今日の「お気に入り」。
「 私は神戸の灘(なだ)区に生まれた。阪神淡路大震災で火の海になったところから少し
山側へ行ったところである。
だから、神戸の海が見えて、六甲山系をあおぐ阪神地区一帯の風景は、私という人間
の思い出の出発点となっている。
母は、生前、この阪神間のたたずまいが好きで、大阪市で暮らすようになっても、折
にふれて、夙川(しゅくがわ)や岡本や芦屋や御影(みかげ)の坂道へ行きたがった。経
済的に恵まれていたころの思い出は、つねに六甲山系と神戸の海が同時に眺望できる
坂道につながっていたのであろう。
夙川沿いの桜並木も、母が愛した風景のひとつだった。大地震で見るも無残な地と化し
たが、ようやく元の姿に戻りつつある。
倒れかけた松の大木が、倒れかけたまま新たに根を張って、夙川を覆(おお)うように
枝を拡(ひろ)げていた。
『 播半(はりはん) 』は、この夙川をずっと山のほうにのぼって行ったところに、昔日
(せきじつ)の面影を壊すことなく存在している。
小学生のとき、私は父と母につれられて『 播半 』へ行った。おそらく、父の取引先の
ご招待だったのだろう。
その日は寒く、『 播半 』のお庭に架けられた木の橋に霜が張っていて、私は橋の上で
尻もちをついた。
それから 三十数年を経て、私は『 播半 』に招かれる機会を得た。大きな橋という意
味で『 翁橋(おきなばし) 』と名づけられたその橋を玄関のところから目にした瞬間、
尻もちをついたときのことが甦(よみがえ)り、しばらく立ちつくしていた。
『 播半 』の建物は、あの大地震でもびくともしなかったという。
( 1997.6 ) 」
( 宮本輝著「血の騒ぎを聴け」新潮社刊 所収 )
「 播半 」について、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」には次のような解説
が載っています。
「 播半(はり半)は、かつて心斎橋や兵庫県西宮市に存在した創業1879年(明治12年)
の老舗料亭。」
「 初代播磨屋半兵衛が明治12年に心斎橋で創業した料亭。兵庫県西宮市の甲陽園へも出店し、
戦前は大阪市内三店と甲陽園の四店で営業されていた。
谷崎潤一郎『細雪』にも登場する料亭。
大阪市内にあった三店は太平洋戦争時に焼失。
甲陽園にかつて存在した播半(はり半)は阪神間モダニズム時代の1927年(昭和2年)
に建設されたが、2005年(平成17年)閉店。跡地は日本エスリードによる分譲マンシ
ョン『エスリード西宮甲陽園』となっている。」
阪神淡路大震災にびくともしなかった「『 播半 』の建物 」も、閉店時の2005年には築78年の
老朽建築物になっていた筈で、時代の波に抗すべくもなく呑み込まれたんでしょうね。震災後、親類の
法事で訪れたこともある「 播半 」が今から14年も前にすでに無くなっていたことをはじめて知りま
した。
ウィキペディアの解説を読んで、1931年(昭和6年)生まれの兄が入院した病院のベッドの枕許に
「細雪」の文庫本を置いていたことなども思い出しました。