山梨の放送史について調査しているが、
今回も面白い(というかだいぶ酷い)こと
がわかったのでその報告となります。
調査参考資料は
甲府市史 通史編 第4巻 (現代)
山梨県政百年史 下巻
これにマスコミ、報道についてまとめられた箇所があった。
(国会図書館デジタルコレクションより閲覧)
山梨県は戦後の新聞は山梨日日新聞と山梨時事新聞の
2紙があった。
戦後すぐのころは山日は毎日新聞と相互契約し、
毎日新聞は印刷の代行もしていたようだ。
(このため山日は用紙事情ひっ迫時も休刊しないで継続できた模様)
さて、山梨マスコミが大きく動き出すのは昭和40年代。
まずは昭和41年に山日のほうでは山梨文化会館が完成し、
グループ拠点が甲府北口になる。
昭和42年に知事選が行われる。これがマスコミ再編になっていく。
当時現職の天野知事。山梨時事新聞は天野知事再選を支持。
山梨日日新聞は再選阻止をかがけて、真っ向から対立。
結果は天野知事は選挙に敗れ、新しく田辺知事が誕生する。
昭和43年にUHFテレビの周波数割り当て。
以前も書いたが山梨県内では9社の申請があった。
(参考
https://blog.goo.ne.jp/tvdx5/e/ea09bd8624ecabd4aba7a8dc9251f0b8)
昭和44年にはUHF局(現UTY)の認可をめぐって、
知事選以来の政争も重なり虚々実々の工作を重ねる。
山梨時事新聞は知事選での敗北を契機に経営上の欠点が指摘される。
(具体的にどういったことかはわからなかった)
山梨時事新聞の株を保有していた富士急行系株主と
山梨日日新聞のあいだで吸収合併案が進められる。
山梨時事新聞の廃止した後の富士急行系の資本は
UTYの開局へ投下されることになった。
UTYの争奪戦は出願者相互歩み寄りで富士急行を社長(つまり堀内家)
として発足することで落ち着く。
この時、山梨日日新聞・山梨時事新聞の統合の見返りで
山日がUTYの取得権利を富士急側に譲ったともされている。
山梨時事新聞が廃刊し、UTYテレビ山梨が開局したという経緯をたどる。
これが今回判明した山梨の新聞とテレビの歴史である。
なかなかすごいですよね。
現在山梨のテレビは民放2局である。やはり県の人口や経済の規模のことを
考えれば妥当だったと思う。確かに民放4局見られないというのはありますけど
おそらく山梨が4局体制になったところで、広告主はいないんじゃないかと
思いますからね。ただ、山日グループが敷いたCATV利権は許しがたいものが
あると思っています。(山梨に住んだ経験上そう思う)
今回もUTYがTBS系列になった経緯は解明できなかった。
情報お持ちの方はXなどに書いていただけると助かります。