今日の「お気に入り」。
「 市電の座席に坐ると、熊吾は週刊誌の下のほうから目を通し始めた。アメリカのワシントンで
行なわれた大行進の記事が目に留まった。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアという黒人
牧師の名、ワシントン大行進という見出し、人種差別撤廃と雇用拡大を求めて米国で十万人以上
が参加という小見出しに興味をそそられたのだ。記事ではキング師の演説にはわずかな誌面しか
使っていなかった。熊吾は、いちばん最近の週刊誌で、その演説の骨子を読むことができた。
── 私には夢がある。
ある日、ジョージアの赤土の丘の上で、以前の奴隷の息子たちと以前の奴隷所有者の息子たちが、
兄弟愛というテーブルにともに着き得ることを。
私には夢がある。
ある日、不正と抑圧という熱で苦しんでいる不毛の州、ミシシッピーでさえ、自由と正義という
オアシスに変わることを。
私には夢がある。
私の四人の子供たちがある日、肌の色ではなく人物の内容によって判断される国に住むことを。──
熊吾は、この黒人指導者がまだ三十四歳であることに驚いたが、演説そのものにも深い共感を
抱いて、何度も読み返した。」
( 宮本輝著 「 長流の畔 ― 流転の海 第八部 ― 」 新潮文庫 所収 )