「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

1221年 承久3年5月 Long Good-bye 2022・12・17

2022-12-17 05:17:00 | Weblog



    今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」
   掲載の記事「 承久の乱 」 。
    1192年ならぬ1185年の鎌倉幕府成立から36年目 の1221年 ( 承久3年 ) 、
   今から 801年前の5月の出来事 。キンさん たった 8人分 、大して昔じゃありません 。
    60年ほど前 、筆者が高校生だった頃 、当時 、都立高校の歴史の教師をされていた
   歴史学者 の 網野善彦先生の「 日本史 」の授業を選択しなかった筆者は 、
   恥ずかしながら 、
   この有名な「 乱 」の時代背景や詳細を 、最近まで 、知りませんでした 。
    あの 後白河法皇の孫で 、日本の第82代天皇 で 、後に 上皇となった 、後鳥羽 ( 1180年8月6日
   〈 治承4年 7月14日 〉- 1239年3月28日〈 延応元年2月22日 〉が 、御年40歳のみぎり 、
   乾坤一擲 起こした 「 承久の乱 」 の後 、隠岐 の島に 18年間も 島流し に
されたことも 。
    「 歴史を学び 、見ることは自分を知ること 」 。
    堪忍袋の緒は切れるためにある 。

   引用はじめ 。

   「 承久の乱( じょうきゅうのらん )は 、1221年( 承久3年 )に 、
    後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して 討伐の兵を挙げて
    敗れた兵乱 。日本初の武家政権という新興勢力を倒し 、古代より
    続く朝廷の復権を目的とした争いである 。平安時代末期の貴族階
    級の没落と武士階級の躍進を経て誕生した鎌倉幕府は 、武家による
    関東の地方政権に過ぎなかったが 、承久の乱の勝利以降 、東国
    そして朝廷の支配が強固だった西国へと 、武家政権として初めて
    日本全土の統治を目指すことになった 。争いの呼称は 、承久の変 、
    また第三者の視点で 承久合戦 ともいう


     日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いである 。
    鎌倉幕府の初代将軍源頼朝から3代将軍実朝までの3人は清和天皇
    の血を引く源氏将軍であり 、朝廷にとって身内ともいえ 、この間
    は武力行使には至らなかった 。しかし 、2代将軍頼家に続き3代
    将軍実朝も暗殺されて鎌倉から源氏将軍が途絶えると 、幕府は朝
    廷から形だけの4代将軍を迎え入れ 、実際は将軍の補佐役である
    執権の北条義時が幕府の実権を握ったことで 、この2年後 、後鳥
    羽上皇は挙兵したが 幕府に敗北し 隠岐に配流された 。
    以後 、鎌倉幕府は 、朝廷の権力を制限し 、京都に朝廷を監視する
    六波羅探題を置き 、皇位継承等にも影響力を持つようになった


     なお 、承久の乱の150年程前の11世紀後半 、鎌倉に源氏の
    守り神の神社として創建され 、それ以来 、鎌倉武士の守護神と
    なった 鶴岡八幡宮 には 摂末社 の 今宮・新宮神社 があり 、
    承久の乱で敗者となった 後鳥羽上皇 、順徳天皇 、土御門天皇 の
    3人が祀られている 。 」

     ( 中 略 )

   「 戦後処理
     ( 承久3年(1221年)) 7月 、首謀者である 後鳥羽上皇 は 隠岐島 、
     順徳上皇 は 佐渡島 に それぞれ配流された 。討幕計画に反対して
    いた 土御門上皇 は 自ら望んで 土佐国 へ配流された( 後に 阿波国
    へ移される )。後鳥羽上皇の皇子の 雅成親王( 六条宮 )、頼仁親王
    ( 冷泉宮 )もそれぞれ 但馬国 、備前国 へ配流された 。仲恭天皇
    ( 九条廃帝 、仲恭の贈諡は明治以降 )は 廃され 、後鳥羽の同母兄
    行助入道親王( 守貞親王 )の子が即位した( 後堀河天皇 )。
    親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた 西園寺公経 が 内大臣に任じら
    れ 、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになる


    後鳥羽上皇の下にあった膨大な荘園群は没収され 、新たに治天として
    後堀河天皇の院政を執ることになった 行助入道親王( 後高倉院 )に
    与えられた 。ただしその支配権は幕府が握っていた


     討幕計画に参加した上皇方の『 合戦張本公卿 』と名指しされた 一条
    信能 、葉室光親 、源有雅 、葉室宗行 、高倉範茂ら 公卿は 鎌倉に
    送られる途上で処刑され 、坊門忠信らその他の院近臣も各地に流罪
    または謹慎処分となった 。また 藤原秀康 、藤原秀澄 、後藤基清 、
    佐々木経高 、河野通信 、加藤光員ら 御家人を含む京方の武士が
    多数粛清 、追放された 。しかし 大江親広は 父 広元 の嘆願もあり
    赦免されている


     乱後 、幕府軍の総大将の 泰時 、時房 らは 京の 六波羅に滞在し 、
    朝廷の監視や西国武士の統率を行う 。朝廷は 京都守護に代り 新た
    に設置された 六波羅探題 の監視を受けるようになり 、皇位継承をも
    含む朝廷に対する鎌倉幕府の統制が強化された


     京方の公家 、武士の所領 約3000箇所が没収され 、幕府方の御家
    人に分け与えられ 新補地頭 が大量に補任された


    ( 後 略 )                         」

    引用おわり 。

     隠岐島 にも 佐渡島 にも 行ったことはありません 。
    上皇様の18年の島暮らし 、ずい分と長い年月 。享年59 。

    最近は 、” 1192( いい国 ) つくろう 鎌倉幕府 ” ではなく 、
    ” 1185( いい箱 )つくろう 鎌倉幕府 ”という語呂合わせが定番だとか 。

    「 歴史を学ぶことは 、自分を見ることである 。
    歴史を学ぶ 、見つめることが 、自分を見る?
    すぐに理解できない人は 、少し考えればわかる 。
     生きるということは歴史の中に立っていることなのだ 。」






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