今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)の著書「完本 文語文」の「あとがき」から。
「文語文は平安の昔の口語が凍結され、洗練に洗練をかさねて『美』と化したものである。洗練の極次第に末梢的かつ
煩瑣になった、そこへたまたま明治のご一新である。横文字の侵入をいかに消化するか、文語文は悪戦苦闘してにわかに
生気をとりもどした。」
「保険や銀行はそれまでなかったものである。明治の人は保険を命請負(いのちうけおい)、災難請負、銀行を銭屋(ぜにや)と
訳したが識者の採用するところにならなかった。いずれも微笑をさそう名訳だがえらそうでない。えらそうな漢語訳のほうが
採用されて今日(こんにち)に及んでいる。
文語が口語に転じたのは『欲』である。口語ならかゆい所に手がとどくと思ったのが運のつきだった。横文字はとどくと思って
まねしたのである。中江兆民は西洋人はくどいといった。尾崎紅葉はもう分ったよと言った。言葉は少し不自由なほうが
いい。時々もう少しで分らなくなる寸前に分るのがいい。分ったとたん胸なでおろすような快感が
ある。
全国に旧制高等学校が出来て、教師が誤訳を指摘されるのを恐れて、要らぬ品詞まで訳して、生徒はその口まねして日本語は
リズムを失った。リズムを失えば暗誦の能力を失う。詩は朗読されるものだったのに黙読されるようになった。文字のない時代は、
すべては暗誦されたのである。講談落語はつい最近まで耳からおぼえること古人のようだった。『真書太閤記』は千枚近くあろう。
稗田阿礼(ひえだのあれ)は一言半句過たず暗記していたに違いない。
ローマ人はギリシャを滅ぼしてもその子弟にギリシャ語を学ばせた。食卓でもギリシャ語を語った。
ローマは滅びてもフランスの家庭では十七世紀までラテン語で話した、家庭教師、給仕人、(ぬひ)にいたるまでラテン語を
話すものを雇った。
海軍中佐広瀬武夫は日記を漢文で書いた。プーシキンの詩を漢詩に訳した。私は墓石の返り点のない白文を読むことが出来ない。
鷗外の先妻は若くして死んだ。眉目妍好(びもくけんこう)ならずといえども白文を読むこと流るるが如くだった
と鷗外はただ二行ではあるが追悼している。断絶は戦後にあったのではない、すでに明治初年にあったのである。
漢文の読みくだし文を私は文語文として扱っている。和漢混淆文も。
藤村詩集はあんなに読まれたのに口語自由詩になって以来詩は全く読者を失った。読者を失うと詩は難解になる。純文学も読者を
失うと同時に難解になった。だから文語に帰れというのではない。そんなこと出来はしない。出来ることは何々ぞと私はひとり
問うているのである。
口で語って耳で分るのが言葉である。文字は言葉の影法師だと古人は言った。
もう一つリズムのない文は文ではない。朗誦できない詩は詩ではない。
語彙の貧困を言うものはあっても、言い回しの滅びたのを惜しむものはない。『そんなにいやなら勝手にお仕』。
子供のとき私はしばしば母親に言われた。」
(山本夏彦著「完本 文語文」文藝春秋社刊 所収)
「文語文は平安の昔の口語が凍結され、洗練に洗練をかさねて『美』と化したものである。洗練の極次第に末梢的かつ
煩瑣になった、そこへたまたま明治のご一新である。横文字の侵入をいかに消化するか、文語文は悪戦苦闘してにわかに
生気をとりもどした。」
「保険や銀行はそれまでなかったものである。明治の人は保険を命請負(いのちうけおい)、災難請負、銀行を銭屋(ぜにや)と
訳したが識者の採用するところにならなかった。いずれも微笑をさそう名訳だがえらそうでない。えらそうな漢語訳のほうが
採用されて今日(こんにち)に及んでいる。
文語が口語に転じたのは『欲』である。口語ならかゆい所に手がとどくと思ったのが運のつきだった。横文字はとどくと思って
まねしたのである。中江兆民は西洋人はくどいといった。尾崎紅葉はもう分ったよと言った。言葉は少し不自由なほうが
いい。時々もう少しで分らなくなる寸前に分るのがいい。分ったとたん胸なでおろすような快感が
ある。
全国に旧制高等学校が出来て、教師が誤訳を指摘されるのを恐れて、要らぬ品詞まで訳して、生徒はその口まねして日本語は
リズムを失った。リズムを失えば暗誦の能力を失う。詩は朗読されるものだったのに黙読されるようになった。文字のない時代は、
すべては暗誦されたのである。講談落語はつい最近まで耳からおぼえること古人のようだった。『真書太閤記』は千枚近くあろう。
稗田阿礼(ひえだのあれ)は一言半句過たず暗記していたに違いない。
ローマ人はギリシャを滅ぼしてもその子弟にギリシャ語を学ばせた。食卓でもギリシャ語を語った。
ローマは滅びてもフランスの家庭では十七世紀までラテン語で話した、家庭教師、給仕人、(ぬひ)にいたるまでラテン語を
話すものを雇った。
海軍中佐広瀬武夫は日記を漢文で書いた。プーシキンの詩を漢詩に訳した。私は墓石の返り点のない白文を読むことが出来ない。
鷗外の先妻は若くして死んだ。眉目妍好(びもくけんこう)ならずといえども白文を読むこと流るるが如くだった
と鷗外はただ二行ではあるが追悼している。断絶は戦後にあったのではない、すでに明治初年にあったのである。
漢文の読みくだし文を私は文語文として扱っている。和漢混淆文も。
藤村詩集はあんなに読まれたのに口語自由詩になって以来詩は全く読者を失った。読者を失うと詩は難解になる。純文学も読者を
失うと同時に難解になった。だから文語に帰れというのではない。そんなこと出来はしない。出来ることは何々ぞと私はひとり
問うているのである。
口で語って耳で分るのが言葉である。文字は言葉の影法師だと古人は言った。
もう一つリズムのない文は文ではない。朗誦できない詩は詩ではない。
語彙の貧困を言うものはあっても、言い回しの滅びたのを惜しむものはない。『そんなにいやなら勝手にお仕』。
子供のとき私はしばしば母親に言われた。」
(山本夏彦著「完本 文語文」文藝春秋社刊 所収)