「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

手のひらを太陽に Long Good-bye 2023・04・07

2023-04-07 04:11:00 | Weblog




   今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典
  「 ウィキペディア 」掲載記事にみる 漫画家 やなせたかし さん
   ( 1919 - 2013 ) の 生涯 。適宜取捨して引用します 。70代以
   降 、晩年の20年はここでは割愛 。

  「 生 涯
    生い立ち
     1919年2月6日 、東京府北豊島郡滝野川町( 現:東京都北区 )生まれ 。
    父方の実家は 高知県香美郡在所村( 現:高知県香美市香北町 )にあり 、
   伊勢平氏の末裔で300年続く旧家 。父親は上海の東亜同文書院を卒業後 、
   上海の日本郵政に勤めた後 、講談社に移り『 雄辯 』で編集者を務めた 。
    父親は やなせの生まれた翌年に東京朝日新聞に引き抜かれ 、1923年
   ( 大正12年 )に特派員として 単身上海に渡る 。その後 、後を追い
   家族で上海に移住 。この地で弟・千尋が生まれるものの 、父親がアモイ
   に転勤となったのをきっかけに 、再び家族は離散 。やなせらは 東京に
   戻る 。
    1924年( 大正13年 )に 父親がアモイで客死 。遺された家族は 父親の    やなせさん 5歳の頃
   縁故を頼りに高知市に移住する 。弟は後免町( 現・南国市 )で開業医
   を営んでいた伯父( 父の兄 )に引き取られ 、まもなく母が再婚したた
   め 、やなせも 同じく伯父に引き取られて育てられる 。この伯父は趣味
   人でもあり 、かなり影響を受けたという 。
    後免野田組合小学校( 現・南国市立後免野田小学校 )、高知県立高知
   城東中学校( 現・高知県立高知追手前高等学校 )に進む 。少年時代は
   『 少年倶楽部 』を愛読し 、中学生の頃から絵に関心を抱いて 、官立
   旧制東京高等工芸学校図案科( 現・千葉大学工学部総合工学科デザイン
   コース )に進学した 。同期生に 風間完 がいる 。
   
   戦争体験
    官立旧制東京高等工芸学校図案科( 現:千葉大学工学部デザイン学科 )
   1939年卒業後 、東京田辺製薬( 現:田辺三菱製薬 )宣伝部に就職 。
    しかし 、1941年( 昭和16年 )に徴兵のため 大日本帝国陸軍の野戦    やなせさん 22歳の頃
   重砲兵第6連隊補充隊( 通称号は西部軍管区隷下部隊を意味する西部
   第73部隊。野重6連隊自体は既に中国へ動員・出征中であり 、やなせ
   が入営したのは在小倉の補充隊 )へ入営 。学歴を生かし幹部候補生
   を志願し 、その内の 乙幹 に合格し 暗号を担当する下士官となる 。
    補充隊での教育後は 日中戦争( 中国戦線 )に出征 。部隊では主に
   暗号の作成・解読を担当するとともに 、宣撫工作にも携わり 、紙芝
   居を作って地元民向けに演じたこともあったという 。従軍中は戦闘の
   ない地域に居り 、職種も戦闘を担当するものではなかったため 、一
   度も敵に向かって銃を撃つことはなかったという 。最終階級は陸軍
   軍曹 。なお 、大東亜戦争では 弟が戦死している


   漫画家への道
    終戦後しばらくは戦友らとともにクズ拾いの会社で働いたが 、絵へ
   の興味が再発して 1946年に 高知新聞に入社 。『 月刊高知 』編集    やなせさん 27歳の頃
   部で編集の傍ら文章、漫画、表紙絵などを手掛けていたが 、同僚の
   小松暢( こまつ のぶ )が転職し上京するのを知り 、自らも退職し
   上京した 。
    1947年( 昭和22年 )に上京し 小松と結婚 。この時期 、やなせは    やなせさん 28歳の頃
   漫画家を志すようになるが 、東京での生活がまだ確立されていなか
   ったために 、兼業漫画家という道を選ぶ 。やなせ曰く『 とにかく
   貧乏は嫌だった 』。同年 、三越に入社し 、宣伝部でグラフィック
   デザイナーとして活動する傍ら 、精力的に漫画を描き始める 。三越
   の社内報はもとより 、新聞や雑誌でも作品を発表 。当初は 漫画家の
   グループ『 独立漫画派 』に入ったが 、まもなく『 漫画集団 』に移
   った 。1953年( 昭和28年 )3月に三越を退職し 、専業漫画家となる 。
   漫画で得る収入が三越の給料を三倍ほど上回ったことで独立を決意し
   たという 。

    なお 、やなせの三越時代の代表的な仕事に 、包装紙『 華ひらく 』
   ( 図案は猪熊弦一郎 )の『 mitsukoshi 』のレタリングがある 。

   困ったときのやなせさん
    1953年に独立した後も 精力的に漫画を発表していたものの 、手塚   やなせさん 34歳の頃
   治虫らが推し進めたストーリー漫画が人気になり 、やなせが所属し
   ていた『 漫画集団 』が主戦場としていた『 大人漫画 』『 ナンセ
   ンス漫画 』のジャンル自体が過去の物と看做されるようになり 、
   作品発表の場自体が徐々に減っていく 。1964年に NHKの『 まんが   
   学校 』に講師として 3年間 レギュラー出演したり 、その翌年に
   まんがの入門書を執筆するなど 、大人漫画・ナンセンス漫画の復興
   に取り組み 、1967年には 4コマ漫画『 ボオ氏 』で 週刊朝日漫画賞
   を受賞したものの 、1960年代後半は 本当にきつかったという 。    40代のやなせさん

    漫画家としての仕事が激減したやなせだったが 、舞台美術制作や
   放送作家などその他の仕事のオファーが 次々と舞い込むようになり 、
   生活的に困窮することはなかった 。業界内では『 困ったときのや
   なせさん
』とも言われていたという 。やなせ曰く『 そのころの
   僕を知っている人は 、僕を漫画家だと全然思っていない人が結構
   いる
』。この時期にはコネクションが繋がり繋がって作品が生ま
   れ 、ヒットに至るという現象が2度起きている 。

    1960年 、永六輔作演出のミュージカル『 見上げてごらん夜の星    やなせさん 41歳の頃
   を 』の舞台美術を手掛けた際に 、作曲家のいずみたくと知り合い 、
   翌1961年に『 手のひらを太陽に 』を作詞 。同曲は 教科書に載る
   ほどのスタンダードな曲となっている 。
    1969年 、虫プロダクションの劇場アニメ『 千夜一夜物語 』制作
   の際に 、エロチック路線を求めていた手塚治虫は 、やなせの漫画
   を気に入り 美術監督として招き入れた 。同作がヒットしたお礼と
   して 、手塚はポケットマネーで 、やなせが 1967年に手掛けたラジ
   オドラマ『 やさしいライオン 』をアニメ映画化し 、毎日映画コン
   クールの大藤信郎賞を受賞 。同作は やなせの代表作のひとつとなっ
   ている 。

   詩人・絵本作家への道
    1960年代半ば 、漫画集団の展覧会に 、まだ弱小企業だった頃の
   山梨シルクセンター( 現:サンリオ )の社長 辻信太郎が来場 。
   やなせにグラフィックデザイナーとしてのオファーを入れたこと
   から 、サンリオとの交流を深める 。やなせは 当初は菓子のパッ
   ケージを手掛けていたが 、1966年9月に やなせが処女詩集『 愛
   する歌 』を出版社から出そうとした際に 、『 それならうちで
   出してくれ 』とサンリオは 出版事業に乗り出した 。『 愛する
   歌 』は サンリオの業績を押し上げるほどのヒットを記録した 。
   出版事業に乗り出したサンリオの元で 、絵本の執筆も始める 。
   1969年には短編メルヘン集の十二の真珠で『 アンパンマン 』が   やなせさん 50歳の頃
   初登場 。ただし このアンパンマンは後のものとは異なる作品で
   あり 、ヒーロー物へのアンチテーゼとして作られた大人向けの
   作品である


    1973年( 昭和48年 )には雑誌『 詩とメルヘン 』を立ち上げ     やなせさん 54歳の頃
   編集長を務める一方で 、馬場のぼるらと『 漫画家の絵本の会 』
   を立ち上げるなど 、詩人・絵本作家としての活動を本格化させる 。
   同年に 1969年発表した アンパンマン を子供向けに改作し 、フレ
   ーベル館の月刊絵本『 キンダーおはなしえほん 』の一冊『 あん
   ぱんまん 』として発表 。同作は 当初評論家 、保護者 、教育関
   係者からバッシングを受けた 。元は大人向けに書いた作品だった
   が 、次第に 、幼児層に絶大な人気を得るようになっていった 。

    1988年( 昭和63年 )には 、テレビアニメ『 それいけ! アン      やなせさん 69歳の頃
   パンマン 』の放映が日本テレビで開始される 。テレビ業界的に
   かなり不安視されており 、スポンサーが少なかった 、数局のみ
   の放送などと逆境を余儀なくされるが 、まもなく大人気番組と
   なり 、日本テレビ系列で拡大放映された 。またキャラクター
   グッズなども爆発的に売れ 、やなせは一躍売れっ子になった 。


   引用おわり 。

  ( ついでながらの
    筆者註 : 「 晩 年
          ユニークで元気なキャラクターを演じ続け そのイメージが強いが 、
         アンパンマンのヒットの時期から既に体調は必ずしも良好ではなく 、
         60歳代末期には 腎臓結石 、70歳代には白内障 、心臓病 、80歳代
         には膵臓炎 、ヘルニア 、緑内障 、腸閉塞 、腎臓癌 、膀胱癌 、
         90歳代には腸閉塞( 再発 )、肺炎 、心臓病 ( 再発 )と病歴を
         重ねていた 。なお 、膀胱癌は 10度以上再発している 。」 (;´д`)
        「 晩年はチャイドルをもじって『 オイドル 』( 老いドル 、老人の
         アイドル )を自称していた 。
          2011年( 平成23年 )春に視界がぼやけることを理由に漫画家引退
         を考え 、最後の大舞台として生前葬を企画 。友人らに告別式の文章
         を書いてもらい『 清浄院殿画誉道嵩大居士 』という戒名入りの位牌
         も準備したが 、その発表直前に 東日本大震災が発生し 、不謹慎だか
         らという理由で計画は白紙になった 。震災直後『 アンパンマンのマ
         ーチ 』が復興のテーマソング的扱いをされたり 、『 笑顔を失って
         いた子供たちが アンパンマンを見て笑顔を取り戻した 』といった
         良い話がやなせの元に届いたことから 、引退を撤回したという 。
         その後 、被災地向けにアンパンマンのポスターを制作したり 、奇
         跡の一本松をテーマにした CD を自主制作するなどした 。 」
        「 死去の翌日 、東京新聞 2013年10月16日付の追悼記事で『 ダンディーで
         信仰あついクリスチャンだった 』と報じられていたが 、後の東京新聞2013年
         11月20日付で『 やなせたかしさんをクリスチャンとしたのは誤りでした 』
         との訂正記事が出ている 。やなせ本人は 58歳時に 1976年3月刊行の『 月刊
         面白半分57号 特集宗教なんかいらない! 』にて『 ぼくには宗教心というのは
         全くないのです 。おそらく これからも宗教に頼ることはないでしょう
。』
         『 宗教を認めながら 、神を崇拝しながら 、宗教心がないのです 。』と語っ
         ている 。
          私生活においては 1993年( 平成5年 )11月22日 、妻の暢が 75歳で死去して
         いる 。暢夫人との間に子供はいなく 、アンパンマンを 2人の子供であるとして
         いる 。
          絵柄はエルジェの影響を受けている 。
          漫画家のレイモン・ペイネを心の師匠とエッセイで語っており 、ペイネ美術館
         の開館時にはイラストとコメントを寄せている 。 」
                       (⌒∇⌒)
         「 エルジェ( Hergé 、1907年5月22日 - 1983年3月3日 )は 、
          ベルギーの漫画家 。代表作『 タンタンの冒険 』
          ( Les Aventures de Tintin )の作者として知られる 。
          他にも『 クックとプッケ 』( Quick et Flupke )シリーズ
          などの作品を描いている 。 」
                       (o^―^o)
         「 レイモン・ジャン・ペイネ( 発音上ではレモン・ペネ )
          ( Raymond Jean Peynet 、1908年11月16日 - 1999年1月14日 )
          は 、フランスの画家、漫画家 。 」
           以上ウィキ情報 。)



       
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする