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「 ウィキペディア 」掲載の記事「 山椒魚 ( 小説 ) 」 。
「 山椒魚 」は 、中学だか高校だかの国語教科書で 、 さわり を 読んだ記憶がある 。
その年の夏休みの宿題の読書感想文の課題図書が 、「 屋根の上のサワン 」。
ともにディープな小説 。
引用はじめ。
「 『 山椒魚 』( さんしょううお )は 、井伏鱒二の短編小説 。
成長しすぎて 自分の棲家である岩屋から出られなくなってしまった
山椒魚の悲嘆をユーモラスに描いた作品で 、井伏の代表的な短編作
品である 。井伏の学生時代の習作『 幽閉 』( 1923年 )を改稿し
たもので 、1929年 、同人雑誌『 文芸都市 』5月号 に初出 、その
後 作品集『 夜ふけと梅の花 』に収録され 、以降たびたび井伏の
著作集の巻頭を飾り 、国語教科書にも採用され広く親しまれている
作品であったが 、自選全集に収録する際に 井伏自身によって 結末
部分が大幅に削除されたことで議論も呼んだ 。
あらすじ
本節では 、井伏自身による削除前の内容を示し 、削除による異同
は以降の節で解説する 。
谷川の岩屋をねぐらにしていた山椒魚は 、あるとき 自分が岩屋の
外に出られなくなっていることに気がつく 。二年の間岩屋で過ごし
ているうちに体が大きくなり 、頭が出入り口に『 コロップの栓 』
のようにつかえるようになってしまったのである 。ろくに動き回る
こともできない狭い岩屋のなかで山椒魚は虚勢を張るが 、外に出て
行くための方途は何もない 。彼は 出入り口から外の谷川を眺め 、
目高の群れが先頭の動きにあわせてよろめいているのを見て嘲笑し 、
渦に巻き込まれて沈んでいく白い花弁をみて『 目がくらみそうだ 』
とつぶやく 。
ある夜 、岩屋のなかに 小蝦 がまぎれこみ 、山椒魚の横っ腹に
しがみつく 。山椒魚を岩石と勘違いして卵をうみつけているらしい 。
しきりに物思いにふけっているらしい 小蝦 の様子をみて山椒魚は 、
屈託したり 物思いに耽ったりするやつは莫迦だと言う 。しかし
山椒魚がふたたび出入り口に突進し 、栓のようにはまり込んだり
といった騒ぎをはじめると 、はじめは狼狽していた 小蝦 も失笑する 。
その後 、山椒魚は外へ出ることを再度試みるが徒労に終わり 、涙を
流して神にむかって窮状を訴える 。彼は 岩屋の外で自由に動き回って
いる水すましや蛙の姿を感動の目で眺めるが 、そうしたものからは
むしろ目をそむけたほうがよいと考え目蓋を閉じる 。彼は 自分が
唯一自由にできる目蓋のなかの暗闇に没頭し 、寒いほど独りぽっちだ 、
と言ってすすり泣く 。
悲嘆にくれるあまり『 悪党 』となった山椒魚は 、ある日 、岩屋に
飛び込んできた蛙を閉じ込め 、外に出られないようにした 。蛙は
安全な窪みのなかに逃げ込んで虚勢を張り 、2匹の生物は激しい口論を
始める 。二匹のどちらも外に出られず 、互いに反目しあったまま 1年
が過ぎ 、2年が過ぎた 。蛙は 岩屋内の杉苔が花粉を散らす光景を見て
思わず深い嘆息を漏らし 、それを聞きとめた山椒魚はもう降りてきても
いいと呼びかける 。しかし 蛙は空腹で動けず 、もう死ぬばかりになっ
ていた 。お前は今何を考えているようなのだろうか 、と聞く山椒魚に
対して 蛙は 、今でも別にお前のことを怒ってはいないんだ 、と答える 。
( 中 略 )
結末の削除をめぐって
1985年( 昭和60年 )10月 、新潮社より新たに『 井伏鱒二自選全集 』
の刊行が開始された 。この全集は 帯文に『 米寿をむかえた筆者が 、
初めて作品を厳選し 徹底的な削除・加筆・訂正を行った決定版 』と銘打
たれており 、『山椒魚 』もその『 訂正 』の例外にはならなかった 。
従来どおり 第一巻の巻頭に置かれた『 山椒魚 』は 、その結末部分が
10数行に渡ってカットされており 、この結果『 自選全集 』に収めら
れた『 山椒魚 』は以下の文章で終わるかたちとなっている 。
更に 一年の月日が過ぎた 。二個の鉱物は 、再び 二個の生物に変化した 。
けれど 彼等は 、今年の夏は お互い黙り込んで 、そして お互いに自分
の嘆息が相手に聞こえないように注意してゐたのである 。
つまり 従来の結末部にあった 、『 今でも べつにお前のことをおこつて
はゐないんだ 』でくくられる蛙との和解の場面が 丸ごと削除されたので
ある 。また 同全集の『 覚え書 』には 、改稿のもととなった井伏の考え
がこう記された 。『 後年になつて考へたが 、外に出られない山椒魚は
どうしても出られない運命に置かれてしまつたと覚悟した 。『 絶対 』と
いふことを教えられたのだ 。観念したのである 。』
この末尾の対話の部分は 元来 武田泰淳 や 河盛好蔵 などから評価を受
けていた部分であったこともあり 、この突然の改稿は大きな波紋を呼び 、
削除に対する賛否や作者の真意 、そして『 作品 』は いったい誰のものか 、
といったことをめぐって文壇を賑わわせただけでなく 、その騒動は マス
メディアからも注目を受けた 。井伏作品を愛読していた 野坂昭如 は
『 週刊朝日 』誌上で 、『 山椒魚 』は もはや書き手を離れている作品
であるはずだと書き 、これまでの読者はどうなるのかと強く反発した 。
井伏の伝記を執筆した 安岡章太郎 も 、当時の講演でこの件に触れ
『 削ったことによって締まってくるとも思うが 、そうすると 前の部分が
食い足りない 」として「 十分納得がいかない 」心境を語っている 。
評論家の古林尚は 、これは『 改訂 』ではなく『 破壊 』ではないかと
述懐し 、この末尾の削除によって 、山椒魚と蛙の関係は単なる『 いじめ 』
の問題に縮小されてしまったと難じた 。同年10月10日付けの『 朝日新聞 』
のコラム『 天声人語 』はこの騒動に触れたうえで 、「『 山椒魚 』の末尾
削除は 、もしかすると八十七歳になった作家の 、人間と現代文明への絶望
ではなかったか 」と書いている 。
一方で 井伏自身は 、『 自選全集 』と同時期に行われた 河盛好蔵 との
対談で『 どうしようもないものだもの 。山椒魚の生活は 』『 ずいぶん
迷ったですよ 』といった発言をしており 、前述の 10月10日付けの『 天声
人語 』では『 あれは失敗作だった 。もっと早く削ればよかったんだ 』と
いった言葉も伝えられている 。しかし さらにのちの 89歳直前に行われた
NHKのインタビューでは『 直さないほうがよいようだなあ 』『( では戻し
ますか 、という記者の質問に対して )それがよいかもわからん 。誰か書
いてくれるといいな 』と 迷いを口に出しており 、こうした井伏の言動も
自選全集版の『 山椒魚 』に対する消極的な評価の一因となっている 。
ただし 批評家や研究者からは 、読者は 読み比べて好きなほうを選べば良
いのだとする意見や 、改稿後のほうが解釈の幅が広がっているという意見 、
文体の完成度という観点から新稿のほうを評価する意見 なども提示されて
いる 。
その後 、井伏が 1993年( 平成5年 )7月10日に死去するまでの間にも
『 山椒魚 』は 複数の作品集に収録されたが 、井伏が 自選全集収録時の
『 山椒魚 』を再び改訂することはなかった 。 」
引用おわり 。
( ついでながらの
筆者註 : 「 井伏鱒二( いぶせ ますじ 、1898年〈 明治31年 〉2月15日 - 1993年
〈 平成5年 〉7月10日 )は 、日本の小説家 。本名は 井伏滿壽二( 読み同じ )。
広島県安那郡加茂村( 現福山市 )出身 。
筆名は 釣り好きだったことによる 。文化勲章受章 。
来 歴
1898年 、広島県安那郡加茂村粟根に父・井伏郁太 、母・ミヤ の次男 として
生まれた 。井伏家は 室町時代の1442年( 嘉吉2年 )まで遡れる旧家で 、
『 中ノ士居 』の屋号をもつ代々の地主である 。5歳のときに父を亡くし 、
特に祖父にかわいがられて育つ 。
1905年 、加茂小学校入学 。
1912年 、旧制広島県立福山中学校( 現広島県立 福山誠之館高等学校 )
に進学した 。同校の庭には池があり 、2匹の山椒魚が飼われていて 、
これがのちに処女作として発表され 、世に知られることとなる『 山椒魚 』
に結びついた 。作文は得意だったが 成績はあまり振るわず 、中学校3年生
ころから画家を志し 、卒業すると 3か月間 奈良・京都を写生旅行 。その
とき泊まった宿の主人が 偶然 橋本関雪 の知り合いと聞き 、スケッチを
託して 橋本関雪に入門を申し込んだが 断られ 、やむなく帰郷する 。
( 後 略 ) 」
以上ウィキ情報 。 )