A.アインシュタイン、S.フロイト 講談社学術文庫2016年
初出は2000年花風社
この紹介を15日付で書くのもなんかベタすぎるので・。
1932年に国際連盟がアインシュタインに「人間にとってもっとも大事だと思われる問題を取り上げ、もっとも意見を交換したい相手と書簡を交わしてほしい。」という依頼をします。
これに対しアインシュタインが選んだテーマは戦争、相手はフロイトでした。
当時アインシュタインは53歳、フロイトは76歳で共にユダヤ系でした。間もなくナチスの勢力が拡大し、二人はそれぞれアメリカとイギリスに亡命することになります。
書簡自体は非常に短いもので、フロイトは2度にわたり返信を書いていますが、後半の養老孟司氏、斎藤環 氏の解説を含めても、紙の本で73ページほどです。
アインシュタインは、各国が権利の一部を国際機関に委譲し、紛争解決をその機関に委ねればよいはずだが、現状それは不可能だ。人には権力欲があり、その性格の中に攻撃的な一面を持っている。戦争を避けるためにはどうしたらよいのか、と尋ねます。
フロイトはアインシュタインへの返信の冒頭で、結構大胆な表現をしています。
「人と人とのあいだの利害の対立、これは基本的に暴力によって解決されるものです。動物たちはみなそうやって決着を付けています。人間も動物なのですから、やはり暴力で決着をつけています。」
ただし、人間には意見の対立とそれについての話し合い、というものもあるなど、社会の発展によって様々な対立が生ずるようになった、とフロイトは続ける。
最終的なフロイトの結論は、文化を発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩みだすことができる、というものだ。
論理の展開については本書を読んでもらうしかないが、養老氏と斉藤氏の解説も、非常に重要な指摘をされているので紹介する。
養老氏は二人が議論の中で扱わなかった問題として、当時の政治情勢と人口問題を挙げている。養老氏は特に後者について、人口問題は戦争の大きな背景になっていて、第一次世界大戦も根本にはその問題があったのだと思う、と述べている。
かなり飛躍した論理のように思えるが、人類の数というのは、ここ数百年の地球の歴史を語るうえで決して外せない課題だと思う。この往復書簡が交わされた時代、世界人口は20億程度だった。19世紀はじめごろの約2倍である。
この間100年少々である。
産業革命は人類に様々な恩恵を与え、人々の活動範囲は格段に広がったが、過剰な人口は社会的な軋轢を高め、食料や資源などを巡る利害の対立を深めた。
ということは理解していたが、養老氏の指摘は少し意外なものだ。
「人が増えると、ものも不足するけれども、社会の中で若者の居場所も不足する。・・若者が余れば、当然ながら軍隊が役に立つ。まともな仕事で若者が重要な部門と言えば、当時は軍隊に決まっていた・・会社と違って軍隊は雇用に制限がかかっているわけではない。軍隊が大きくなれば、戦争の危険はむろん高くなる。」
肥大化した軍隊は対外的な危機を誇張し、戦争を起こす。第一次世界大戦では欧州で数百万の若者を殺した。
それで人口問題が解決したかと言うとそうではない。再び起きた大戦では、若者に限らず更に多くの人々を殺した。それでも戦後はベビーブームになり、いっそう人口が増えた。
そして、世界人口はいま(2019年)77億人とされている。10年前の秋には70億を突破したといわれていたが、この10年で世界では、全日本の人口の5倍もの人が新たに増えたことになる。
この問題は極めて重要かつ不都合な真実というか、まあ人々が目を向けたくない問題の一つだと思う。バッタやアライグマが増えても環境に影響がでるが、人間はそれどころの話ではないのである。アライグマはジェット機に乗ったり、ジャングルを切り拓いてバナナ畑にしたりはしない。自然環境への影響はとうぜんに出る。
脱線しました。
斉藤環氏は精神医学の観点から、フロイトの論理展開について丁寧に解説されている。
フロイトは、人間には「生の欲動」(エロス)と、「死の欲動」(タナトス)が備わっていると考えていた。これらは心よりもむしろ身体に深く根差したある種の傾向、ベクトルの事を指す。
生の欲動は生を統一し、保存しよとする欲動、死の欲動とは破壊し、殺害しようとする欲動を示す。
人間はあらゆることを後天的に(言葉により)学ぶ必要があるが、「生の欲動」「死の欲動」はより古い、根源的な人間に備わっているもの、とフロイトは考えた。
「死の欲動」を簡単に取り去ることはできない。それではどうするか。
それは「生の欲動」に訴えかけることではないか。
たとえば「生の欲動」の現れ、人間の間に「感情の絆」を作り出す必要がある。
その例として「愛するものへの絆」、「一体感や帰属意識」を例示している。
ひととつながり、相互理解を深める。相手の感情や行動を理解し、偏見をなくして「同一化」する。
斉藤氏は、インターネットやSNS等の発達した今日では、それが以前より容易に実現できる環境になりつつある、と述べています。しかしながらSNSは時に社会の分断化を招いているように思えますが、人類はこれを克服し、使いこなしていく必要はあるでしょう。
フロイトの最後の結論で述べられた、「文化の発展」について、斉藤氏は以下の見解を述べています。
「・・文化とは人間の価値観を規定するものです。価値観を文化として洗練していけば、『生きてそこに存在する個人』にゆきあたるはずです。つまり文化の目的とは、常に個人主義の擁護なのです。そうなると、いかなる場合にも優先されるべき価値として、個人の『自由』『権利』『尊厳』が必然的に導かれてくるでしょう。
・・言うまでもなく『戦争』は、そのあらゆる局面において、『個人』の自由、権利、尊厳を犠牲にせずにはおけません。平和主義者が戦争を嫌悪し拒絶するのは当然のことなのです」(一部抜粋省略)。
この往復書簡は、訳者の浅見氏のあとがきによると、本書出版(2000年)まで世間に知られず埋もれていたのだそうです。往復書簡が交わされた翌年、ヒトラー政権が成立し、冒頭に書いたように二人は亡命する。ナチズムの嵐の中で、二人の議論は忘れ去られてしまったのだと。
それから90年を経て、この間にも様々な、などと簡単には言えないほどの出来事がありました。アインシュタインの指摘した国際機関も、当時の国際連盟では実現しえなかった国際平和へのより強い権限を、国際連合が持つに至っています(さっきから国際法の本を探しているのだけど見つからない・・)。理想とは遠い現状があるにしても、人類がある種の方向性を持って努力を続けてきていることは、認めても良い気はします。