時折、先の大戦のドキュメンタリーや記録を見聞して思うことは、集団の力の怖さだ。
日本では軍部が人々の思想を圧迫し、強制的に戦争へと突き進ませたという見方が一般的だ。確かに戦争が本格化してからは思想統制も厳しくなったが、現実にはずっと以前から、マスコミや世論の一部に好戦的な風潮があったことも事実であるようだ。
そして、ある種の考え方の風潮が生まれると、何かに感染するようにその風潮が人々の間に広がってしまい、だんだんとそれに抗うことが難しくなってくる。別に日本だけの話ではない。それを最大限に利用したのがナチスドイツだし、アメリカも非常に巧みに世論を誘導して、反戦気分を覆した。
もう一つ思うことは、一定の流れができると、現場での合理的判断がとても難しくなることだ。ゴルゴ13のような辣腕のスナイパーなら(ほんとのことは知らないけど)、相手を消す必要があるときは無駄撃ちなどはせず、最小の行動で確実に打撃を与えるだろうし、状況が許さなければ無理な行動はしないだろう。
実際の戦争では(これも実体験はないけど)、徴兵された兵がめちゃくちゃなことをして、無駄な殺戮を繰り返す、と言うことも、よくあっただろうと思う。
そんなことがトラウマとなって、どうも集団で何かをするのが苦手になってしまった。
とはいえ、チームワークは大事だし、何かの利害が一致したとき、共に行動するというのは好きだ。
少人数の組織で言えば、ルパン三世みたいなプロ集団など、ある種の理想だが、下手するとうだつの上がらない泥棒のボスと間抜けな子分になってしまうと、これもダメだ。あんがい大きな組織の方が、個人と組織の隙間が広くて楽だったりする。
村上春樹「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」では、主人公「僕」から切り離された「影」がこういう。
「心というのは、それ自体が行動原理を持っている。それがすなわち自己さ。自分の力を信じるんだ。そうしないと君は外部の力にひっぱられてわけのわからない場所につれていかれることになる。」
「影」は、行動原理を持った心、すなわちここで言う「自己」を信じろという。この街は、人々の心を失わしめることで、平安と秩序を保とうとしている。それはどこかが間違っていると、「影」は主張しているのだ。
小説では最後に「僕」は影と袂を分かち、街にとどまる判断をする。心を失うことで、自分をも失うことになったのだろうか?
心がそれ自体の行動原理を持っていたとしても、それが何かに染まってしまえば、その染まった力に基づいて行動することもあり得るのではないか。
むづかしいはなしになってきましたね。
近所の大きな農家。数年前から盛んに敷地の木々を切っている。
以前話したとき、手入れや掃除(道路に落ちる小枝や枯れ葉)が大変で枝が落ちて通行人が怪我する恐れもあるので、と語っておられた。
その事情はわかるが、鳥たちが賑やかに集っていた木々が切られてしまうことに、心中心穏やかではない。
すべてがうまくまわりますように。