「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

九曜の星 Long Good-bye 2021・06・25

2021-06-25 05:15:00 | Weblog
  


   今日の「お気に入り」は、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」で 読んだ「 坊城俊民 ( ぼうじょう

  としたみ ) 」さん についての 記事 です。

   坊城俊民 さん は、1963年 ( 昭和38年 ) ころ 、筆者が通っていた 都立北園高等学校の 教頭職 をお務めで、

  筆者が高校 一年生のとき、先生 の 「 古文 」の授業 を 週一回 楽しく聴講しておりました。 北園高校 の校歌

  「 九曜の星 」は、同校が 東京府立第九中学校 だったころの「 九 」の字に因んで、坊城先生 が 作詞 されたもの

  と記憶します。

  うろ覚えですが、 確か「 九曜の星は 高くして ・・・・・・ ここ北園の 学び舎に 柊の葉は 緑なり 。

      柊の葉は 緑なり( リフレイン ) 」 だったような。

        ( 筆者註: 東京都 の ホームページ に 坊城先生が作詞された、校歌 の 歌詞全文 がありました。
             ( www.metro.ed.jp/kitazono-h/school_life/symbols.html )
              歌詞 は 3番 まであり、次の通り です。
              1番は、静かで穏やかなメロディーで始まり、2番で転調し、3番は1番と同じメロディーです。
              56年 の 時を経て、筆者の脳裏に 格調高い歌詞 の 全文 が 甦りました。

           「 校歌  ●作詞 坊城 俊民 ●作曲 横田 勇

              1 
              九曜(くよう)の星は高くして 深き歩みをしるべせむ
              我等自由の乾坤(けんこん)に まことの道を踏み分けむ
              2
              君ともしびをかゝげてよ われこの旗をうち立てむ
              聞け若草の萌ゆる音 遠しほさゐのとよみあり
              3
              時世(ときよ)の色はうつろへど
              こゝ北園の学び舎(まなびや)に ひゝらぎの葉はみどりなり  」 )


  「 坊城 俊民( 1917 ( 大正6 ) 年 3月29日 - 1990 ( 平成2 ) 年 4月6日 )は、日本の国文学者、教育者 。

  「 人物
   東京市にて、堂上華族 の 嫡子 として誕生。
   父・坊城俊良(としなが)は 伯爵 で 宮内官 。母 は 子爵 入江為守 の娘・朔子(叔父に、昭和天皇 の 侍従長 を
   務めた 入江相政 )。神田区駿河台 と 麻布区笄町 に育つ。

   1935年( 昭和10年 )から翌年にかけ、親友・ 長與道夫 の 叔父 ・ 長與善郎( 作家 )の 邸宅 にて、 中世国文学
   の研究者 風巻景次郎 の指導で 源氏物語 を初めて読み、 文学的に大きな影響を受ける 。


   学習院 では 文芸部委員 をつとめ、校友会誌『 輔仁会雑誌 』に詩や散文を発表すると共に、文芸部発行の
   『 雪線 』誌 に 自伝的小説『 鼻と一族 』などを発表。学習院高等科 ( 旧制 ) 在学中、 三宅徳嘉(フランス文学
   者)の紹介で ヴィリエ・ド・リラダン の作品を知り傾倒 する。

   1937年( 昭和12年 )秋、学習院高等科 ( 旧制 ) 3年 のとき、当時 中等科 ( 旧制 ) 1年 の 平岡公威 ( 作家 ・
   三島由紀夫、〈 ひらおか きみたけ 〉1925年〈 大正14年 〉1月14日 - 1970年〈 昭和45年 〉11月25日 )と相識る。
   三島の文才を最も早く認めた者 の一人 で、 三島 と大部の文学的な手紙 を 毎日やりとりし、三島 の短篇
   『 詩を書く少年 』の R のモデルとなった。


   1939年( 昭和14年 )、東文彦 との 共著 の形で 作品集 『 幼い詩人・夜宴 』を 刊行する話 が持ち上がった
   ため、東の両親と懇意な 美術史家 児島喜久雄 の 紹介 で 志賀直哉 へ 序文を貰いに伺った が、『 作品として
   甘い 』ことを理由に 序文執筆 を拒絶 される。

   1941年( 昭和16年 )、東京帝国大学 文学部 国文科 卒業 。このころ経験した恋愛を題材に、1941年( 昭和
   16年 )から 1942年( 昭和17年 )にかけて 小説 『 舞 』 を執筆 。しかし、この 恋愛が原因 で 三島 や 東 や
   徳川義恭( 兄は 侍従 の 義寛 ) から 見捨てられた形 になる( このため、 三島 、 東 、 徳川 の 同人誌
   『 赤絵 』創刊 に加えてもらえなかった )。

   三島 が、「 しかし 坊城さん は いつまで 志賀 、芥川 、 リラダン から お脱け出になれない のでせう 」
   ( 1943年2月3日付 東文彦宛書簡 )と嘲った ように、1943年( 昭和18年 )2月 には 二人の関係 は 冷却 して
   いたが、坊城 の側では 三島 への友情を断ち切れず、1943年(昭和18年)、同人誌 『 赤絵 』に対抗する気持ち
   から 50部限定 の 豪華な小冊子 『 縉紳物語 』を発行 。扉に 『 三島由紀夫に捧ぐ 』と記した。

    ( 筆者註 : 1942年 ( 昭和17年 ) 、1943年 ( 昭和18年 ) は、太平洋戦争の真っ最中、真っ只中 。25、6歳の坊城さん
          や 18、9歳の平岡さん が 息をしてらっしゃった 東京 、彼ら若い文学青年たち の周囲 に 戦争は 全く
          影をおとしていないかのようです。空襲 が始まる前の 日本国内 、束の間の平和 。
          無力感から、文学、芸術にのめりこんでいく彼らの心情が察しられます。思い出すのは、平安時代の
          歌人・藤原定家( 1162 - 1241 ) の日記『 明月記 』の 一節、『 世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。
          紅旗征戎吾ガ事二非ズ 』。 )

   1948年( 昭和23年 )、自伝的短篇集 『 末裔 』を上梓 。三島から、『 少年期における私の最初の芸術的
   衝動の萌生え は、これを悉く 坊城氏 に負ふと言つても過言ではない 」と 跋文 を寄せられてはいた が、
   三島との関係は このとき 既に冷却していた 。


   1955年( 昭和30年 )ごろ、西銀座の路上で偶然に出会った三島から『 よう! 』と挨拶され、その不遜な
   態度に感情を害す 。以後、永らく絶交状態が続く 。


   1969年( 昭和44年 )2月20日 前後 に、発刊間もない『 豊饒の海 第一部・ 春の雪 』 の感想を、三島へ
   書き送り、 1969年( 昭和44年 )3月12日付の 返書 で、『 永い 御無沙汰をお詫びいたします 』、『 ほめ
   ていただいたことは、何よりも確実性のある喜びであります 。 正にお墨附きを頂いたようなもの 』と礼を
   述べられ、これがきっかけとなり 旧交が復活 。さらに 三島 は、 菊田一夫演出 の『 春の雪 』 芸術座公演
   の上演プログラムにも、『 堂上華族 の 坊城俊民氏 が、これを読んで太鼓判を捺してくれたところから、
   私の描いた 貴族生活 は、少なくとも 太宰治 の 『 斜陽 』のやうな イカサマもの ではない と思はれる 』
   と寄稿している。

   1970年( 昭和45年 )1月17日 、銀座の 『 マキシム・ド・パリ 』にて 三島夫妻 と 晩餐 。1970年( 昭和
   45年 )2月27日 から 4月3日 にかけて、フジテレビ( 当時、末弟・ 坊城俊周 が勤務していた )で『 春の雪 』
   が ドラマ化( 主演は 吉永小百合 と 市川海老蔵 〈 12代目 市川團十郎 〉)。 その際 三島の要望 により
   時代考証 を 担当 した 。


   1970年( 昭和45年 )11月19日付 で 三島は、 坊城に宛てた最後の書簡 を書き、一節に、『 十四、五歳の
   ころが、 小生の黄金時代 であつた と思ひます 。実際 あのころ、家へかへると、すぐ『 坊城さんのお手紙
   は来てなかつた ? 』ときき、 樺いろ と 杏子いろ の 中間のやうな色 の 封筒 をひらいたときほどの 文学的
   甘露には、その後 行き会ひません 』と筆記した 。

   1941年( 昭和16年 )旧制芝中学校( 私立 )を経て 1943年( 昭和18年 )から 公立学校教員( 地方公務員 )
   となり
東京府立第二十四中学校( 東京都立 北園高等学校 内に設置 )および、東京府立 第二十四中学校
   設置中止にともない 東京府立第九中学校 ( 東京都立北園高校 )で 国語教師 を務める( - 1964年 )
   東京都立池袋商業高校校長 、東京都立志村高校校長( 2007年( 平成19年 )東京都立板橋有徳高校に統合 )。

   終生にわたり、式部職嘱託(歌会始講師〈こうじ〉)を務めた。」


   

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