旧宅にいたころ、特に最後の頃はほとんど人を家に呼ぶことがなかった。親が来たのも転居の2年ほど前だったかな。一応かたづけてはいても、物があまりにも増えて収まりが悪かったし、内外装もいささか傷んできて、あまり人目にさらしたくはなかったのだ。
もともと買ったときからかなり古い家だったのと、家具調度品やリフォームまで手が回らなかったので、あまり人に見せたい感じではなかった。それでも20年前の転居直後は、知人たちがよく訪ねてきたが、内心なんか恥ずかしかった。。ピカピカの注文住宅とかなら、鼻高々、という場面ですけど。
まあ、自分の家としての愛着はそれなりにあったけどね。
現宅はその反省?から、親族知人が気軽に来て打ち合わせ等がしやすいようにと、駅近のマンション1階の部屋を借りた。内装というか、部屋も小奇麗にして、恥ずかしくないように?したつもりだ。
引っ越した当座はそのことが頭にあったので、旧宅時代の知人に「遊びに来てよ」とよく呼びかけていた。
だが、知人たちはそれほど家には来なかった。人々は「持ち家」は見学に来るけど、「借家」なんかを見に来たりはしないのだ。ホテルのスイートに泊まったからといって、それを見学しに行ったりはしない。考えてみればそうなのだが、自分ではやっと人に見せられる家に住んだという意識があるから、つい人の感覚とずれてしまったのだ。
立ち位置が変わると感覚がずれる。今も父が亡くなったことによる残務整理をしているが、こういう特殊な事情のもとでは、無意識のうちに周りと感覚がずれたり、気持ちを共有できなくなっていたりすることはあると思う。こちらがおかしなことをしていても、周りがそっとフォローしてくれていることもあるかもしれない。。
自覚のあることでいうと、入院前まで読んでいた本を、どうも読む気がしなくなった。ここでも再三取り上げているような、戦争や歴史にまつわる本が好きで、病院で付き添ったときも山崎豊子「二つの祖国」などを読んでいたが、途中で止まっている。「ハーバード白熱教室」も下巻を読み始めたところだったが、なんだかお勉強をする集中力が出てこない。。
「寺山修二詩集」はその点、リハビリに良かったな。詩や短歌は眺めているだけでいいから。
昨日、久しぶりに本屋に行った。やはりまだ重そうな本は駄目で、村上春樹の紀行エッセイみたいのを買ってみた。
そういえばものすごい出不精の僕なのですが、なぜか旅に出たい気分です。
まあ、すこしずつ。。