「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

文政の三蔵 Long Good-bye 2021・06・23

2021-06-23 05:21:00 | Weblog





  今日の「お気に入り」は、「 文政 」の「 ぞう 」さん の 二人目、近藤重蔵 さん の 紹介 です。

  フリー百科事典「 ウィキペディア 」には 、近藤重蔵 さん について、次のような解説、書き込みがあります。


 「 近藤 重蔵(こんどう じゅうぞう、明和8年(1771年) - 文政12年6月16日(1829年7月16日))は、

  江戸時代後期 の 幕臣 、探検家 。
諱 は 守重(もりしげ)、号は 正斎・昇天真人 。

  間宮林蔵 、平山行蔵 と共に“ 文政の三蔵 ”と呼ばれる。」

「 生涯
  明和8年(1771年)、御先手組与力 ・ 近藤右膳守知 の 三男 として 江戸駒込 に生まれる。
  山本北山 に 儒学を師事 する。同門に太田錦城・小川泰山・太田全斎がいる。
  幼児の頃から 神童 と言われ、8歳で四書五経を諳んじ、17歳で私塾「白山義学」を開く
  など、並々ならぬ学才の持主であった。
  生涯、60余種1500余巻の著作を残している。


  父の隠居後の寛政2年(1790年)に 御先手組与力 として出仕、 火付盗賊改方 としても
  勤務 する。
  寛政6年(1794年)には、 松平定信 の行った 湯島聖堂 の 学問吟味 において 合格 する。
  寛政7年(1795年)、長崎奉行手付出役 、寛政9年(1797年)に江戸へ帰参し 支払勘定方 、
  関東郡代付出役 と栄進する。


  寛政10年(1798年)、幕府 に 北方調査の意見書 を 提出 して 松前蝦夷地御用取扱 となる。
  4度蝦夷地(北海道)へ赴き、 最上徳内 と 千島列島、択捉島を探検 、同地に
  「 大日本恵土呂府 」の木柱を立てる。松前奉行設置にも貢献する。
  蝦夷地調査 、 開拓 に 従事 し、 貿易商人 の 高田屋嘉兵衛 に 国後から択捉間の航路 を 調査させる 。


  1798年の探検の帰路、広尾にて悪天により足止めになり道の悪さを痛感、私費を投じて
  道路を開削させた。いわゆる「ルベシベツ山道」(現、広尾町ルベシベツ-ビタタヌンケ間)
  であり、北海道における道路建設(開削)の嚆矢となった。

  享和3年(1803年)、譴責 により 小普請方 となる。

  文化4年(1807年)にロシア人の 北方侵入( フヴォストフ事件、文化露寇 )に伴い 再び
   松前奉行出役 となり、5度目の 蝦夷入り となる。その際利尻島や現在の札幌市周辺を
  探索する。

  江戸に帰国後、将軍 徳川家斉 に 御目見 を許される。その際、札幌地域の重要性を説き、
  その後の札幌発展の先鞭を開いた。

  文化5年(1808年)に 江戸城 紅葉山文庫 の 書物奉行 となる。
しかし 自信過剰で豪胆な性格が
  見咎められ、文政2年(1819年)に 大坂勤番御弓奉行 に 左遷 される。この時、大塩平八郎
  と会ったことがあり、重蔵は大塩に「 畳の上では死ねない人 」という印象を抱き、大塩も
  また重蔵を「 畳の上では死ねない人 」という印象を抱いた。
   ( 筆者註:まるで誰かが聞いてきたみたい !? 「自信過剰で豪胆な性格が見咎められ」って何の咎(とが) ?
    因みに、「 『 大塩平八郎 』の乱(おおしおへいはちろうのらん)」は、江戸時代の天保8年(1837年)に、
    大坂(現・大阪市)で 大坂町奉行所 の 元与力 大塩平八郎(中斎)とその門人らが起こした 江戸幕府に対
    する反乱で、「 大塩の乱 」とも言う。大河ドラマ で 採り上げられる テーマ になることは ない。 )


  文政4年(1821年)に 小普請入差控 を命じられ、 江戸 滝ノ川村 に 閉居 する。


 鎗ヶ崎事件
  重蔵は本宅のほかに、三田村 鎗ヶ崎(現在の東京都 目黒区 中目黒 2-1 )に広大な 遊地 を 所有
  しており、文政2年(1819年)に富士講の信者たちに頼まれて、その地に 富士山 を 模した
  富士塚( 目黒富士 )を 築造 した。目黒新富士 、近藤富士 、 東富士 などと呼ばれて 参詣客 で賑い、
  門前には露店も現れた。

  文政9年(1826年)に上記の 三田の屋敷の管理 を任せていた 長 男の 近藤富蔵 が、 屋敷の敷地争い
  から 町民7名 を 殺害 ( 無礼打ち? ) して 八丈島 に 流罪 となり、父の 重蔵 も 連座 して 近江国 大溝藩( 藩主は 分部
  光寧 。現在の 滋賀県 高島市 )に 預けられる 。


 配流
  大溝藩 は緊急に 陣屋敷地内 に 牢屋敷 を 増築 し、配流人 を迎えた。光寧 は 重蔵 を 丁重に扱った と
  言われている。時の 著名人 でもあった 近藤 は、小藩といえど 京 に近く学問や見識を得ることへ
  の関心が高かった 大溝藩 において、重蔵 は格好の 珍客 とも言えた。 流人 ではあったが 近藤 は
  書物を与えられ、藩士を相手に意見交換を行ったり、藩士 と 漢詩を唱和 したりしていたことが
  伝わる。近藤 は 大溝 で 本草学書 『 江州本草 』 全30巻 を著した。大溝 を中心とした 近江国の
  植物 の、いわゆる 植物図鑑 であったとされるが、 現存 しない 。近藤 は 流罪中の罪人 であり、
  当初の監禁状態が緩んでいたとしても 陣屋周辺の散策採集 であり、近江国内を自由に出歩く
  ようなことはできなかったため、当然ながら 大溝藩内部の協力 があったと推測される。

  配流 のまま、文政12年6月16日(1829年7月16日)に 同地にて 死去 。享年 59 。大溝藩 内の 円光禅寺
  の塔頭 瑞雪院 に葬られた。死後の万延元年(1860年)に 重蔵 の 連座処分 は 赦された が、長男の
  富蔵 は半世紀以上赦免されず、富蔵による亡父の墓参は、富蔵の流刑から53年を経た明治13年
  (1880年)にようやく実現した。

  明治44年( 1911年 )、正五位 を追贈された 。



  間宮林蔵 さん 、近藤重蔵 さん 、平山行蔵 さん 、

  「 文政の三蔵 」は、お三方とも、ほんの 200年ほど前の 日本国 で、あるがまま、情熱の赴くままに、

  生きた方たち だったような ・・・ 。奇人、変人 揃い 、でも、皆さん、畳の上で亡くなったようで ・・・ 。
 











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