「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

手のひらを太陽に Long Good-bye 2023・04・07

2023-04-07 04:11:00 | Weblog




   今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典
  「 ウィキペディア 」掲載記事にみる 漫画家 やなせたかし さん
   ( 1919 - 2013 ) の 生涯 。適宜取捨して引用します 。70代以
   降 、晩年の20年はここでは割愛 。

  「 生 涯
    生い立ち
     1919年2月6日 、東京府北豊島郡滝野川町( 現:東京都北区 )生まれ 。
    父方の実家は 高知県香美郡在所村( 現:高知県香美市香北町 )にあり 、
   伊勢平氏の末裔で300年続く旧家 。父親は上海の東亜同文書院を卒業後 、
   上海の日本郵政に勤めた後 、講談社に移り『 雄辯 』で編集者を務めた 。
    父親は やなせの生まれた翌年に東京朝日新聞に引き抜かれ 、1923年
   ( 大正12年 )に特派員として 単身上海に渡る 。その後 、後を追い
   家族で上海に移住 。この地で弟・千尋が生まれるものの 、父親がアモイ
   に転勤となったのをきっかけに 、再び家族は離散 。やなせらは 東京に
   戻る 。
    1924年( 大正13年 )に 父親がアモイで客死 。遺された家族は 父親の    やなせさん 5歳の頃
   縁故を頼りに高知市に移住する 。弟は後免町( 現・南国市 )で開業医
   を営んでいた伯父( 父の兄 )に引き取られ 、まもなく母が再婚したた
   め 、やなせも 同じく伯父に引き取られて育てられる 。この伯父は趣味
   人でもあり 、かなり影響を受けたという 。
    後免野田組合小学校( 現・南国市立後免野田小学校 )、高知県立高知
   城東中学校( 現・高知県立高知追手前高等学校 )に進む 。少年時代は
   『 少年倶楽部 』を愛読し 、中学生の頃から絵に関心を抱いて 、官立
   旧制東京高等工芸学校図案科( 現・千葉大学工学部総合工学科デザイン
   コース )に進学した 。同期生に 風間完 がいる 。
   
   戦争体験
    官立旧制東京高等工芸学校図案科( 現:千葉大学工学部デザイン学科 )
   1939年卒業後 、東京田辺製薬( 現:田辺三菱製薬 )宣伝部に就職 。
    しかし 、1941年( 昭和16年 )に徴兵のため 大日本帝国陸軍の野戦    やなせさん 22歳の頃
   重砲兵第6連隊補充隊( 通称号は西部軍管区隷下部隊を意味する西部
   第73部隊。野重6連隊自体は既に中国へ動員・出征中であり 、やなせ
   が入営したのは在小倉の補充隊 )へ入営 。学歴を生かし幹部候補生
   を志願し 、その内の 乙幹 に合格し 暗号を担当する下士官となる 。
    補充隊での教育後は 日中戦争( 中国戦線 )に出征 。部隊では主に
   暗号の作成・解読を担当するとともに 、宣撫工作にも携わり 、紙芝
   居を作って地元民向けに演じたこともあったという 。従軍中は戦闘の
   ない地域に居り 、職種も戦闘を担当するものではなかったため 、一
   度も敵に向かって銃を撃つことはなかったという 。最終階級は陸軍
   軍曹 。なお 、大東亜戦争では 弟が戦死している


   漫画家への道
    終戦後しばらくは戦友らとともにクズ拾いの会社で働いたが 、絵へ
   の興味が再発して 1946年に 高知新聞に入社 。『 月刊高知 』編集    やなせさん 27歳の頃
   部で編集の傍ら文章、漫画、表紙絵などを手掛けていたが 、同僚の
   小松暢( こまつ のぶ )が転職し上京するのを知り 、自らも退職し
   上京した 。
    1947年( 昭和22年 )に上京し 小松と結婚 。この時期 、やなせは    やなせさん 28歳の頃
   漫画家を志すようになるが 、東京での生活がまだ確立されていなか
   ったために 、兼業漫画家という道を選ぶ 。やなせ曰く『 とにかく
   貧乏は嫌だった 』。同年 、三越に入社し 、宣伝部でグラフィック
   デザイナーとして活動する傍ら 、精力的に漫画を描き始める 。三越
   の社内報はもとより 、新聞や雑誌でも作品を発表 。当初は 漫画家の
   グループ『 独立漫画派 』に入ったが 、まもなく『 漫画集団 』に移
   った 。1953年( 昭和28年 )3月に三越を退職し 、専業漫画家となる 。
   漫画で得る収入が三越の給料を三倍ほど上回ったことで独立を決意し
   たという 。

    なお 、やなせの三越時代の代表的な仕事に 、包装紙『 華ひらく 』
   ( 図案は猪熊弦一郎 )の『 mitsukoshi 』のレタリングがある 。

   困ったときのやなせさん
    1953年に独立した後も 精力的に漫画を発表していたものの 、手塚   やなせさん 34歳の頃
   治虫らが推し進めたストーリー漫画が人気になり 、やなせが所属し
   ていた『 漫画集団 』が主戦場としていた『 大人漫画 』『 ナンセ
   ンス漫画 』のジャンル自体が過去の物と看做されるようになり 、
   作品発表の場自体が徐々に減っていく 。1964年に NHKの『 まんが   
   学校 』に講師として 3年間 レギュラー出演したり 、その翌年に
   まんがの入門書を執筆するなど 、大人漫画・ナンセンス漫画の復興
   に取り組み 、1967年には 4コマ漫画『 ボオ氏 』で 週刊朝日漫画賞
   を受賞したものの 、1960年代後半は 本当にきつかったという 。    40代のやなせさん

    漫画家としての仕事が激減したやなせだったが 、舞台美術制作や
   放送作家などその他の仕事のオファーが 次々と舞い込むようになり 、
   生活的に困窮することはなかった 。業界内では『 困ったときのや
   なせさん
』とも言われていたという 。やなせ曰く『 そのころの
   僕を知っている人は 、僕を漫画家だと全然思っていない人が結構
   いる
』。この時期にはコネクションが繋がり繋がって作品が生ま
   れ 、ヒットに至るという現象が2度起きている 。

    1960年 、永六輔作演出のミュージカル『 見上げてごらん夜の星    やなせさん 41歳の頃
   を 』の舞台美術を手掛けた際に 、作曲家のいずみたくと知り合い 、
   翌1961年に『 手のひらを太陽に 』を作詞 。同曲は 教科書に載る
   ほどのスタンダードな曲となっている 。
    1969年 、虫プロダクションの劇場アニメ『 千夜一夜物語 』制作
   の際に 、エロチック路線を求めていた手塚治虫は 、やなせの漫画
   を気に入り 美術監督として招き入れた 。同作がヒットしたお礼と
   して 、手塚はポケットマネーで 、やなせが 1967年に手掛けたラジ
   オドラマ『 やさしいライオン 』をアニメ映画化し 、毎日映画コン
   クールの大藤信郎賞を受賞 。同作は やなせの代表作のひとつとなっ
   ている 。

   詩人・絵本作家への道
    1960年代半ば 、漫画集団の展覧会に 、まだ弱小企業だった頃の
   山梨シルクセンター( 現:サンリオ )の社長 辻信太郎が来場 。
   やなせにグラフィックデザイナーとしてのオファーを入れたこと
   から 、サンリオとの交流を深める 。やなせは 当初は菓子のパッ
   ケージを手掛けていたが 、1966年9月に やなせが処女詩集『 愛
   する歌 』を出版社から出そうとした際に 、『 それならうちで
   出してくれ 』とサンリオは 出版事業に乗り出した 。『 愛する
   歌 』は サンリオの業績を押し上げるほどのヒットを記録した 。
   出版事業に乗り出したサンリオの元で 、絵本の執筆も始める 。
   1969年には短編メルヘン集の十二の真珠で『 アンパンマン 』が   やなせさん 50歳の頃
   初登場 。ただし このアンパンマンは後のものとは異なる作品で
   あり 、ヒーロー物へのアンチテーゼとして作られた大人向けの
   作品である


    1973年( 昭和48年 )には雑誌『 詩とメルヘン 』を立ち上げ     やなせさん 54歳の頃
   編集長を務める一方で 、馬場のぼるらと『 漫画家の絵本の会 』
   を立ち上げるなど 、詩人・絵本作家としての活動を本格化させる 。
   同年に 1969年発表した アンパンマン を子供向けに改作し 、フレ
   ーベル館の月刊絵本『 キンダーおはなしえほん 』の一冊『 あん
   ぱんまん 』として発表 。同作は 当初評論家 、保護者 、教育関
   係者からバッシングを受けた 。元は大人向けに書いた作品だった
   が 、次第に 、幼児層に絶大な人気を得るようになっていった 。

    1988年( 昭和63年 )には 、テレビアニメ『 それいけ! アン      やなせさん 69歳の頃
   パンマン 』の放映が日本テレビで開始される 。テレビ業界的に
   かなり不安視されており 、スポンサーが少なかった 、数局のみ
   の放送などと逆境を余儀なくされるが 、まもなく大人気番組と
   なり 、日本テレビ系列で拡大放映された 。またキャラクター
   グッズなども爆発的に売れ 、やなせは一躍売れっ子になった 。


   引用おわり 。

  ( ついでながらの
    筆者註 : 「 晩 年
          ユニークで元気なキャラクターを演じ続け そのイメージが強いが 、
         アンパンマンのヒットの時期から既に体調は必ずしも良好ではなく 、
         60歳代末期には 腎臓結石 、70歳代には白内障 、心臓病 、80歳代
         には膵臓炎 、ヘルニア 、緑内障 、腸閉塞 、腎臓癌 、膀胱癌 、
         90歳代には腸閉塞( 再発 )、肺炎 、心臓病 ( 再発 )と病歴を
         重ねていた 。なお 、膀胱癌は 10度以上再発している 。」 (;´д`)
        「 晩年はチャイドルをもじって『 オイドル 』( 老いドル 、老人の
         アイドル )を自称していた 。
          2011年( 平成23年 )春に視界がぼやけることを理由に漫画家引退
         を考え 、最後の大舞台として生前葬を企画 。友人らに告別式の文章
         を書いてもらい『 清浄院殿画誉道嵩大居士 』という戒名入りの位牌
         も準備したが 、その発表直前に 東日本大震災が発生し 、不謹慎だか
         らという理由で計画は白紙になった 。震災直後『 アンパンマンのマ
         ーチ 』が復興のテーマソング的扱いをされたり 、『 笑顔を失って
         いた子供たちが アンパンマンを見て笑顔を取り戻した 』といった
         良い話がやなせの元に届いたことから 、引退を撤回したという 。
         その後 、被災地向けにアンパンマンのポスターを制作したり 、奇
         跡の一本松をテーマにした CD を自主制作するなどした 。 」
        「 死去の翌日 、東京新聞 2013年10月16日付の追悼記事で『 ダンディーで
         信仰あついクリスチャンだった 』と報じられていたが 、後の東京新聞2013年
         11月20日付で『 やなせたかしさんをクリスチャンとしたのは誤りでした 』
         との訂正記事が出ている 。やなせ本人は 58歳時に 1976年3月刊行の『 月刊
         面白半分57号 特集宗教なんかいらない! 』にて『 ぼくには宗教心というのは
         全くないのです 。おそらく これからも宗教に頼ることはないでしょう
。』
         『 宗教を認めながら 、神を崇拝しながら 、宗教心がないのです 。』と語っ
         ている 。
          私生活においては 1993年( 平成5年 )11月22日 、妻の暢が 75歳で死去して
         いる 。暢夫人との間に子供はいなく 、アンパンマンを 2人の子供であるとして
         いる 。
          絵柄はエルジェの影響を受けている 。
          漫画家のレイモン・ペイネを心の師匠とエッセイで語っており 、ペイネ美術館
         の開館時にはイラストとコメントを寄せている 。 」
                       (⌒∇⌒)
         「 エルジェ( Hergé 、1907年5月22日 - 1983年3月3日 )は 、
          ベルギーの漫画家 。代表作『 タンタンの冒険 』
          ( Les Aventures de Tintin )の作者として知られる 。
          他にも『 クックとプッケ 』( Quick et Flupke )シリーズ
          などの作品を描いている 。 」
                       (o^―^o)
         「 レイモン・ジャン・ペイネ( 発音上ではレモン・ペネ )
          ( Raymond Jean Peynet 、1908年11月16日 - 1999年1月14日 )
          は 、フランスの画家、漫画家 。 」
           以上ウィキ情報 。)



       
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アンパンマンと正義 Long Good-bye 2023・04・06

2023-04-06 04:54:00 | Weblog



   今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典
  「 ウィキペディア 」掲載記事「 アンパンマン 」 。
   適宜取捨して引用します 。

   引用はじめ 。

  「 『 アンパンマン 』( ラテン文字表記:Anpanman )は 、やなせ
   たかしが描く一連の絵本シリーズ 、および 、これを原作とする派
   生作品の総称 。また 、それらの作品における主人公『 アンパン
   マン 』の名前である 。

    パンの製造過程であんパン( 餡パン )に『 いのちの星 』が入る
   ことで誕生した正義のヒーローで 、困っている人を助けるために
   自らの顔( あんパン )を差し出す 。
    あんパン( 餡パン )だけに その頭の中には餡( つぶあん )が
   詰まっている 。

    その他 、キャラクターは主に食べ物を元にして描かれている 。

    テレビアニメ( 日本テレビ系列『 それいけ! アンパンマン 』)
   アニメーション映画 、漫画 、ゲームソフト( 任天堂のWii用 、
   ニンテンドーDS用など )、おもちゃ・グッズなど多数の派生
   作品・商品が存在する 。その中でテレビアニメは長期にわた
   って放送されており 、また一貫して同じ主題歌が使用されて
   いるため 認知度が高い 。現在高知県の香美市立やなせたかし
   記念館や全国5か所にある『 アンパンマンこどもミュージアム 』
   などの関連施設がある 。」

  「 アンパンマンと正義
    ヒーローとしてのアンパンマンが誕生した背景には 、やなせ
   の従軍経験がある 。第二次世界大戦中は プロパガンダ製作に
   関わっていたこともあり 、特に戦いのなかで『 正義 』という
   ものが いかに信用しがたいものかを痛感した 。しかし 、これ
   までのヒーローは派手な格好をし 、強い力・武器・必殺技を
   持ちながら『 正義 』を口にし 、悪者や暴れる怪獣を徹底的に
   やっつけることが主であり 、飢えや空腹に苦しむ者を救わな
   かった 。
    また 、戦いによって汚染や破壊された自然や建物に対しての
   後始末や謝罪がみられなかった 。戦中・戦後における深刻な
   食糧事情もあり 、当時からやなせは『 人生で一番つらいこと
   は食べられないこと 』という考えをもっていた 。50代で
   『 アンパンマン 』が大ヒットする以前のやなせは 売れない作
   家であり 、空腹を抱えながら『 食べ物が向こうからやって
   来たらいいのに 』と思っていたという 。こういった事情が
   『 困っている人に食べ物を届ける 、立場や国が変わっても
   決して逆転しない正義のヒーロー 』という着想に繋がった 。
    アンパンマンと『 正義 』というテーマについて 、やなせは
   端的に「『 正義の味方 』であれば 、まず 、食べさせること 。
   飢えを助ける 。」と述べている 。

    また 、別のインタビューでも 、やはり『 究極の正義とは
   ひもじいものに食べ物を与えることである 』。かつて 、
   たびたび起こった『 顔を食べさせることは残酷だ 』という    考えなしのおバカな批判 。
   批判にも 、『 あんパンだから大丈夫です 』と冗談めかして
   反論していた 。

    空腹の者に顔の一部を与えることで力が半減すると分かって
   いても 、目の前の人を見捨てることはしない 。かつ 、それ
   でありながら 、たとえどんな敵が相手でも恐れない 。弱点も
   多く 、雨に濡れてもすぐに弱まってしまう 。これらの点に
   ついて『 本当の正義というものは 、決して格好のいいもの
   ではないし 、そしてそのために必ず自分も深く傷つくもの
   です 』と 、自身が絵本の後書で語っている 。また 、悪を
   徹底的に排除することはしない 。例として 、悪さをする
   ばいきんまんに対して基本的にいきなり攻撃せず 、『 やめ
   るんだ 』とまず説得を試みる 、アンパンチなどでばいきん
   まんを追い払うことができれば それ以上の追撃はしない 、
   仮に ばいきんまんと出遭っても ばいきんまんが悪さをして
   いないのであれば 敵視するようなことは一切なく 、それ
   どころか もし ばいきんまんが困っているのであれば手助
   けすることすら厭わないことなどが挙げられる 。

    そして 、アンパンマンは食べられることはあっても 、食
   べることはない 。それは単純に( カレーパンマンやしょく
   ぱんまんとは異なり 、)アンパンマンが 食事をする場面が
   一度も描かれないことにも現れている 。『 飲食 』が大きな
   テーマとなった世界で 、本来の『 食べる 』と『 食べられ
   る 』の食物連鎖的な循環を裁ち切り 、自らを食べ物として
   のみ差し出す自己犠牲こそが アンパンマンのヒーロー性 を
   支えているのである 。

    やなせは『 朝日新聞 』2008年8月31日版の『 たいせつな
   本 』というコーナーにて影響を受けた作品として メアリー・
   シェリーの『 フランケンシュタイン 』を挙げ『 科学的に
   生命を創造するというテーマのこの19世紀初頭にかかれた
   傑作の影響を強くうけて 僕はアンパンマンを創作した 』と
   述べている 。『 熱血メルヘン 怪傑アンパンマン 』の作中
   では生まれたてのアンパンマンをフランケンシュタイン
   ( 正しくはフランケンシュタインの怪物 )に喩えている 。
   『 アンパンマンの遺書 』では『 フランケンシュタイン 』
   の他に 井伏鱒二 、太宰治 、『 青い鳥 』の パンの精 の影
   響を挙げている 。また『 フランケンシュタイン 』の影響
   はやなせ作『 キュラキュラの血 』にも観られるという 。」

   引用おわり 。






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アンパンマンがイエス Long Good-bye 2023・04・05

2023-04-05 06:39:00 | Weblog


  今日の「 お気に入り 」は 、伊集院静( 1950年〈 昭和25年 〉2月9日 -  )さん
  の随筆「 旅だから出逢えた言葉 」から スクラップ 。備忘のため 。

  「 ・・・ 、降誕祭の祈りに教会へ出かけた妻が家に帰ってきて
   興味あることを言った 。
   『 アンパンマンはイエスさまと同じなんだって ・・・ 』
    夕暮れの庭に積もった雪を見ていた私は 、一瞬彼女の言葉を
   聞き間違えたのかと思った 。
    ―― アンパンマンがイエス? 何のことだ ・・・ 。
   『 今 、何と言いました? 』
   『 だからアンパンマンはイエスさまと同じなんだって 、今日 、
    教会で牧師さんがおっしゃったの 。ほらアンパンマンは自分
    の身体を食べられたりしながら人を救うでしょう 。あの神父
    さん 、あいかわらず面白いお話をして下さるの 』
   私は何度か逢ったことのある 、仙台の教会のそのフランス人の
  神父の顔を思い出した 。 」

  「 ―― アンパンマンは イエスさまと同じか …… 。
   なるほどな 。
    雪の庭を見ながら 、今夜 、サンタクロースの恰好をした
   アンパンマンが我家の犬へのプレゼントを手に庭の椅子に
   座っている姿を想像した 。
    翌日 、その年最後の仕事で上京した 。」

   引用おわり 。

   言わずと知れた やなせたかしさんの アンパンマン 。孫が子どもの頃
  はまってた 。団塊世代からすると 、親と同世代のやなせたかしさんが
  94歳で亡くなったのが10年ほど前のこと 。
   インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」に掲載されている
  同氏の経歴記事は とても長い 、ときに冗長 、今日は冒頭のみ 、 以下に
  引用 。

  「 やなせ たかし( 本名:柳瀬 嵩〈 読みは同じ 〉、
   1919年〈 大正8年 〉2月6日 - 2013年〈 平成25年 〉10月13日 )は 、
   日本の漫画家・絵本作家・詩人・元大日本帝国陸軍軍人
   有限会社やなせスタジオ社長 。高知県出身( 詳細は後述 )。
   作曲家としてのペンネームは『 ミッシェル・カマ 』。
   『 アンパンマン 』の生みの親として知られる 。
    社団法人 日本漫画家協会代表理事理事長( 2000年5月 - 2012年6月 )、
    社団法人日本漫画家協会代表理事会長( 2012年6月 - 2013年10月 )
   を歴任 。
    絵本作家・詩人としての活動が本格化する前までは 頼まれた仕事は
   なんでもこなした
といい 、編集者・舞台美術家・演出家・司会者・
   コピーライター・作詞家・シナリオライターなど様々な活動を行って
   いた 。」

  「 困ったときの やなせさん
  

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ニコニコ笑って没落する Long Good-bye 2023・04・03

2023-04-03 05:10:00 | Weblog


  今日の「 お気に入り 」は 、ローマ皇帝で五賢帝の一人 、
  マルクス・アウレリウス・アントニヌスが書いた哲学書『 自省録 ( じせいろく ) 』
  にある言葉 。どなたかの 邦訳 、英訳 あれこれ 。
   著者はローマ人であるが 、全編 、ラテン語ではなくギリシア語で書かれていると言う 。
   昔の人もバイリンガル 。

   「 一つ一つの行動を人生最後のもののごとく行え 。 」

   「 我々が耳にするすべては意見であり 、事実ではない 。
     我々が目にするすべては見方であり 、真実ではない
。 」
    ” Everything we hear is an opinion, not a fact.
     Everything we see is a perspective, not the truth.


   「 エメラルドは人に褒められなくてもその価値を失わない 。 」

   「 空中に投げられた石にとって 落ちるのが悪いことではないし
    昇るのが良いことでもない 。 」
     あるいは 、
   「 投げられた石にとって 昇っていくことがいい事でもなければ
    落ちていくことが悪いことでもない
。 」


   「 あなたの人生の幸福は 、あなたの考えの質によって決まる 。 」
    ” The happiness of your life depends upon the quality of your thoughts.




 


     人は 、

    「 ニコニコと没落して 、機嫌よく暮らしていく道 」と

    「 上へ上へと、 自分自身の成功体験を積み重ねていく道 」の

    どちらかを 選び取って 、辿っていくように思える 。

     人生の時々で 。

     多くの人は 、どっちつかずの in - between

     即ち 、

    「 投げられた石にとって 、のぼっていくことが善でもなければ 、
     落ちていくことが悪でもない 」ような 。

     失敗体験の多い 、今の私は前者志向かな 。合言葉は 「 ニコ没 」www 。

     澁澤敬三さん ( 1896年〈 明治29年 〉8月25日 - 1963年〈 昭和38年 〉10月25日 ) にあやかって 。




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はなのもとにて春しなん Long Good-bye 2023・04・01

2023-04-01 05:55:00 | Weblog

             


  今日の「 お気に入り 」は 、Yahoo!知恵袋で見掛けた 質問 と ベストアンサー 。

  「 『 何事の おわしますかは 知らねども
          かたじけなさに 涙こぼるる 』
                  について教えてください。

    ベストアンサー
    『 西行法師が伊勢神宮に参拝した時に歌ったとされる
      短歌です 。
      どのようなお方( 神 )がいらっしゃるかわかりませんが 、
      ただただありがたく感じ 、涙ががあふれてしまうほどの気持ち
     である といった意味でしょう
。』                」

    伊集院静さんの随筆に 、伊勢神宮について 、以下のような記述がありました 。
   「 かつて 西行法師 はこの地を訪れ 、僧ゆえに中には入れず 、拝所から
    木々の間を見つめ 、
    " 何事の おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる 〟と詠んだ 。」
           ( 伊集院静著 「 旅だから出逢えた言葉2 」 (株)小学館 刊 所収 )

  ( ついでながらの
    筆者註 :「 西行( さいぎょう 、元永元年〈 1118年 〉 - 文治6年2月16日
         〈 1190年3月31日 〉)は 、平安時代末期から鎌倉時代初期にか
         けての日本の武士であり 、僧侶 、歌人 。
          西行法師と呼ばれ 、俗名は 佐藤 義清( さとう のりきよ ) 。
         憲清 、則清 、範清 とも記される 。西行は 号 であり 僧名は 円位 。
         後に大本房 、大宝房 、大法房 とも称 す。
          和歌は 約 2,300首 が伝わる 。勅撰集では『 詞花集 』に初出( 1首 )。
         『 千載集 』に18首 、『 新古今集 』に 94首( 入撰数第1位 )をはじ
         めとして 二十一代集 に 計 265首が入撰 。家集に『 山家集 』( 六家集の一 )、
         『 山家心中集 』( 自撰 )、『 聞書 集』。
          その逸話や伝説を集めた説話集に『 撰集抄 』『 西行物語 』があり 、
         『 撰集抄 』については作者と注目される事もある 。 」
         以上ウィキ情報 。

          かつて 目にし あるいは 耳にしたことがある 西行法師の歌をいくつか 。

          「 惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな
                  身を捨ててこそ 身をも助けめ 」

          「 心なき 身にもあはれは しられけり
                 鴫 (しぎ) 立 (た) つ澤 (さは) の 秋の夕 (ゆふ) ぐれ 」

          「 ねかはくは 花のしたにて 春しなん
                 そのきさらきの もちつきのころ 」 ──『 山家集 』

          「 ねかはくは はなのもとにて 春しなん
                 そのきさらきの 望月の比 」──『 続古今和歌集 』

          「 嘆けとて 月やはものを 思はする
                かこち顔なる わが涙かな 」──『 小倉百人一首 』86番 、
                              『 千載和歌集 』恋・936 。

          * * * * * * * * * * * *

    55歳で 会社を辞めて 20年にもなるなあ 。
    団塊世代が入社したころ 、会社員の定年は " 55歳 " だった 。父が死んだ年齢 。
    


  

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