「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

一に足腰 、二に文体 Long Good-bye 2024・12・26

2024-12-26 05:18:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、作家の村上春樹さんが 、

 1994年か1995年頃に書かれたエッセー「 うず

 まき猫のみつけかた 」( 新潮文庫 )の中の一節 。

  引用はじめ 。

 「 ところで 世間には作家に対するステレオタイプな
  思い込みのようなものがあって 、今でも多くの人
  は 、作家というものは毎日のように夜更かしをし
  て 、文壇バーに通って深酒を飲み 、家庭なんか
  ほとんど省みず 、持病のひとつやふたつは抱えて
  いて 、締切が近くなるとホテルで缶詰になって髪
  を振り乱している人種だと信じているみたいだ 。
  だから僕が『 夜はだいたい十時に寝て 、朝は六時
  に起きるし 、毎日ランニングをして 、一度も締切
  に遅れたことはない 』と言ったら 、しばしばがっ
  かりされる( 更に言えば 、二日酔いと便秘と頭痛
  と肩こりは生まれてからほとんど一度も経験がな
  い ) 。そんなことを言われると 、その人の中にあ
  る作家の神秘的イメージが がらがらと壊れてしまう
  らしい 。申しわけないとは思うけれど 、しかたな
  いですね 。
   でも世間に流布しているそのような破滅的作家像
  は 、『 ベレー帽をかぶった画家 』とか『 葉巻を
  くわえた資本家 』とおなじくらいのレベルの 、リ
  アリティーを欠いた幻想であって 、実際にみんな
  がそんな自堕落な生活をしていたら 、作家の平均
  年齢はたぶん五十代まで下がってしまっているはず
  だ 。まあ 中にはそういうタイプのワイルドかつカ
  ラフルな生き方を傾向的に好む方 、あるいは果敢
  に実践なさっておられる方もいらっしゃるかもしれ
  ないが 、『 私小説 』という 、実生活をいわば切
  り売りする小説スタイルが主流を占めていた昔のこ
  とはいざ知らず 、僕の知っている昨今の大方の職
  業作家はそんな荒っぽい生活は送っていない 。
  説を書くというのは 、だいたいにおいて地味で寡
  黙な仕事なのである 。」

  引用おわり 。

  ところで 、ボストンマラソンに何度も出場されている

 村上春樹さんのエッセーには 、「 ところで 」で はじ

 まるこんな文章もある 。

  引用はじめ 。

 「  ところでマラソンというのは 、ある意味ではか
  なり不思議な体験である 。これを経験するのとし
  ないのとでは 、人生そのものの色彩もいくぶん変
  わってしまうんじゃないかという気がするくらい
  である 。宗教的体験とまでは言わないけれど 、
  そこには何か深く人間存在にコミットするものが
  ある 。四十二キロを実際に走っているときは『 ま
  ったくなんで好きこのんでこんなひどい目にあわな
  くちゃいけないんだ 。こんなことをしたっていい
  ことなんか何もないじゃないか 。というか 、かえ
  って身体に悪いくらいじゃないか( 爪がはがれる 、
  まめもできる 、翌日は階段をおりるのが辛い )』
  とかなり真剣に自問するのだけれど 、それでもな
  んとかゴールに飛び込んで 、一息ついて手渡され
  た冷たい缶ビールをごくごくと飲み 、熱い風呂に
  つかりながら安全ピンの先で膨らんだまめを潰す
  頃にはもう 、『 さあ次のレースは頑張らなくち
  ゃな 』と鼻息も荒く考え始めている 。これはい
  ったいどういう作用なのだろう ? 人間には 、と
  きどき自分を極限まで痛めつけたいという潜在的な
  願望のようなものがあるのだろうか ?
   僕にはその発生理由まではよくわからないけれど 、
  いずれにせよこういう感興はフルマラソンを走った
  ときにしか感じることのできないとくべつなもので
  ある 。」

 「 フル・マラソンを走り終えると 、人は( 少なく
  とも僕は )簡単にのみこむことのできない こだわ
  り のようなものを腹の中にがつんと残すことにな
  る 。うまく説明できないのだが 、自分がつい さ
  っきまでぎりぎりのところで味わっていた この
  『 苦しみのようなもの 』とは 、近いうちにも
  う一度対面して 、それなりの落とし前をつけな
  くてはならないのだ 、と感じてしまうのだ 。
  『 これはもう一度繰り返されなくてはならない 、  ( 次はもっと
  それももっとうまく繰り返される必要がある 』     うまく失敗する )
  という風に 。だからこそたぶん僕はそのたびに
  へとへと 、くたくた になりながら めげることな
  く あきらめることなく 、かれこれ十二年ものあ
  いだ しつこく フル・マラソンを走り続けているの
  だろう ―― もちろん 落とし前なんて まだ ぜんぜ
  んついてはいないけれど 。
   マゾヒスティックと人は言うかもしれないけれど 、
  でも 決して それだけではないだろうと僕は思う 。
  それはきっと 、むしろ好奇心に似た種類のものな
  のだろう 。回数を積み重ね 、限界を 少しずつ 上
  げていくことによって 、自分の中に潜んでいる自
  分のまだ知らないものを もっとよく見てみたい 、
  日の当たるところに ずるずる ひきずりだしてみた
  い 、というような ・・・ 。
   でもこれは考えてみたら 、僕が常日頃長編小説
  に対して抱いている思いとほとんどそっくりです
  ね 。ある日突然 、『 さあ 、これから長編小説
  を書こう 』と思う 。机の前に向かう 。そして
  何カ月か 何年か 息を詰めるようにして 、神経を
  ぎりぎりの限界まで集中して長編をひとつ書きあ
  げて 、そのたびに雑巾を絞りきったみたいに 疲
  労困憊して 、『 ああ 、辛かった 。しんどかっ
  た 。もうしばらくはこんなことしたくない 』と
  しみじみ思うのだけれど 、少し時間がたつと
  『 いや 、今度こそは 』と思ってまた懲りずに
  机の前に座り 、また長編を書き始めることにな
  る 。しかしどれだけ書いても 、やはりしこりが
  腹の中にずしりと残る 。」

 「 マラソンのあとでゴール近くのコプリー・プラザ
  の中にある 、ボストンでいちばん有名なシーフー
  ド・レストラン〈 リーガル・シーフード 〉に行
  って 、こってりとした温かいクラム・チャウダー
  を飲み 、スチームド・リトルネック( ニューイ
  ングランド地方でしか採れない貝で 、これは僕の
  好物 )を食べ 、シーフードのミクスト・フライ
  を食べる 。ウエイトレスが僕の持ってる完走メダ
  ルを見て 、『 あなたマラソン走ったの? へえ 、
  勇気あるわねえ 』と誉めてくれた 。勇気がある
  なんて誰かに言われたのは 、自慢じゃないけれ
  ど 、生まれてからほとんど初めてのことである 。
  実際の話 、僕には勇気なんてものまるでないん
  だけれどな 。

   しかし何はともあれ 、誰がなんといおうと 、
  勇気があってもなくても 、フル・マラソンを走
  り終えたあとで食べるたっぷりとした温かいディ
  ナーというのは 、この世の中でいちばん素晴ら
  しいもののひとつである 。
   誰がなんと言おうと 。」

  引用おわり 。

  ながながと引用したが 、いい文章 。

  マラソンとは違うかも知れないが 、登山にもフル・

 マラソンと似た作用があるように思う 。同じ山に同

 じコースで十数度も登る 、山小屋に一泊せずに 、夕

 刻から登り始める夜行登山で 、山頂近くで御来迎を

 見て 、夜が明けたら麓の景色を眺めながら一気に下

 山する 、という富士登山を繰りかえしていた若いこ

 ろを思いだす 。

 

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ジャック・ライアン Long Good-bye 2024・12・24

2024-12-24 06:28:00 | Weblog

  

 

  今日の「 お気に入り 」は 、「 ジャック・ライアン 」 。

 アメリカの小説家 トム・クランシー ( 1947 - 2003 )  など

 による小説の主人公である 。

  インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」に

 よる ジャック・ライアン の解説記事は次の通り 。

 「  ジャック・ライアン( Jack Ryan )は 、トム・
  クランシーなどによる小説の登場人物 、および
  その小説シリーズである 。

   クランシーによる1984年出版の『 レッド・オク  
  トーバーを追え 』( The Hunt for Red October )
  からはじまり 、第13作目『 デッド・オア・アラ
  イヴ 』( Dead or Alive ) より他の小説家との
  共著に 。第17作目『 米露開戦 』( Command
  Authority )を最後にクランシーが死去して以降
  は 、マーク・グリーニーなどにより引き継がれ
  ている 。」

 「 映像化
   映 画
  ・1990年 レッド・オクトーバーを追え! - アレック・
   ボールドウィン がジャック・ライアンを演じた 。
  ・1992年 パトリオット・ゲーム - ジャック・ライ
   アン役は ハリソン・フォード に交代 。
  ・1994年 今そこにある危機 - 引き続き ハリソン・
   フォード が演じる 。監督も前作と同じ 。
  ・2002年 トータル・フィアーズ - ジャック・ライ
   アン役は ベン・アフレック に 。時系列はキャシ
   ーとの結婚前( 原作は『 恐怖の総和 』1991年 )
  ・2014年 エージェント:ライアン - ジャック・ライア
   ンが分析官からエージェントになるリブート版 。 
   ジャック・ライアン役は クリス・パイン
  ・2021年 ウィズアウト・リモース - CIA工作員ジョ
   ン・クラークに焦点を当てるサスペンスアクショ
   ン 。ジョン・クラーク役は マイケル・B・ジョー
   ダン 。ジョーダンは 、ジョン・クラークを主人
   公とするもう1作『 レインボー・シックス 』の映
   画化にも主演することが決まっている 。

   連続ドラマ
  ・2018年-2023年 ジャック・ライアン - ジャック・
   ライアン役は ジョン・クラシンスキー 。」

  。。(⌒∇⌒);。。

   トム・クランシーの小説の邦訳は 、「 レッド・オク

 トーバーを追え 」以降 、「 いま 、そこにある危機 」

 あたりまで数多く読んだが 、「 日米開戦 」あたりから 、

 遠ざかり 、今日に至っている 。

  映像化されたもの の中での「 ジャック・ライアン役 」

 の歴代5人のなかでは 、ハリソン・フォードとジョン・

 クラシンスキーの二人が 、すわりがいい 。

  。。(⌒∇⌒);。。

  ( ついでながらの

    筆者註:トム・クランシーの小説の主人公「 ジャック・ライ

        アン 」の 「 プロフィール 」。

       「 本名:ジョン・パトリック・ライアン KBE

        ( KBE は 、Knight Commander of the Order  
         of the British Empire の略 。

        ・アメリカ合衆国 前・現 大統領 。
         ロシア式呼称:イワン・エメトビッチ

         退役アメリカ海兵隊少尉 、メリル・リンチ社ボル
        チモア支社証券仲買人 、米海軍士官学校( 合衆国
        海軍兵学校 )教員 、中央情報局局外非常勤分析官 、
        同常勤分析官 、同上級情報分析官 、同情報担当次
        官代行 、同情報担当次官 、国家安全保障問題担当
        大統領補佐官 、合衆国副大統領 。情報分析官当時
        には現場工作をすることもしばしば 。世界各国で
        作戦に携わった 。代表的なものとして 、ビアトリ
        クス作戦( KGB通信センター員一家亡命補助 )、
        ローマ法王暗殺未遂事件(『 教皇暗殺 』)、レッ
        ドオクトーバー捕獲・艦長幹部乗員亡命事件(『 レ
        ッド・オクトーバーを追え 』)、情報源カーディナ
        ル及びKGB議長一家亡命事件( 議長と妻子は別々に
        救出活動がなされる )(『 クレムリンの枢機 
        卿 』)、コロンビア麻薬組織の施設を攻撃していた
        米陸軍軽装備歩兵部隊救出作戦(『 いま 、そこに
        ある危機 』)がある 。CIA辞任時点では情報部担当
        次官だった 。

         国家安全保障問題担当大統領補佐官就任中に起きた
        ウォール街危機や日本との戦争では 、賢い作戦で手
        堅く勝利するものの 、女性問題スキャンダルによっ
        て辞任した現職副大統領に代わり 、その副大統領宣
        誓就任式直後に議会議事堂が攻撃され 、大統領以下
        閣僚及び議員の多くが死亡したその場で急遽繰上げ
        で大統領に昇格する(『 日米開戦 』)。

         大統領になったライアンは国の体勢を立て直しつつ
        も新興国イスラム連合共和国( 原作内の架空国家 )
        との戦争の指揮を執り 、CIA情報担当次官当時に起き
        た米国内の核爆弾テロの黒幕でもあった過激派宗教指
        導者を居宅もろとも精密爆撃する 。

         ロシアと中国とのロシア領内の豊富な地下資源を巡
        る戦争ではロシアを支持し 、NATOに参加させるとい
        う歴史的行動をとる 。レインボー・露合同特殊部隊
        による中国内のICBM基地強襲の最中 、中国共産党最
        高幹部会議にも無許可で一発のICBMがワシントンDCに
        向かって飛来してきた際にはホワイトハウスから退避
        させられたものの 、兵装用プログラム転換で停泊中
        のイージス艦に強行着艦・単身乗り込み 、パトリオ
        ットミサイル迎撃の陣頭指揮を執り 、辛くも迎撃成
        功させた 。報復措置はとらず 、中国内の戦犯処分と
        ロシア領内からの人民軍の撤退により中国共産党最高
        幹部からの和議・停戦を受け入れる 。

         任期中に死亡した前大統領の残り任期期間と再選一
        期期間の在職後 、公職から引退 。

         しばらく 、自宅で自伝を執筆する隠居状態だった
        が 、『 キールティー大統領のままではアメリカが
        だめになってしまう 』と思い 、大統領選挙に出馬
        を表明し(『 デッド・オア・アライヴ 』)、再選
        される(『 ライアンの代価 』)。

         米海軍士官学校( 合衆国海軍兵学校 )教員時代 、
        史料の調査と休暇を兼ねてイギリスを訪れた際に英
        国皇太子を狙ったテロに偶然出くわして 、重傷を
        負いながらも間一髪で襲撃者たちを撃退し 、その
        功労で大英帝国勲章ビクトリア勲位二等勲爵士( ナ
        イト )を授与された(『 愛国者のゲーム 』)。
        よってイギリス連邦諸国では名前の前に『 サー 』
        をつけて呼ばれる 。イギリス王室とは非常に仲が
        いい 。

         歴史学の博士号を取得しており 、作品では 
        『 Dr.Ryan 』と呼ばれる 。

              。。 (⌒∇⌒) 。。

 

       「  “トム” トーマス・レオ・クランシー・ジュニア
        ( Thomas Leo "Tom" Clancy, Jr., 1947年4月12日
         - 2013年10月1日 )は 、
アメリカの小説家 。軍

        事や諜報活動を扱うテクノスリラー小説を数多く
        執筆した 。」

       「 概 要
         メリーランド州ボルチモア生まれ 。ボルチモア
        で保険代理店を営みながら 、余暇に書いたデビ
        ュー小説『 レッド・オクトーバーを追え 』が
        ベストセラーになり 、後の軍事シミュレーショ
        ン小説の先駆けとなる 。本作はアメリカの政府
        関係者が絶賛 、映画化もされ 、一躍流行作家
        の仲間入りを果たした 。近未来の政治サスペン
        ス 、娯楽アクション大作を得意とした 。

         著書では 、元株式ブローカーで軍事史家であ
        る中央情報局(CIA)分析官 、ジャック・ライ
        アンを主人公とした『 ジャック・ライアン 』
        シリーズが代表作 。ほかに『 国際陰謀 』シリ
        ーズ 、『 オプ・センター 』( スティーブ・
        ピチェニックとの共著 )などのシリーズがあり 、
        いずれもヒットしている 。

         また 、主にアメリカ軍を取材したノンフィク
        ション書籍も複数執筆し 、一部は邦訳されて
        いる 。ヒストリーチャンネルなどにも出演し 、
        軍事について語っている 。

         さらに 、1996年にゲーム会社『 Red Storm
         Entertainment 』社を設立 。同社は人気作
        となりシリーズ化される『 Tom Clancy's Rainbow
        Six 』『 Tom Clancy's GHOST RECON 』などを
        開発・販売した 。Red Storm Entertainment社
        は2000年8月にユービーアイソフトに買収され 、
        以後 Ubisoft社から『 Tom Clancy's 』の名前
        を冠したゲームが販売されている 。

         2013年10月1日 、ボルチモアの病院で死去 。
        66歳だった 。死の数年前に心臓発作でバイパ
        ス手術を受けていた 。」

        以上 全部 ウィキ情報 。)

 

 

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コアコアCPI Long Good-bye 2024・12・22

2024-12-22 06:15:00 | Weblog

   

 

  近頃は 、スーパーのレジで合計の値段を聞いて 、

 「 ・・・ えー? 」と思ってしまうことも無くなっ

 た 。食料品価格の値上がりが留まることなく続い

 ているからである 。レジに並ぶ年寄りたちの買い

 物かごも 、めっきりさびしくなってるなあと感じ

 るのは筆者だけではないだろう 。商品に手を出そ

 うにも物の値段が半端ではないのである 。

  安売りが売りの エブリデイ・ロー・プライスの

 スーパーからして値上げの嵐である 。何もハワ

 イやニューヨークくんだりまで出かけなくたって

 気付けること 。

  現役世代には 、賃上げという救いもあるが 、

 高齢の年金生活者 、就中 、団塊世代の多くの

 男女にとって 、老体に鞭打って働くか 、子供

 世代を頼る以外に自手段はない 。

  繰り言を言ってみても 、どこからも一銭も湧い

 て来やしない 。二割上がったら 、家計を二割ダ

 ウンサイジングするしかない 。

 世界中 、値上がりなんだから仕方ないと 、策を

 講じないでいる 、税収の自然増でっている官

 庁の官僚やそれに与する政権与党の守旧派国会

 議員を 、数の多い団塊世代は許さない方がいい 。

 選挙でしっぺ返をしてやろうじゃないか 、と

 考える人が増えるのは当然だ 。さきの総選挙で

 玉金議席増に貢献した選挙人たちは 、自分

 たちの票が政権与党の汚い尻に火を点けた 、

 とほく笑んでいるに違いない 。そう 、永年 、

 毒饅頭作り続け 、い続けてきた連中に 、投

 票によって一矢を報いることは出来るんだ 、と

 いうことが分かってしまった 。ちょっぴり次

 選挙が待ち遠しくなった人もいるんではないかい 。

 百里の道も一歩から。

 。。(⌒∇⌒) 。。 

  今日の「 お気に入り 」は 、インターネットの

 フリー百科事典「 ウィキペディア 」掲載の記事

 「 消費者物価指数 」。

  その内容は 、

 「 消費者物価指数( しょうひしゃぶっかしすう 、
   英: consumer price index 、略称:CPI )とは 、
  最終価格 ( 消費者が実際に購入する段階の 、相
  対価格( 一般物価 )) の変動を表す指数 。消費
  者物価指数の項目 、構成比 、算出方法には国ごと
  に違いがある 。

  算 出
   consumer price index
   =
   market basket of desired year
   ――――――――――――――― × 100
   market basket of base year

   指数は 、基準年の家計の消費構造を一定のもの
  に固定し 、これに要する費用が物価の変動によ
  ってどう変化するかを基準年平均=100として表す
  ラスパイレス算式である 。基準年は他の指数と
  同様に西暦末尾が 0 、5年で 、5年ごとに基準改
  定を行っている 。

   一時的な要因により大きく変動する分野を除外
  するためコア指数が設定されている 。日本の場
  合 、生鮮食品を除いた指数『 コアCPI 』が使
  われる 。また 、エネルギー価格の変動がコア
  CPIに影響を与えるため 、食料及びエネルギー
  を除いた指数『 コアコアCPI 』が2006年より統
  計として加わった 。」

   日本でのコアコアCPI( non-food , non-energy )
  に相当するものを世界的には コアCPI と呼ぶ 。
  つまり 、世界の中央銀行で議論するときのコア
  CPIは 、日本では コアコアCPI である 。」。

  。。(⌒∇⌒);。。

   世界のコアは 、日本のコアコア 。

   生鮮食料品を含む食料品やエネルギーの価格を除いた

 「 一般物価 」で 、「 2. ん パーセント 」の安定的な物価

 上昇と言われても 、食料品価格もエネルギー価格も 、一時的

 な要因でなく 、恒常的に右肩上がりの昨今 、感覚の物価

 上昇率とコアコアCPIが違いすぎて 、ピンとこず 、説得

 力に全く欠ける 。

  かと言って 、食料及びエネルギーを加えた指数を公表し

 ら 、一揆が起こる 。でも 、諸事平和な日本では 、みんな

 で見ないふりして 、一揆はこりそうにないが 、数の多い

 高齢者をいじめ続けると 、政権与党席が減るくらいの

 ことは 、このさきも起きる 。

  寒くなったら 、じっと冬眠をする 蛙 のようには参らない 。

  21世紀も早 半分 が過ぎようとしている 。熊のプーさん

 も 、龍の習さんも 、虎ンプさんも蠢き続ける 2025年 。

 反旗を翻すには 、この 一 、二年を措いては ないような 。

  早くしないと 、死んじまうぞ 。

 。。(⌒∇⌒);。。

 ( ついでながらの

   筆者註: ラスパイレス算式とは 、

       「 ドイツの経済学者エティエンヌ・ラスパイレス
        (1834-1913)が考案した物価指数作成の算式 。 
         基準時から測定した比較時の物価指数をI(/0)1 、
        基準時の各品目の価格をp(/0) 、基準時の各品目
        の取引数量をq(/0) 、比較時の各品目の価格をp1
        とすると 、I(/0)1=Σp1q(/0)/Σp(/0)q(/0)で
        示される 。」

        んだそうです 。

        以上ウィキ情報ほか 。)

 

     

       ( できることなら 蛙になって 冬眠したい )      

          

( ホンダ・日産一緒になって 、できた会社は  ホンダサン か ニホンダサン 、英語名なら HONDUTSUN )

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ホームランド Long Good-bye 2024・12・20

2024-12-20 06:25:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、インターネットの

 フリー百科事典「 ウィキペディア 」掲載の記事

 「 HOMELAND ( テレビドラマ ) 」。

  Prime Video で 、久々にはまった 。 9.11 以降の

 世界に 起こっていても 不思議ではない 、と思わ

 せる 展開を見せる 作り話  。精神障がい者でも

 ある女主人公を 、陰に陽に助ける男どもは 、次々

 と死んでゆく 。惚れた弱み 。

  以下は 、記事の冒頭の部分 。

 「『 HOMELAND 』(Homeland)は 、2011年から
  2020年まで放送されたハワード・ゴードンとアレ
  ックス・ガンザによりアメリカ合衆国のテレビ用
  に制作された スパイ・スリラー・ドラマ・シリー
  ズであり 、ギデオン・ラフが制作したイスラエル
  のシリーズ『 Hatufim 』( 戦争の囚人 )の設定
  に基づいている 。主演はクレア・デインズ

  概 要
   双極性障害を持つが極めて有能なキャリー・マテ
  ィソンはCIAに勤務し、アメリカ国内に潜入するテ
  ロリストと戦う 。後にキャリーは海外支局勤務と
  なり 、さらに民間組織に転職するが 、過去の任
  務の影はついて回りテロリストとの対決は続く 。

   本国アメリカ合衆国では 、ケーブルチャンネル 
  ショウタイムにて放送されており 、制作会社はフ
  ォックス21である 。各シーズンは12話からなり 、
  2011年にシーズン1が放送され 、最終シーズンと
  なるシーズン8は 2020年2月9日から放送された 。」

   遺伝性の精神病質による精神疾患を隠しつつ 、時に大活躍 、

  時に絶不調の 、薬剤依存症の女主人公を 、クレア・デインズ

  が熱演している 。リアリティがあり 、この種 スパイ・ス

  ラーものにありがちな 荒唐無稽さや破綻 というものがない 、

  意外性のある 早い展開に 、シーズン8まで退屈せずに見ら

  れ 、それでいて 、後味のいい終わり方をする ドラマ 。脚本

  の妙 。

   もっとも 、何度も危難を乗り越えてゆく主人公も 、双極性

  障害の躁状態を乗り越えるために 、副作用のキツい 抗精神

  病薬 セロクエル を常用しているようだから 、のみ続けたら

  平穏な老齢期がまっている筈もなく 、悲惨な末期を迎えるの

  は必至である 。

  女子が憧れるような主人公ではない ところが ミソ 。

  。。(⌒∇⌒);。。

 ( ついでながらの

   筆者註:ウィキ情報で固めてみた 。

      「 クレア・デインズ(Claire Danes, 1979年4月12 
       日 - )は 、アメリカ合衆国の女優。
       本名は『 クレア・キャサリン・デインズ(Claire  
       Catherine Danes)』。
        これまでに 、エミー賞を3度 、ゴールデングロ
       ーブ賞を4度受賞している 。

       来 歴
       生い立ち
        ニューヨークのマンハッタンで生まれ 、ソーホーで
       育つ 。父親は写真家 、母親は芸術家 。幼い頃から
       バレエを学び 、リー・ストラスバーグ・インスティ
       チュートとアクターズ・スタジオで演技を学んだ 。

       キャリア
        1994年に『 若草物語 』で映画デビュー 。同年放
       送のテレビシリーズ『 アンジェラ 15歳の日々 』で
       ゴールデングローブ賞主演女優を受賞し 、一躍脚光
       を浴びる 。1996年にレオナルド・ディカプリオと共
       演した『 ロミオ+ジュリエット 』でアイドル的な人気を
       得る

        2007年にはブロードウェイ劇『 ピグマリオン 』の
       イライザ・ドゥーリトル役で舞台デビューしている 。

         2007年からパトリック・ウィルソンと共にGAPのCM
       に出演 2008年秋からはグッチのファイン ジュエリー
       の広告塔に起用される

        2010年 、『 テンプル・グランディン 自閉症ととも
       に 』でエミー賞主演女優賞とゴールデングローブ賞
       主演女優賞受賞 、翌年の『 HOMELAND 』で二年連続
       ゴールデングローブ賞主演女優賞受賞の快挙を達成 。

        清純派のイメージが強いためヌードシーンを演じる
       ことが少ない 。」

      「 双極性障害( そうきょくせいしょうがい )
       あるいは双極症( そうきょくしょう 、
       英: bipolar disorder、ドイツ語: bipolare
       Störung)は 、通常の気分をはさんで躁病
       ( そうびょう )と抑うつの病相( エピソー
       ド )を呈する精神疾患である 。古くは 躁う
       つ病( そううつびょう 、躁鬱病 )と呼称さ
       れた。」

      「 クエチアピン( 英語: Quetiapine )は 、
       ジベンザゼピン( ジベンゾチアゼピン )系
       の非定型抗精神病薬の一つである 。国内外
       で商品名セロクエル ( Seroquel ) として (何故か知ってるセロクエル)
       販売される 。日本での適応は 統合失調症 
       であるアメリカ合衆国では双極性障害
       にも適応があり 気分安定薬 として用いら (うちのおくさんがのんでた
       れる 。                     ことがある)

        徐放錠タイプのクエチアピンフマル酸塩
       ( 商品名セロクエルXR 、日本名:ビプレッ
       ソ徐放錠 )が販売され 、2017年に適応は
       『 双極性障害におけるうつ症状の改善 』
       として承認を得た 。

        薬事法における劇薬 。
        糖尿病には禁忌である 。」

       以上 全部ウィキ情報 。 )

 

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火宅の人 Long Good-bye 2024・12・16

2024-12-16 06:16:00 | Weblog

 

    今日の「 お気に入り 」は 、沢木耕太郎さんの著書

  「 檀 ( だん ) 」の終章に引用されている 作家の 檀一

  雄 さん が綴られた夫人あての手紙 。

    夫人のお名前は 、福岡県柳川市生まれの ヨソ子 さん 

  「 檀 」の主人公である 。

   作家の檀一雄さんが 、昭和26年 ( 1951年 ) 、

  鯨船に乗り込んで 、はるばる南氷洋に出掛けられた折

  り 、旅先からヨソ子夫人に宛てて出された長文の手紙

  だそうである 。

   昭和26年 、檀一雄さんは 、御年(おんとし) 39歳 、

  直木賞を受賞されるなど 、文壇での声価が高まってい

  た時期に夫人宛て書かれた私信で 、当然のことながら 、

  余人の目に触れることを想定していない 、夫人に対す

  る あけすけな物言いになっている 。旅先の開放感も

  手伝ってのこととはいえ 、妻に対してそこまで上から

  目線で語りかけるかという 、支配 ・被支配の関係を

  うかがわせるような手紙である 。

   70年前の戦後間もない昭和の時代のことで 、こん

  ちの感覚で 、その時代の人の家父長的な考え方や物言

  いをじてもはじまらないし 、手前勝手 、身勝手な人

  であることに 、二十世紀も二十一世紀もなく 、勘定高

  い俗人しか言いようがないような 文面ではあるが ・・・ 。

   同じ「 無頼派 」と呼ばれる作家であっても 、太宰治

  さんとは 、大分違うような 。

   ともあれ 、引用はじめ 。

  「 新年おめでとう 。太郎次郎と大変なことでしょ  
   う 。そのほか諸雑事ほったらかしの儘だったか
   ら 、御心労さこそといつも感謝しております 。
   扨 、結婚以来 、一度もあなたに手紙を書いたこ
   とがなかったような気がするから 、今日は一つ
   思い切って 、長い手紙に致します 。今後も又書
   く機会は無いと思いますし 、この手紙 、後年格
   別の変化が無い限り遺書をも兼ねておきますから 、
   出来たら保存をしておかれるがよろしいでしょう 。
    平常冗談にまぎらわせて 、口に出したことはあ
   りませんが 、失意の時 、大事の時 、私よりも
   何層倍も沈着であり 、激励にみちているあなた
   の心意気を 、私は大変尊敬しております 。それ
   でなかったなら 、私は何度も自分の道を見迷った
   ろうとすら 、考えることがあります 。私は持続
   的に女を愛することなど出来ない性分ですが 、あ
   なたの落着いた性格を畏れもし 、深く愛してもお
   ります 。

    私はあなたを 、実はいい加減に貰ったのですが 、
   天の与えてくれた好伴侶に感謝しております 。 
   ムラ気で 、御気分屋の私にとって 、あなたのよ
   うな飾りのない敦厚(とんこう)な愛情を得たこと
   を誇りに思っております 。
    あなたへの感謝は 、『 リツ子 』の中の静子と
   いう形で転化して描いたことを 、あなたはまだ
   信じていないようですね 。

    これから少し悪口も書きますが 、怒らないでど
   うぞ考えて見て下さいあなたは優しいし厚味
   のある人柄ですが 、その優しさを表現すること
   は甚だ拙劣ですね 。私はあなたと森を歩いたこ
   とも 、月を眺めたことも 、海辺に立ったことも
   ありません 。それは私が誘わないばかりでなく 、
   来客や家族が多いので忙しいばかりでなく 、あ
   なたが来ようとしないのです 。
    例えばあなたと立った姿勢で接吻をしたことが
   あったでしょうか 。これもまた私が悪いばかり
   でなく 、あなたが 、二人だけの愛情を感じなが
   ら私の傍に立って 、じっと待っていてくれたと
   いうことが一度もなかった証拠にほかなりません 。
    例えば私達大家族が一緒に電車に乗ったとしま
   す 。あなたが私の傍に座ったためしが有ったで
   しょうか 。
    更にあなたは 、夜の愛撫をかわし合うときにも 、
   おおむね非常に投やりであるか 、大まかである
   かのようです 。それも又私が疲れているのと 、
   力の足りない故であるかも知れませんが 。
    私は繰り返しあなたに云っております 。仕事が
   煩労ならば女中さんを二人でも三人でも雇ったら
   よいではありませんか 。そうしてあなたはあな
   たの力を私の仕事の周囲に注いでくれるか 、乃
   至はあなたの教養 、慰安に向けてくれるがよい
   ではありませんか 。
    おしめを洗ってくれることもありがたいが 、そ
   ういう仕事は人にまかせて 、野山に立ち 、生き
   る喜びを知り 、激励を交わし合って 、殆ど亡び
   かかっている私を更新して貰いたいのです 。」

    ( 中 略 )

  「 さて 、これからは生きている間に起り得る出来
   事について私の意見を明瞭にしておきます
    あなたにかりに恋人が出来ても一向にさしつか
   えありませんよ 。私が余り愉快に思うかどうか
   は別にして 、誰でも自由に愛し 、愛されるべき
   だからです 。但し肉体関係ができているときに
   は 、なるべくそれを報せ合いたいものですね 。
   何故なら自分の子供でない子を知らずに 、かか
   えあげているのは悲惨ですから 。
    あなたに愛人が出来た節も 、あなたからの申出
   がない限り 、私の方から離婚の申出は決して致し
   ません 。別居はするとしても 、あなたが私の夫
   人であって何のさしつかえはないわけですから 、
   従って下石神井のあなたの家はあなたの愛人と暮
   す巣になってもさしつかえないわけです 。それは
   今日迄のあなたの御辛労に対する感謝からです 。
   かりにあなたが愛人と結ばれて 、どうしてもあな
   たから離婚の希望がある節も 、次郎の連れ子料と
   して 、あの家を贈呈いたします 。家がいやなら 、
   家の代価六十五万円を( 一時には払えないし 、
   金で払うのはあやしいが )さし上げる約束をして
   おきます 。若しそんなことがあった節 、この手
   紙を証拠として裁判所に提出して下さい 。
    若し又 、私に愛人が出来た節も 、あなたと離婚
   はいたしません 。私は別宅を構えてその方へ逃げ
   てゆくだけのことで 、その際はあなたと子供達の
   充分な養育費を負担しましょうね 。
    以上 、洗いざらい色んなことを書きましたが 、
   しかしもう何年生きるか 、憫(あわ)れな人間同士
   であってみれば 、なるべく仲良く一緒に 、乗り
   かかった船とあきらめて 、死ぬ迄信じ合って生き
   てゆきたいものですね 。
    それには 、もっとお互いに愛情の技巧に気をつ
   け 、電車に乗る時には一緒に掛け 、腕を組んで
   野山を歩き 、月や花を愛し合い 、時には立った
   接吻を交わし 、夜の愛撫にも慰め合い 、いたわ
   り合い 、お互いのよろこびの源泉を深くし 、お
   互いのよろこびを教え合い 、ヤキモチを焼かず 、
   深く信じ 、事破れた時には率直に 、なつかしい
   昔の夫婦だったという立場から相談し合うことに
   致しましょう 。
     一月十日           檀一雄   」

  ( 沢木耕太郎著 「 檀 」新潮文庫 所収  )

   引用おわり 。

   この文面だけみると 、檀一雄さんの現状認識として「 夫婦

  の愛情関係は すでに 破たんしている 」ようです 。

   これだけ挑発的内容の手紙を作家が書いても 、その後何年

  もの間 、夫人の作家に対する対応に 、作家が期待するほど

  に目立った変化はなかったんでしょうね 、きっと 。

   こんな形で思いを口にした以上 、作家としては 、「 火

  の人 」の道へ 、お考え通り 、何年か後に淡々と進まれたん

  でしょう 。

   鈍感といえば 、鈍感なんでしょうね 。人間にはよくある

  ことではありますが 、自己防衛本能 。 

   見たくないものは見ないというか 、見えない 。

   聞きたくないことは聞かないというか 、聞こえない 。

   読みたくないことは 、頭に残らないというか 、残さない 。

   あとで気が付く てんかん病み 。

  。。(⌒∇⌒); 。。

  ( ついでながらの

    筆者註:「 沢木 耕太郎(さわき こうたろう 、1947年11月
        29日 - )は 、日本のノンフィクション作家・エ
        ッセイスト・小説家・写真家 。」

       「 檀 一雄(だん かずお、1912年〈明治45年〉2月
        3日 - 1976年〈昭和51年〉1月2日)は 、日本の
        小説家 、作詞家 、料理家 。」

         以上ウィキ情報 。)

 

  

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もののあはれ Long Good-bye 2024・12・14

2024-12-14 05:28:00 | Weblog

 

   今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の

  「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。

   今から50年ほど前の1976年の「週刊朝

  日」に連載されたもの 。

   備忘のため  、「 望月の御牧(みまき) 」と題された小

  文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。

   信州は 、「 望月の御牧 ( 官牧 ) 」のお話 。

   引用はじめ 。

  「 清少納言の『 枕草子 』に 、

     駅(むまや)は 梨原(なしはら)。望月
     (もちづき)の駅(むまや)。山の駅は 、
     あはれなりしことを聞きおきたりし
     に 、またもあはれなることのありし
     かば 、なほとりあつめてあはれなり 。

    と 、ある 。

    この駅(むまや)は 、律令制における官道の
   宿駅のこと 。宿駅には馬や人夫が置かれて旅
   人のもとめに応じ 、つぎの駅まで乗り継ぎさ
   せる 。右の文章にある梨原の駅は近江(おう
   み)にあり 、望月の駅というのは 、いうまで
   もなく信濃(しなの)にある 。山の駅というの
   はどこにあるのか未詳だが 、文章の後半は山
   の駅について書かれていて『 深くしみじみと
   心ひかれることをきいていたが 、また別な話
   をきき 、かさねがさね心のひかれることであ
   る 』という 。梨原や信濃の望月の駅につい
   てはどういう説明もされていないが 、要する
   に『 あはれ 』ということであろうし 、あは
   れ という語意には景色のよさということも 、
   重要な要素として入っているに相違ない 。
    かといって清少納言が信州に来たとは思えな
   い 。

    彼女は 、中宮定子(ていし)に仕えた 。宮廷
   での話題のひとつは 、諸国の名所についてで
   あろう 。国々へ受領(ずりょう)としてくだっ
   た者やそれに随行した者などが 、国々の名所
   についてのみやげ話を持ちかえるために 、京
   においては女官でさえ諸国の地理についての
   知識を相当持っていたと思われる 。
   『 駅は数あるが 、信濃なる望月の駅の御牧
   (みまき)ケ原の景色がもっともよく 、秋の夕
   暮など 、草遠き原に駒の群れるあり 、散る
   あり 、蓼科(たでしな)のふもとに黄葉(もみ
   じ)して 、その風情(ふぜい)はえもいわれな
   い
    などと 、地方に馴れた男どもが 、旅をせぬ
   宮廷の女官たちになによりもの話のたねとし
   て語ったにちがいなく 、自然 、清少納言の
   脳裏に望月の駅の景色がありありと浮かぶよ
   うになっていたのであろう 。」

  「 平安朝までの公家(くげ)政権が 、奥羽の地
   を十分に掌握していたとはいわれないという
   ことについては 、すでに触れた 、自然 、
   日本第一等の良馬を産する奥羽には御牧(官牧)
   がなく 、このため官牧にあっては信濃の馬 、
   とくに望月の馬がもっともよいとされた 。
    御牧の管理をする者は 、千曲川の流れの両側
   で農場をひらいている者たちである 。それら
   はやがて武士として成長してゆく 。
    木曽に住む木曽義仲は 、手勢といってもわず
   かだった 。旗あげに際し 、かれはわざわざ東
   信の佐久平までやってきて 、千曲川畔で兵を
   あつめた 。かれが佐久平をもって挙兵の地と
   した理由は 、一つには馬を獲るためであった
   であろう 。騎兵をもって圧倒すれば平家軍は
   かならずしもおそるるに足りない 。そういう
   軍事的な知恵は 、当時 、東国のつわものども
   にとって 、ごく常識的なものであったかと思
   える 。」

  「 依田の城というのは上田の南にあり 、千曲川
   に流れこむ依田川の岸にあった 。いま依田と
   いう地名はないが 、依田川という河川名はあ
   る 。このあたりを本拠にすれば 、いまの軽井
   沢付近の長倉の御牧はもとより 、望月の御牧
   の馬もことごとくおさえることができる 。
   『 馬の産地さえ制すれば 』
    というつもりが 、木曽義仲にあったにちがい
   ない 。義仲は 、鎌倉の頼朝からみれば源氏の
   傍流である 。たがいに競立する立場にあった 。
   頼朝にとって義仲は無用有害の存在であり 、
   共通の敵である平家よりも むしろ分派の状況に
   ある 味方 をほろぼさねばならない 。このこと
   は一つの敵を共有する在野党の宿命的な生態な
   のかもしれない 。」

   引用おわり 。

  。。(⌒∇⌒);。。

   司馬遼太郎さん の 紀行文「 街道をゆく 9 」の「 信州

  佐久平みち 」の筆写は 、ここまで 。

 

   

   

   

 

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こもろなるこじょうのほとり Long Good-bye 2024・12・12

2024-12-12 05:59:00 | Weblog

 

   今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の

  「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。

   今から50年ほど前の1976年の「週刊朝

  日」に連載されたもの 。

   備忘のため 、「 小波だつ川瀬 」と題された小

  文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。

   信州は 、「 小諸 」でのお話 。

   引用はじめ 。

  「 道を南下して 、千曲川のうねる遥かな彼
   方に小諸城の台地を見たとき 、さすがに詩
   情を禁じえない 。
    北から佐久平(さくだいら)をめざせば 、
   だれもが小諸をその袋の口のように感ずる
   にちがいない 。むかしは 、小室という漢
   字をあてた 。むろ とは上代の地理用語で
   もある 。狭隘な平地をいうらしい 。」

  「 小諸の東北方に 、東信濃の地勢 、気候
   その他に決定的な大要素になっている浅間
   山巨大な山塊として蟠(わだかま)ってい
   る 。そのふもとの丘陵が小諸へのびてき
   てこの小さな城市(じょうし)を載せ 、西
   は断崖になり 、千曲川に洗われている 。
   城は川に臨んだ断崖の上にあり 、遠望す
   ると景観としてはまことに佳(い)い
    が 、以上は私の想念の中の小諸城で 、
   信州にくらい私は 、このあたりに来るの
   もむろんはじめてで 、ただ遠望しての眺
   望のよさだけは 、このとき味わうことが
   できた 。」

  「 小諸城の城内は 、懐古園という公園に
   なっている 。その前の広場に古い機関
   車が置かれていて 、まわりに大衆食堂
   が軒をならべ 、どういうわけかパチン
   コ屋並みの大音響で音楽が拡声放送され
   ていて 、足がひるんでしまった 。
    ともかくも大衆食堂の一軒に入ると 、
   こういう店における時代の象徴ともいう
   べき仏頂面(ぶっちょうづら)の女の子が
   デコラのテーブルを拭いていて 、声を
   かけてもふりむきもしなかった 。定年
   をすぎた年齢の編集部のHさんが辞を低
   くして女の子に何か話しかけているのだ
   が 、背を向けたまま顔も見てもらえない 。
   やがて女の子が不機嫌そうに背をのばし
   て 、
   『 なにか 、註文するのかね 』
    というようにHさんをちらりと見た 。
   アウシュビッツのナチの下士官というの
   はこういうぐあいだったろうと思われた 。

    ( 中 略 )

     小諸なる古城のほとり
     雲白く遊子悲しむ

    という島崎藤村の詩さえなければ 、小
   諸城趾はいまも閑(しず)かだったであろ
   う 。こういう騒音もなければ 、残忍な
   客あしらいもなく 、テーブルの上の器
   物の狼藉もなかったにちがいない 。
   村の詩も小諸城趾もわれわれの誇るべき
   文化だが 、それが大衆化され商業的に
   受けとめられて再表現されたときに民族
   のほんとうの民度とか文化の担当能力が
   露呈するのかもしれない 。つけっぱなし
   のテレビのコマーシャルまで耳の中を搔
   きまわして 、どうにも居たたまれなかっ
   た。

    ( 中 略 )

    そばが 、運ばれてきた 。
    さすがに信州だけにそばが旨く 、下味
   (つゆ)もわるくはなかった 。値段もそこ
   そこで 、その意味では商業主義の必要な
   条件を充(み)たしていた 。
    ただ食物をひとに与える場合 、犬にや
   る場合でも頭をなでてやるというスキン
   シップがあって与える者と受ける犬との
   間の文化的関係が成立するのだが 、食
   堂の商業主義が十分な条件をもつにはせ
   めて犬の飼主程度の心が必要かとおもわ
   れる 。
    たかがそばを食うのにこういうたわご
   とを考えずともいいのだが 、場所が藤
   村の詩と小諸の古城のなかでのことだけ
   に 、つい信州人に対する当方の期待が
   過剰になってこんなことを考えてしまっ
   た 。
    食堂を出ると 、懐古園である 。なん
   となく入ってみる気がおこらなくなって 、
   そのまま南にむかった 。」

    引用おわり 。

    。。(⌒∇⌒);。。

    これでも 、SNSの攻撃的なメッセージに見られるような

   部分は 、筆写から省いたが 、騒音や色彩の暴力とでも言う

   べき観光地の有り様や 、作家をして「 残忍な客あしらい 」

   と言わしめ 、いたたまれなくするような大衆食堂の雰囲気

   は 、上に筆写した文章だけでも 、十分読者に伝わってくる 。

   ( 中 略 ) の部分の記述は 、「 週刊朝日 」の編集者がよく掲

   載をためらわなかったのか不思議なくらい 、作家の生まの

   感情をぶちまけたような文章である 。「 知の巨人 」の知

   力がムダに使われており 、冷静な分析者であり続けた司馬

   遼太郎さんには全く似つかわしくない文章群 。よほどお怒

   りであったらしい 。

   。。(⌒∇⌒); 。。

    50年ほど前の「 小諸城趾 」の「 懐古園 」前の広場に

   あったらしい大衆食堂 。こんにち どうなっているん

   しょうね 。仏頂面(ぶっちょうづら)の女の子も 、いまや 、

   仏頂面のお婆さん ?   垢抜けた観光地のレストランか

   フードコートに変身しているかもしれません

   

 

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ちいさがた Long Good-bye 2024・12・10

2024-12-10 05:33:00 | Weblog

  

 

  

   今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の

  「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。

   今から50年ほど前の1976年の「週刊朝

  日」に連載されたもの 。

   備忘のため 、「 千曲川点景 」と題された小

  文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。

   信州の別所温泉を経ての旅の続き 。

   引用はじめ 。

  「 別所は塩田平にあるということは 、すでに
   ふれた 。この塵取(ちりとり)型の小さな平野
   は 、奥の別所において高く 、千曲川の方向
   にむかい 、ゆくにつれて低くなる 、狭いな
   がらも 、見るからに膏腴(こうゆ)(あぶらみ)
   の地といった感じである 。
    この塩田平は 、それと相重なる上田平とと
   もに 、信濃(しなの)では まとまった規模の
   農耕地帯として最初にひらけ 、『 小県(ち
   いさがた) 』という地名で中央にも早くから
   知られていた奈良朝の律令体制がはじま
   ると 、このあたりに国府がおかれたらしい 。
    どこに置かれたかは 、明瞭でない 。」

  「 同行の桜井孝子さんは 、故郷だけに 、信
   濃を詠んだ万葉の歌のいくつかをそらんじ
   ている 。

     信濃通(しなのぢ)は 今の墾道 刈株(はり
     みち かりばね)に 足踏ましなむ 久都(くつ)
     はけ わが背( 巻十四、三三九九 )

    という歌を 、国府の所在について話して
   いるときに 、彼女はさりげなく挟んだ 。
    この歌は 、東歌(あずまうた)の一つで 、
   防人(さきもり)に徴せられて都へゆく若い
   夫のために妻が詠んだ歌である 。
    道を墾(ほ)るというのは新道を開くこと
   で 、墾道とは開通したばかりの新道 。自
   然 、笹などの刈株がそそけ立っている 。
   きっと足を踏みぬいたりなさるでしょう 、
   さあ履(久都)をはいていらっしゃいよ 、
   という 。久都は靴のことだが 、原日本に
   は存在しなかった 。ふつう革製だが 、木
   製 、布製のもある 。この場合 、刈株の
   墾道である以上は革製でなければならない 。
   くつ という言葉はどうやら朝鮮語の kuit
   と同源らしく 、この歌には『 あのハイカ
   ラな靴というものをはいていらっしゃいよ 』
   という気分が入っているのにちがいない 。
    この歌でおもしろいのは 、
   『 信濃には京へゆく便利な道路が開鑿(か
   いさく)されたらしい 』
    という道路情報が 、関東の防人の妻の耳
   に入っていたということである 。

   『 続日本紀(しょくにほんぎ) 』の和銅六
   (713)年のくだりに 、

     美濃信濃二国の堺は径道険阻にして往
     還艱難なり 。よりて吉蘇路(きそじ)
     (木曽路)を通ず 。

    と 、ある 。信濃側からいえば 、松本か
   ら木曽福島を経て美濃(岐阜県)の中津川
   へ出てゆく道路は 、この和銅六年に開墾さ
   れた 。その後 、中山道で都のほうへゆく
   にはこの木曽路が利用され 、このおかげで
   源平争乱期に木曽義仲がここで雌伏するこ
   とができたわけだし 、はるかな後世ながら
   島崎藤村の『 夜明け前 』に出てくる木曽
   路の馬籠(まごめ)の宿(しゅく)もこのおか
   げで出来 、いまも中央本線がほぼこの道路
   沿いに走っている 。万葉時代にはこれが刈
   株の道で革のくつでもはかなければ歩けな
   かったというのも 、おもしろい 。
    奈良朝という律令国家は 、全国を公田に
   してそこからあがってくる米その他を都に
   運ばせるために 、道路を必要とした 。木
   曽路の開鑿は人民の難儀を軽減する目的よ
   りもむしろ租税の運搬を便利にするためで
   あった 。しかしながらこの木曽路の開鑿に
   よって信濃国は都に近くなった
    いま一つの変化は 、信濃では 、それまで
   一国の中心だった千曲川ぞいの小県(ちいさ
   がた)(上田平など)東の片隅というだけに
   なり 、国のほぼ中央にある筑摩の松本平
   (まつもとだいら)飛躍的に重要になった
   ことである 。松本平はそれまでも大きな農
   業生産地であったが 、貢租をはこぶ道路地
   理からいえば僻陬(へきすう)にあったとい
   っていい 。この道路によって信濃の中心は
   千曲川ぞいから松本に移り 、国府も小県か
   ら松本へうつされてしまった 。新道路の開
   鑿が土地の事情を基本的に変えるというのは 、
   こんにちにかぎったことではない 。」

  「 私のこの旅は 、あたらしい土地へゆくと
   かならず国府のあとか 、それが明瞭でなけ
   れば国分寺あとを訪ねることにしている 。
   そのあたりは上代におけるその国の中心だ
   ったから 、山河を見わたすだけでも 、感
   慨が深まるような気がする 。」

  「 地図では 、国分寺跡は上田の市街地より
   やや南で 、千曲川の東岸にある 。ゆくと 、
   河原に 、

     信濃国分寺趾(あと)

    という大きな石碑が立っている 。
    史跡公園などと仰々しく銘うたれているが 、
   地面と簡単なコンクリート製の腰掛け台があ
   る程度で 、樹木といえるほど樹木はなく 、
   その場に立っているだけで心が荒涼としてく
   る 。
   『 これは 、公園ですか 』
    と 、須田画伯が 、どう写生していいか途
   方に暮れた表情で 、ふりむいた 。
    信州人は 、神経のゆきとどいた感覚を持っ
   ている 。そのことは定評のあるところだが 、
   どうも諸事 品下がってきた日本のなかにあっ
   て 、信濃人(しなのびと)まで がさつ になっ
   てきたということであろうか 。
    それにしてもこの公園はひどく 、ちかごろ
   しきりに史跡公園を造っている中国人などが
   みれば ―― かつての中国がこのようだった
   だけに ―― 越し方を思い 、いまの日本人
   の心の荒みようにおどろくかもしれない 。

    日本人は 、古来 、杜(もり)を神聖な場所
   として大切にしてきた 。共同体の中心をな
   す神社の境内(にわ)は樹木でうずめ 、鬱然
   たる杜をつくり 、杜に神が天降(あも)りす
   るという信仰を継承してきた 。西洋では 、
   公園をそのようにした 。公園の概念を明治
   のときに輸入した日本は 、公園をもって神
   社の杜のように考えて 、結果としてはほぼ
   まちがいなかった 。
    人間の心を安らかにするのは 、樹木しか
   ない

   引用おわり 。

   。。(⌒∇⌒); 。。

   上の「 史跡公園 信濃国分寺趾 」の記述にもあるが 、

  50年ほど前の 、この信州への旅においても 、作家

  や同行者一行をがっかりさせる観光開発の有り様が度々

  語られる 。「 小波だつ川瀬 」の章で語られる小諸城趾

  の「 懐古園 」への入園を断念させるくだりは 、攻撃的

  かつ執拗な筆致で 、司馬さんに似合わな過ぎて 、筆写

  に堪えない 。50年後の現在 、こんな目に遭うことは

  しょっちゅうであることも悲しい 。行かなきゃいいの

  であるが ・・・ 。

 

    ( たしか浅間山 )

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おんりえど ごんぐじょうど Long Good-bye 2024・12・08

2024-12-08 05:11:00 | Weblog

 

  今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の

  「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。

   今から50年ほど前の1976年の「週刊朝

  日」に連載されたもの 。

   備忘のため 、「 山寺の中の浮世絵 」と題

  された小文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。

   信州は 、別所温泉にある常楽寺の本坊境内にある

  コンクリート造りの美術館に収蔵されている 徳

  家康の『 課念仏 』のお話 。

   引用はじめ 。

  「 常楽寺の本坊境内には 、コンクリート造り
   の美術館もある 。
   『 先代が美術品が好きで 、寺にあったもの
   や集めたものをここに収蔵しておいてくれた
   んです 』
    といって 、現住職の半田孝淳氏が 、扉の
   錠をあけてくれた 。
    めずらしいものが数点ある 。なかに 、徳
   川家康がみずから筆をとって書いた『 日課
   念仏 』というのがあり 、写真で見た記憶が
   あるが 、本物はむろんはじめてだった 。
   字で南無阿弥陀仏という六文字を 、六段に
   びっしり書き込んでいる 。終りのほうに 、
   南無阿弥と書いて 、あとは陀仏と続けず 、
   家康と書いている 。誤記ではなく 、日課念
   仏の作法なのであろう 。そういうのが六カ
   所あった 。
   かれは 、念仏の徒であった
   かれの先祖は徳阿弥という時宗の聖で 、全
   国を遊行(ゆぎょう)するうちに三河(みかわ)
   松平郷という山中に流れてきて 、松平家に身
   を寄せた 。そのうち松平家の娘と深くなり 、
   子がうまれた 。遊行聖(ゆぎょうひじり)には
   よくある例である 。やがてこの家は一遍の時
   宗念仏から法然の浄土宗に転じ 、世を重ねて
   家康に至った 。家康は生涯 、戦陣に出るとき 、

     厭離(おんり)穢土
     欣求(ごんぐ)浄土

    と大書した大旆(たいはい)を本営にひるがえ    
   した 。『 ああこんな浮世はつくづくいやだ 、
   よろこび勇んであの世へ行きたい 』などとい
   う文句を戦陣の旗につかった大将など 、古今
   東西に家康しかない 。士卒に死を怖れさせな
   いようにとの配慮もあるだろうが 、それにし
   ても本気で念仏を信じていなければ 、こんな
   旗を戦陣にかかげることはなかったにちがい
   ない 。

    もっとも平安末期から戦国までの念仏の流行
   というのは 、単純な厭世主義の流行というも
   のではなく念仏を信じることによって自分
   を形而上的世界に解放するというごく陽気な
   一面があり形而下的には 、念仏を唱える
   ことによって互いの間に『 御同朋(おんどう
   ほう)・御同行(おんどうぎょう) 』の結びつ
   きができるという一面もあり色彩でいえば
   寒色ではなく暖色の文化性というべきもの
   あった 。この当時のそういう面からいえば 、
   家康の旗の文句はひとびとから違和感をもた
   れるようなものでは決してなかった 。
    この家康の『 日課念仏 』は 、慶長十七(16
   12)年という年号が入っている 。晩年という
   べき時期で 、この翌々年にかれは豊臣秀頼を
   討滅する軍を発する 。」 

   引用おわり 。

   念仏といえば 、昨年11月に89歳で亡くなった

  脚本家の山田太一さん ( 1934 - 2023 ) が書かれた

  小説「 空也上人がいた 」( 朝日新聞出版 刊 ) の最

  終章で 、年老いた主人公に寄り添って 、

  「 少し顎を上げて 、小さく口をひらいて 、汚れた

  着物を着て 、細い脛を出し 、履きつぶしかけの草

  鞋で 」、車椅子を押す主人公の歩調に合わせて 、

  歩いてくれている 、

   と主人公の目に映るのが 、市( いちのひじり )

  空也上人 であることを思いだす 。物語の狂言回し 、

  京都 、六波羅蜜寺の寺宝「 空也上人立像 」のイメ

  ージと重なる 。

  久し振りに 、身につまされて 、心に響く小説た 。

 

   

 

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なむあみだぶつ Long Good-bye 2024・12・06

2024-12-06 05:44:00 | Weblog

 

  今日の「お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の

  「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。

   今から50年ほど前の1976年の「週刊朝

  日」に連載されたもの 。

   備忘のため 、「 山寺の中の浮世絵 」と題

  された小文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。

   司馬遼太郎さんの「 街道をゆく 」の場合 、

  「 すこし無駄話をしたい 」で はじまる 件 ( くだ

  り ) は 、存外おもしろい 。

   400年近く続いた平安時代の初期を生きた伝教

  大師 最澄弘法大師 空海の話柄 。

   引用はじめ 。

   「 この別所温泉を持つ野は 、塩田平(しおだだ
   いら)とよばれる 。信州らしく文字どおり高燥
   の地で 、降雨量はすくなく 、標高は温泉のあ
   たりで六五〇メートルだという 。」

   「 別所温泉は もとは近郷の湯治場で 、湯治客は
   たね屋の屋敷に間借りした 。いま別所温泉の  ( 蚕のたね屋 )
   伝統のある宿屋はたいてい たね屋 だった家で

     すということだった 。  」

   「 常楽寺は 、丘陵の中腹の台上にある 。台上
   までは 、石段を登る 。のぼりつめると 、本
   坊がある 。きれいなわらぶきの屋根をかぶっ
   ていた 。
    寺域は緑につつまれ 、あたり一面に蟬しぐれ
   が降りつづけて 、もうそれだけで十分な感じ
   がした 。
    この寺は 、本坊だけである 。本坊は坊さん
   の住まいだから 、参詣者は来ない 。参詣者は
   この寺が持っている観音堂( 北向観音 )のほ
   うへゆく 。観音堂は 、本坊からすこし離れて
   いる

   「 すこし無駄話をしたい 。

    天台宗を興した最澄は 、入唐(につとう)して
   天台教学の体系を持ち帰ったが 、当時『 新仏
   教 』として認識されていた密教については 、
   帰路 、越州に寄ったとき 、そこにあったいわ
   ば田舎密教を持ち帰っただけであった 。
    日本で最澄を待っていた宮廷人たちは 、最澄
   がかついで帰った風呂敷包みの内容のうち 、か
   んじんの天台体系よりも密教に関心をよせた 。
   最澄はいそぎ時代の要求に応(こた)えるべく自
   分の体系に密教部門をを入れたが 、その内容の
   薄弱さが気になり 、そのことがかれの生涯の苦
   のたねになった 。
    それに反し 、最澄と同時期に入唐した空海は
   もともと独学で密教の専門家になっていただけ
   でなく 、長安において正密の法統を承け 、か
   れ自身の論理でもって巨大な結晶体のような体
   系をつくりあげ 、かつ密教の重大事である行
   (ぎょう)についても間然するところがなかった
   最澄はこの空海から密教を学ぼうとしてうまく
   ゆかず 、一方 、南都のふるい仏教側との論争
   で精根をついやし 、五十六歳で世を去った
    帰国後の最澄は自分の教学を防衛することに
   明け暮れたために 、持ち帰ったものを整理す
   るいとまもなく 、その風呂敷包みを叡山の山
   頂に置いたまま世を去ったといっていい 。
   澄は 、叡山に戒壇を置くことが生涯の念願だ
   った 。戒壇とは官僧を作りだすための資格授
   与所といっていい 。下野(しもつけ)の薬師寺 、
   奈良東大寺 、大宰府の観世音寺の三カ所にあ
   ったが 、最澄は叡山にも設けてほしいと官に
   運動し 、奈良の僧の反対に遭ってついに実現
   せず 、実現したのはその死後だった 。
    最澄は前半生において恵まれ 、後半生にお
   いては稔りのない抗争にひきこまれてかんじ
   んの教学面では何もしていないにひとしい
   ただ死後 、後継者にめぐまれた人間の一
   生は 、棺のふたを覆ってもなおわからない
   いうのが 、最澄の場合であろう 。空海の教
   学は後継者によって発展しなかった発展す
   る余地がないほどに空海が生前完璧なものに
   してしまっていたからである 。これに対し
   澄の後継者たちはちがっていた 。師匠が叡山
   の山の上に風呂敷包みをほとんど解きもせずに
   置きすてて世を去ったあと 、みなで風呂敷を
   解き 、そのぼう大な内容を手分けして整理し
   たり 、研究したりして 、この系統から無数
   の学僧や思想的人物が出 、ついに鎌倉仏教と
   いう日本化した仏教世界を創造するにいたった
   空海の真言宗には 、そういう華やかさは 、そ
   の後なかった 。」

  「  最澄の死後 、円仁(えんにん)(794-864))
   が巨大である
    かれは下野(栃木県)の産で 、最澄の生前
   に入門し 、その死後 、最澄が生涯苦にして
   いたその希薄な密教体系を充実させるべく 、
   東シナ海の波濤を越えて入唐した
    その旅行記である『 入唐求法巡礼行記(にっ
   とうぐほうじゅんれいこうき) 』は 、若いこ
   ろのライシャワー氏によって世界中に紹介さ
   れ 、いまでは玄奘(げんじょう)の『 大唐西
   域記 』、マルコ・ポーロの『 東方見聞録
   とともに世界の三大旅行記にかぞえられるに
   至っている 。
    円仁は九世紀の唐をつぶさに見 、帰国後 、
   幾年か経って天台座主に任ぜられ 、その死
   後 、慈覚大師(じかくだいし)とおくりな
   れた 。」

  「 この常楽寺に付属する『 北向観音 』の観
   音堂伝説では 、この円仁が登場する 。
    天長二(825)年に 、この常楽寺の丘陵の一
   角で 、毎夜 、光明が射し 、地鳴りをとも
   なった 。朝廷がおどろき 、天台座主円仁を
   派遣した 。( 実際には 、円仁が天台座主に
   なるのはそれから二十九年後 ) 。円仁が現地
   で修法(すほう)を営むうち 、空中から声が
   あって 、自分は観音である 、わが像を刻み
   北向きに安置せよ 、といった 。円仁はこの
   像を刻み 、いわれるとおりに北向きにし 、
   観音堂にまつった 。
    おそらくこの伝説は 、観音堂にあつまって
   いた聖たちが創作したのであろう 。
   『 そういうありがたい観音さまだ 』
    と 、ひとびとに触れまわったにちがいない 。
   別所温泉の湯元のの一つは 、古い時代 、大
   師ノ湯とよばれた 。この大師は空海・弘法大
   師の大師ではなく 、円仁・慈覚大師の大師で
   あるらしい 。ここの聖たちは 、本来の常楽
   寺が天台宗であるというので弘法大師にする
   わけにゆかず 、慈覚大師にしたのに相違ない 。
   天台宗なら 、宗祖の最澄・伝教大師にすれば
   よさそうなものだが 、最澄は人文科学者のよ
   うな人格的印象があるため 、聖たちが最澄を
   持ちだすわけにゆかなかったのかもしれない 。
   それに初期の聖は 、多くは密教の徒であった 。
   最澄はいわば密教の落第生であったために最
   澄という大学総長のような印象の名前では神
   秘伝説の主人公にするわけにゆかず 、いっそ
   天台密教を確立したその弟子の円仁のほうが
   いいということだったのであろう 。
   『 善光寺だけお詣りしていてはいけない 。
   北向観音に詣らなければ片詣りになる
    と 、善光寺とワン・セットにして売りだす
   ということをかんがえたのも 、観音堂の聖
   たちに相違ない 。かれらが湯聖をも兼ね 、
   ひとびとに観音堂の参籠をさせて仏果を得さ
   せる一方 、湯治をさせて神経痛などを癒さ
   せるということにしていたのかと思える 。
   そうでなければ別所という地名ができるわけ
   がないと思うが 、どうであろう 。 」

   引用おわり 。

   。。(⌒∇⌒);。。

  ( ついでながらの

    筆者註:「 最澄(さいちょう、766年〈天平神護2年〉
        もしくは767年〈神護景雲元年〉- 822年
        〈弘仁13年〉)は 、平安時代初期の日本
        の仏教僧 。日本の天台宗の宗祖であり 、
        伝教大師(でんぎょうだいし)として広く
        知られる 。近江国(現在の滋賀県)滋賀
        郡古市郷(現:大津市)もしくは生源寺
        (現:大津市坂本)の地に生れ 、俗名は
        三津首広野(みつのおびとひろの)。唐に
        渡って仏教を学び 、帰国後 、比叡山延暦
        寺を建てて日本における天台宗を開いた 。 」

        「 空海(くうかい、774年〈宝亀5年〉- 835
        年4月22日〈承和2年3月21日〉)は 、平安
        時代初期の僧 。諡号は弘法大師(こうぼう (諡号の読みは しごう)
        だいし)。真言宗の宗祖 。俗名は佐伯眞魚
        (さえき の まお)。

         日本天台宗の宗祖である最澄と共に 、日
        本仏教の大勢が 、今日称される奈良仏教
        から平安仏教へと 、転換していく流れの
        劈頭(へきとう)に位置し 、中国より真
        言密教をもたらした 。能書家でもあり 、
        嵯峨天皇・橘逸勢と共に 三筆 のひとり
        数えられている 。

         仏教において 、北伝仏教の大潮流である
        大乗仏教の中で 、ヒンドゥー教の影響も
        取り込む形で誕生・発展した 密教 がシル
        クロードを経て中国に伝わった後 、中国
        で伝授を受けた奥義や経典・曼荼羅などを 、
        体系立てた形で日本に伝来させた人物でも
        ある 。

        以上ウィキ情報 。

        Yahoo ! 知恵袋 にこんな Q&A がありました 。

         「Q:間然するところなし。の『 間然 』の
            語源を教えてください 。
            どうして 、『 欠点をついてあれこれ
            と批判・非難すること 。』という意味
            になるのですか ?
          A:『 間然 』の意味は『 欠点をついて
            あれこれと批判・非難すること 』では
            なく 、『 非難されるような欠点があ
            ること 』です 。
            『 間 』は『 すきま 』、『 然 』は
            『 状態・様子 』ですから 、『 間然 』
            は『 すきまがある状態 』ということ
            になります 。すきまがあれば完全では
            ない 、すなわち欠点がある 、という
            意味になるわけです 。」)

 

  

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