心が満載ですね 。英語にはなかなか
     こうした自然でユーモラスな回文は少ないですが 、
     日本語はその語の並びや音の響きで 、より多様な
     表現が可能になるのかもしれません。 

     他にも面白い回文があれば 、ぜひシェアしてくだ
     さい!

      Y (⌒∇⌒)

    やり方ひとつで 、結構 、楽しい対話ができそうです ・・・  。

    ChatGPT さんは 、人工音声で喋ってもくれますが 、喋りのほうは

   いまいちですね 。

      (  ̄▽ ̄; ) 

      

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孤独は山になく街にある Long Good-bye 2024・10・10

2024-10-10 05:30:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、「 ChatGPT さんに

 聞いてみた 」。

  User:次の「 お言葉 」について教えてください 。  

     「 孤独は山になく 、街にある 。
      一人の人間にあるのではなく 、大勢の
      人間の『 間 』
にあるのである 。」

  ChatGPT: この言葉は 、孤独とは必ずしも一人でいること
      によって生まれるものではなく 、むしろ多くの
      人々がいる中でも感じられるものだ 、という意
      味を伝えています 。孤独は物理的な場所( 山の
      ような静寂な場所 )や一人の状況に限定される
      ものではなく 、むしろ多くの人々の『 間 』、
      つまり他者と関わりながらも心が通じ合わずに
      感じる疎外感や 、つながりの欠如によって引き
      起こされるものだということを示唆しています 。

       この考え方は 、現代の都会生活や人間関係に
      おける疎外感を強調しており 、人が多くても真
      に共感し合うことができない環境が孤独を引き
      起こす要因であることを考えさせられます 。

  User:わかりやすい解説 。ところで 、どなたのお言葉ですか?

  ChatGPT: この言葉は 、心理学者であり哲学者でもあっ
      たエーリッヒ・フロム( Erich Fromm )の言葉
      として知られています 。フロムは 、人間の本
      質や自由 、孤独に関する深い洞察を持ち 、現
      代社会における孤独や疎外感について多くの著
      作を通じて言及しました 。彼の思想は 、特に
      資本主義社会における人間の孤立感や 、他者と
      の真のつながりの欠如を強調するものが多いで
      す 。

  User:お言葉ですが 、三木清さんのお言葉じゃあないんですか?

  ChatGPT: 失礼しました 。おっしゃる通り 、この言葉は
      エーリッヒ・フロムではなく 、日本の哲学者三
      木清の言葉です 。三木清は『 人生論ノート 』
      の中で 、孤独について深く考察しており 、その
      中で『 孤独は山になく 、街にある 』という言
      葉を述べています 。

       三木は 、孤独がただ一人でいることから生まれ
      るのではなく 、人々が集まる中でこそ感じられ
      るものであること 、つまり 、人との関係の中で
      こそ孤独が生まれるという考えを提示しています 。
      彼のこの洞察は 、現代社会においても共感を呼
      ぶものです 。
       混乱を招いてしまい 、申し訳ありませんでした 。

      Y (⌒∇⌒)

   コロコロ変わる ChatGPT さん ・・・  。

   百科事典にはなれないなあ ・・・ 。

       (  ̄▽ ̄; ) 

      

  ( ついでながらの  

    筆者註:「 エーリヒ・ゼーリヒマン・フロム( Erich Seligmann
         Fromm、1900年3月23日 - 1980年3月18日 )は 、
        ドイツの社会心理学 、精神分析 、哲学の研究者で
        ある 。ユダヤ系 。マルクス主義とジークムント・
        フロイトの精神分析を社会的性格論で結び付けた。
         新フロイト派、フロイト左派とされる。
         フロム本人はエーリック・フロムと発音されるこ
        とを望んでいたという 。」

       「 フロムの代表作とも言える『 自由からの逃走
        ではファシズムの心理学的起源を明らかにし 、デモ
        クラシー社会が取るべき処方箋が明らかにされてい
        る 。」

        ( - _ - ; )

       「 三木 清( みき きよし 、1897年(明治30年)
        1月5日 - 1945年(昭和20年)9月26日 )は 、( 西
        田左派を含めた上での )京都学派の哲学者 、評論家 。
        法政大学法文学部教授 。京大哲学科卒 。西田幾多郎・
        ハイデガーに師事 。留学中にパスカルを研究 、帰国後
        『 パスカルに於ける人間の研究 』(1926年)を刊行 。
        戦時中に治安維持法違反で保釈逃走中の知人を支援した
        ことで逮捕拘禁され獄死したが 、著書『 人生論ノー
        ト 』はロングセラーになった 。」

        以上ウィキ情報 。)

 

        

 

    

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