今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の
「 街道をゆく 9 」の「 播州揖保川・室津みち 」。
今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に
連載されたもの 。
備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。
引用はじめ 。
「 播州については『 播磨灘物語 』を書いている
ころ 、あちこちとあるいた 。
もっともこの小説は 、主として東播の三木や西
播の姫路付近が舞台だったので 、歩くについて
も 、ついそのあたりにかぎられた 。たとえば
因幡(いなば)とのさかいにつづく宍粟(しそう)郡
の山崎までは行っていない 。
そのころ 、山崎に行っていないことが絶えず気
になっていた 。」
「 山崎は 、三木や姫路のように播州平野の真只中
にある集落ではない 。因幡や但馬(たじま)の山
なみが播州の宍粟郡にまで南下し 、山崎で尽き
る 。山崎という地名は 、京都府の山崎もそうだ
が 、おそらく山なみの先端という地勢から出た
ものに相違ない 。
『 播磨灘物語 』という小説は 、西播の土豪だっ
た黒田官兵衛が主人公になっている 。かれは 、
父祖以来の城として姫路城を持っていたが 、その
後徳川期にできた姫路城からみれば 、屋根なども
わらや板などでふき 、石垣もほとんど用いず 、
堀を掘った土を掻きあげて土塁にした程度の 、い
わば小屋同然といっていいほどに規模が小さかっ
た 。
織田勢力が播州まで伸びたときに 、播州の大小
の勢力はこれをきらい 、毛利・本願寺方についた
が 、官兵衛は四面ことごとく敵という政治的惨境
のなかにあって織田方に与(くみ)し 、信長の代官
である羽柴秀吉に属するという思いきったカード
を選んだ 。中世末期の人としての官兵衛のおもし
ろさはこのことにすべてを賭けて 、たじろがなか
ったことである 。自分の個人的信念をあくまでも
持しぬくという点では 、日本の歴史のなかではめ
ずらしい存在といっていい 。かれは自分の累代の
居城である姫路城まで秀吉にくれてしまい 、かれ
自身は住まいがないまま 、家族と家臣をひきい 、
姫路の北方十里の山里である山崎に移った 。自分
の賭けに対するこれほど思いきった忠実さとか 、
あざやかな見きわめといった感覚は 、ひとつには
官兵衛の祖父が商人( 目薬の委託販売 )であった
ことからも来ているといってよい 。この点 、かれ
は江戸期の武士や文人よりはるかに強烈な合理主義
をもっていたといっていい 。」
「 私は官兵衛が一時期居城とした山崎の土地に行っ
てみねばと思いつつ 、ついに行かなかった 。か
つて姫路へ行ったとき今度こそは行ってみようと
想い 、タクシーの運転手に所要時間を聞いてみる
と 、思ったより長い時間だったため 、どうも体
力に余裕がないと思い 、やめた 。そういうまわ
りあわせになっている土地が 、私には幾つかある 。
この須田画伯との旅で 、播州山崎へ行ってみよ
うとおもった 。」
「 山崎の盆地には 、北方の山間部から幾筋かの川
が流れこんでいる 。それが盆地で合流して揖保(い
ぼ)川になり 、大きく南流して播州平野を沾(うる
お)しつつ播磨灘にそそぐ 。途中 、脇坂氏の旧城
下町の龍野を洗ってゆくのだが 、海へそそいでい
るあたりに 、日本でもっとも古い舟泊(ふなどまり)
である室津(むろつ)がある 。このために 、この稿
の道中は 、山崎から出発することにした 。以下 、
川に沿って龍野の古格な町を経 、室津に出 、その
あたりに鄙(ひな)びた宿でもあれば泊ろうとおもっ
た 。」
引用おわり 。
語りの名人の達意の文章 。
(⌒∇⌒) 。。
( ついでながらの
筆者註:「『播磨灘物語』(はりまなだものがたり)は 、
司馬遼太郎の歴史小説 。1973年5月から1975年
2月にかけ 、『 読売新聞 』に連載された 。
豊臣秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛( 孝
高 、如水 )の生涯を描く。友人として竹中半兵
衛も描かれる 。」
以上ウィキ情報 。)