今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)の著書「完本 文語文」から。
「詩人といえば漢詩人のことだった明治七、八年、当時の少青年を驚かしたものに聖書と讃美歌の翻訳がある。翻訳者の名は植村正久、井深梶之助ほか二、三が残っているだけで、あとの大ぜいは残ってない。いずれも当時の最高の知識人で根底に和漢の学がある人々である。
ゆふぐれしづかに いのりせんとて よのわづらひより しばしのがる――にはじまる讃美歌(植村正久訳)のごときは全文平かなである。当時の漢学書生の目にどんなに新鮮で高雅に聞えたか察しられる。これがのちの新体詩に与えた影響ははかり知れない。
――空の鳥を見よ、播(ま)かず、刈らず、倉におさめず、汝(なんぢ)らはこれより遥かに優(すぐ)るる者ならずや。汝らのうち誰か思ひ煩(わづら)ひて身の丈(たけ)一尺を加へ得(え)んや。
前にもあげたが、山上の垂訓(すいくん)のなかの一節である。私はキリスト教徒ではないがこの章は暗記している。全文をあげたいがその紙幅がない。やむなくきれぎれにあげる。
――この故に明日のことを思ひ煩(わづら)ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦労は一日で足れり。
――昼の十二時より地の上あまねく暗くなりて、三時に及ぶ。三時ころイエス大声に叫びて『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言ひ給ふ。わが神、わが神なんぞ我を見すて給ひしとの意(こころ)なり。
『汝らのうち、罪なきものまず石もて打て』。『一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一粒にてあらん。もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし』。
私の主旨は箴言(しんげん)を並べることではない。私がこれを暗記しているのは、この文にあるリズムの故(ゆえ)である。文語文の故である。けれども今さがすと私の手中にあったはずの讃美歌集がない。八方に問合せたが、あるのはすべて口語訳で、文語訳はとうの昔絶版にしたという。」
(山本夏彦著「完本 文語文」文藝春秋社刊 所収)
「詩人といえば漢詩人のことだった明治七、八年、当時の少青年を驚かしたものに聖書と讃美歌の翻訳がある。翻訳者の名は植村正久、井深梶之助ほか二、三が残っているだけで、あとの大ぜいは残ってない。いずれも当時の最高の知識人で根底に和漢の学がある人々である。
ゆふぐれしづかに いのりせんとて よのわづらひより しばしのがる――にはじまる讃美歌(植村正久訳)のごときは全文平かなである。当時の漢学書生の目にどんなに新鮮で高雅に聞えたか察しられる。これがのちの新体詩に与えた影響ははかり知れない。
――空の鳥を見よ、播(ま)かず、刈らず、倉におさめず、汝(なんぢ)らはこれより遥かに優(すぐ)るる者ならずや。汝らのうち誰か思ひ煩(わづら)ひて身の丈(たけ)一尺を加へ得(え)んや。
前にもあげたが、山上の垂訓(すいくん)のなかの一節である。私はキリスト教徒ではないがこの章は暗記している。全文をあげたいがその紙幅がない。やむなくきれぎれにあげる。
――この故に明日のことを思ひ煩(わづら)ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦労は一日で足れり。
――昼の十二時より地の上あまねく暗くなりて、三時に及ぶ。三時ころイエス大声に叫びて『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言ひ給ふ。わが神、わが神なんぞ我を見すて給ひしとの意(こころ)なり。
『汝らのうち、罪なきものまず石もて打て』。『一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一粒にてあらん。もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし』。
私の主旨は箴言(しんげん)を並べることではない。私がこれを暗記しているのは、この文にあるリズムの故(ゆえ)である。文語文の故である。けれども今さがすと私の手中にあったはずの讃美歌集がない。八方に問合せたが、あるのはすべて口語訳で、文語訳はとうの昔絶版にしたという。」
(山本夏彦著「完本 文語文」文藝春秋社刊 所収)