
今日の「お気に入り」。
「 アイデンティティという、日本人の大好きな言葉がある。日本語に訳すとありがたみが
薄れるかもしれないが、本質とか本性とかを意味する言葉と思う。私はこれを、二つに
分けて考えることにしている。閉じられたアイデンティティ、と開かれたアイデンティ
ティ、の二つだ。この分類法を個人にあてはめてみると、閉じられたアイデンティティ
のほうはその人がもともともっている性質であり、開かれたアイデンティティは、その
人が出会う環境によって、その人自身が変ることによって形成される性質、というわけ
だ。もちろん、いかに環境によって変るとはいえ、もともとの本性とは完全に別の性質
になれるわけはない。家猫は竹林に放り出されてもやはり猫で、虎に変りはしない。
しかし、暖かい家の中から竹林に環境が変れば、野生猫ぐらいには変るだろう。変らな
ければ、死ぬしかないからである。
これを、ルネサンス時代のイタリアの政治思想家マキアヴェッリは、時代に合わせる才
能、とした。いかに能力に優れ、いかに好運に恵まれた人でも、その人が生きる時代に
合致しなければ成功の存続は望めないのだ、と言って。
要するに、いかに能力に秀で好運に恵まれた人でも、時代の要求に答えることのでき
ない人は、早晩衰退するしかないのである。なぜなら、これまたマキアヴェッリによ
れば、時代というものは変るものであり、昨日まで良かったことが明日も良いとはか
ぎらないからである。 」
( 塩野七生著「想いの軌跡」(新潮文庫)新潮社刊 所収 )

