「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

断琴断歌 Long Good-bye 2024・05・28

2024-05-28 05:50:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、今 読み進めている

 本の中から 、備忘のため 、抜き書きした 文章 。

  物語のラスボスで 、癇性病みの 酒井雅楽頭 の

 独白 。 

  引用はじめ 。

   「『 事は割れた 』とまた雅楽頭は呟いた 、
  『 時期を延ばそう 、いまはだめだ 、いま
  は不利だということはたしかだ 』
   彼は三歩ゆき 、五歩戻った 。徳川氏万代
  のために 、仙台 、加賀 、薩摩の三雄藩は
  邪魔だ 。北方と中部と南方に 、これら雄
  藩が安泰にすわっているということは 、幕
  府将来のためになにより好ましくない 。こ
  れは体に三つの癌を持っているようなもの
  だ 。このままにしておいては 、必ずどれ
  かが命取りになる 。たとえば取潰すことが
  無理なら 、分割して力を弱める策だけはと
  らなければならない 。
   ―― おれの手でそれをやってみせる 。
   おれのほかにそれをやる者はいない 。きっ
  とおれのこの手でやってみせる 。こう思い
  ながら 、彼は自分の右の手を見 、柔らかな 、
  色の白い 、そして太った手をひろげ 、それ
  から 、なにかを掴むように 、静かに 、しっ
  かりとその指を握りしめた 。彼はまた立停り 、
  右手の拳で左の掌を強く打った 。『 よし 、
  網を解いてやる 』と雅楽頭は声に出して云っ
  た 、『 こんどは掛けた網を解いてやる 、だ
  がよく聞け 、原田甲斐 、―― 網は解いてや
  るが 、きさまに琴は弾かせぬぞ 、琴も弾か
  せぬ 、歌もうたわせぬぞ 』
   雅楽頭は五拍子ばかリ黙って立っていた 。
  それまで頭の中で渦巻いていたものが 、しだ
  いに一点へ凝集し 、鮮やかなかたちをとるの
  が感じられた 。『 やむを得まい 』と彼は放
  心したように呟いた 、『 秘策のもれるのを
  防ぐためには 、知っている者をぜんぶやるほ
  かはない 、甲斐はその第一だ 、彼はそれを
  知り 、六十万石を護った 。しかしその代償
  は払わなければならない 、評定の席へ出る者
  にはみな 、その代償を払わせてくれるぞ 』
   雅楽頭は歩いていって 、元の席に坐り 、文
  台の上の鈴(れい)を取って鳴らした 。そして 、
  懐紙を出して ぐいぐいと顔を拭き 、それを繰
  り返したあと 、もういちど鈴を鳴らした 。    」

  引用おわり 。

  物語のこの章には 、「 断琴断歌 」という小見出しが

 付けられている 。この物語の中の酒井侯は 、関西弁で

 いうところの「 かんしょやみ =癇性病み 」。この手の

 人は結構いるけど 、往々にして短命である 。

 

 

 ( ついでながらの

   筆者註:以下は 、酒井雅楽頭 ( 1624 - 1681 ) の出自 。 

      「 上野( こうずけ )前橋藩主 。 雅楽頭 (うたのかみ)と
       称す。 譜代古参の執政として 病弱の4代将軍徳川家綱
       を補佐 、1666年大老となる 。 邸が 江戸城大手門の下
       馬札近くにあったことから〈 下馬将軍 〉ともいわれる
       ほど権勢を振るった 。」

      「 酒井 忠清( さかい ただきよ )は 、江戸時代
       前期の譜代大名 。江戸幕府老中 、大老 。上野
       厩橋藩の第4代藩主 。雅楽頭系酒井家9代 。
       第4代将軍・徳川家綱の治世期に大老となる 。
        三河以来の譜代名門酒井氏雅楽頭家嫡流で 、
       徳川家康・秀忠・家光の3代に仕えた酒井忠世
       の孫にあたる 。下馬将軍

        寛永元年(1624年)10月19日 、酒井忠行の長男
       (嫡出長子)として 酒井家江戸屋敷に生まれる 。
       幼少期は不明であるが 、酒井家江戸屋敷で育て
       られたと考えられている 。

        寛永7年(1630年)1月26日に将軍・家光が忠清
       の祖父・忠世邸に渡御しており 、忠清も初御目
       見して金馬代を献上し 、家光から来国光の脇差
       を与えられている 。『 東武実録 』によれば 、
       さらに1月29日には大御所・秀忠が同じく忠世邸
       に渡御し 、このときも忠清が初御目見し太刀馬
       代を献上し 、国俊の脇差を与えられている 。
        寛永9年(1632年)12月1日には江戸城に初登営し 、
       弟の忠能とともに将軍家光に謁見している 。

        寛永13年(1636年)3月19日には祖父・忠世 、
       同年11月17日には父・忠行が相次いで死去する 。
       翌寛永14年(1637年)1月4日に遺領12万2,500石
       のうち上野厩橋藩10万石の相続を許され 、同日
       には弟の忠能にも上野伊勢崎藩を分地された 。

        寛永15年(1638年)に出仕し 、従五位下・河内
       守に任じられる 。雅楽頭家嫡流として父の忠行
       が務めていた 奏者番 を命じられ 、武家故実を
       習得して殿中儀礼の諸役を務める 。この年には
       忠能と共に上野へ初入国をしている 。なお 、
       同年には土井利勝と酒井忠勝が大事の折の登城
       を命じられ 、これが後の大老の起こりとされる 。

        寛永18年(1641年)には3代将軍・徳川家光に嫡
       子・家綱が誕生 。忠清は 家光付きの本丸付家臣
       であり 、幼少の家綱との接触は儀礼を通じての
       みであったが 、忠能は家綱付の家臣団に加わっ
       ている 。正保元年(1644年)12月には松平定綱
       の娘・鶴姫と婚礼慶安元年(1648年)には長
       男の忠明が生まれるが 、鶴姫は慶安3年(1650年)
       に死去 。慶安4年(1651年)4月には家光が死去
       し 、8月には家綱が将軍宣下を受ける 。大老・
       酒井忠勝 、老中・松平信綱や後見の保科正之 、
       家綱付家臣団の松平乗寿らに補佐された家綱政
       権が成立し 、忠清は引き続き 奏者番 を務め 、
       10月には左近衛権少将へ任官し 、雅楽頭へ改名
       を命じられる 。( 後 略 ) 

        以上ウィキ情報 ほか 。 )

 

    

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