今日の「 お気に入り 」は 、今 読み進めている
本の中から 、備忘のため 、抜き書きした 文章 。
物語のラスボスで 、癇性病みの 酒井雅楽頭 の
独白 。
引用はじめ 。
「『 事は割れた 』とまた雅楽頭は呟いた 、
『 時期を延ばそう 、いまはだめだ 、いま
は不利だということはたしかだ 』
彼は三歩ゆき 、五歩戻った 。徳川氏万代
のために 、仙台 、加賀 、薩摩の三雄藩は
邪魔だ 。北方と中部と南方に 、これら雄
藩が安泰にすわっているということは 、幕
府将来のためになにより好ましくない 。こ
れは体に三つの癌を持っているようなもの
だ 。このままにしておいては 、必ずどれ
かが命取りになる 。たとえば取潰すことが
無理なら 、分割して力を弱める策だけはと
らなければならない 。
―― おれの手でそれをやってみせる 。
おれのほかにそれをやる者はいない 。きっ
とおれのこの手でやってみせる 。こう思い
ながら 、彼は自分の右の手を見 、柔らかな 、
色の白い 、そして太った手をひろげ 、それ
から 、なにかを掴むように 、静かに 、しっ
かりとその指を握りしめた 。彼はまた立停り 、
右手の拳で左の掌を強く打った 。『 よし 、
網を解いてやる 』と雅楽頭は声に出して云っ
た 、『 こんどは掛けた網を解いてやる 、だ
がよく聞け 、原田甲斐 、―― 網は解いてや
るが 、きさまに琴は弾かせぬぞ 、琴も弾か
せぬ 、歌もうたわせぬぞ 』
雅楽頭は五拍子ばかリ黙って立っていた 。
それまで頭の中で渦巻いていたものが 、しだ
いに一点へ凝集し 、鮮やかなかたちをとるの
が感じられた 。『 やむを得まい 』と彼は放
心したように呟いた 、『 秘策のもれるのを
防ぐためには 、知っている者をぜんぶやるほ
かはない 、甲斐はその第一だ 、彼はそれを
知り 、六十万石を護った 。しかしその代償
は払わなければならない 、評定の席へ出る者
にはみな 、その代償を払わせてくれるぞ 』
雅楽頭は歩いていって 、元の席に坐り 、文
台の上の鈴(れい)を取って鳴らした 。そして 、
懐紙を出して ぐいぐいと顔を拭き 、それを繰
り返したあと 、もういちど鈴を鳴らした 。 」
引用おわり 。
物語のこの章には 、「 断琴断歌 」という小見出しが
付けられている 。この物語の中の酒井侯は 、関西弁で
いうところの「 かんしょやみ =癇性病み 」。この手の
人は結構いるけど 、往々にして短命である 。
( ついでながらの
筆者註:以下は 、酒井雅楽頭 ( 1624 - 1681 ) の出自 。
「 上野( こうずけ )前橋藩主 。 雅楽頭 (うたのかみ)と
称す。 譜代古参の執政として 病弱の4代将軍徳川家綱
を補佐 、1666年大老となる 。 邸が 江戸城大手門の下
馬札近くにあったことから〈 下馬将軍 〉ともいわれる
ほど権勢を振るった 。」
「 酒井 忠清( さかい ただきよ )は 、江戸時代
前期の譜代大名 。江戸幕府老中 、大老 。上野
厩橋藩の第4代藩主 。雅楽頭系酒井家9代 。
第4代将軍・徳川家綱の治世期に大老となる 。
三河以来の譜代名門酒井氏雅楽頭家嫡流で 、
徳川家康・秀忠・家光の3代に仕えた酒井忠世
の孫にあたる 。下馬将軍 。
寛永元年(1624年)10月19日 、酒井忠行の長男
(嫡出長子)として 酒井家江戸屋敷に生まれる 。
幼少期は不明であるが 、酒井家江戸屋敷で育て
られたと考えられている 。
寛永7年(1630年)1月26日に将軍・家光が忠清
の祖父・忠世邸に渡御しており 、忠清も初御目
見して金馬代を献上し 、家光から来国光の脇差
を与えられている 。『 東武実録 』によれば 、
さらに1月29日には大御所・秀忠が同じく忠世邸
に渡御し 、このときも忠清が初御目見し太刀馬
代を献上し 、国俊の脇差を与えられている 。
寛永9年(1632年)12月1日には江戸城に初登営し 、
弟の忠能とともに将軍家光に謁見している 。
寛永13年(1636年)3月19日には祖父・忠世 、
同年11月17日には父・忠行が相次いで死去する 。
翌寛永14年(1637年)1月4日に遺領12万2,500石
のうち上野厩橋藩10万石の相続を許され 、同日
には弟の忠能にも上野伊勢崎藩を分地された 。
寛永15年(1638年)に出仕し 、従五位下・河内
守に任じられる 。雅楽頭家嫡流として父の忠行
が務めていた 奏者番 を命じられ 、武家故実を
習得して殿中儀礼の諸役を務める 。この年には
忠能と共に上野へ初入国をしている 。なお 、
同年には土井利勝と酒井忠勝が大事の折の登城
を命じられ 、これが後の大老の起こりとされる 。
寛永18年(1641年)には3代将軍・徳川家光に嫡
子・家綱が誕生 。忠清は 家光付きの本丸付家臣
であり 、幼少の家綱との接触は儀礼を通じての
みであったが 、忠能は家綱付の家臣団に加わっ
ている 。正保元年(1644年)12月には松平定綱
の娘・鶴姫と婚礼 、慶安元年(1648年)には長
男の忠明が生まれるが 、鶴姫は慶安3年(1650年)
に死去 。慶安4年(1651年)4月には家光が死去
し 、8月には家綱が将軍宣下を受ける 。大老・
酒井忠勝 、老中・松平信綱や後見の保科正之 、
家綱付家臣団の松平乗寿らに補佐された家綱政
権が成立し 、忠清は引き続き 奏者番 を務め 、
10月には左近衛権少将へ任官し 、雅楽頭へ改名
を命じられる 。( 後 略 ) 」
以上ウィキ情報 ほか 。 )
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます