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世界線という言葉は、もともとは相対性理論で用いられる物理用語で、「四次元空間に表現される質点の運動の軌跡」、なのだそうですが、近頃はパラレルワールドというか、ある仮定に基づいて、その条件の下で世の中がどうなっていたか、を論ずるときに使われたりします。
よくある設定は「先の大戦で日本が負けなかったら」みたいな話ですが、最近のSNSなどでは「東京発の夜行列車が存続し、JRがより魅力を増すために力を入れるようになった、という世界線の、新型豪華ブルートレイン」みたいな話がでてきます。じっさいにはもっと細かい世界線で、マニアックな想定を楽しむものが多いです。
「寝落ち」と共に、昔はなかった便利な言葉です。
ただ、今回語りたいのは世界線の話ではなくて、別の状況です。それを言い表すうまい言葉がないかな、と。
先日亡くなった伯母は9人兄弟の5番目で、下から2番目だった父とはとても親しくしていました。小さいころから叔母の家族とは付き合いがあり、よく一緒にあそびにいったり、お互いの家を訪ねあったりしていました。
従姉たちは僕たち兄弟よりは上で(いちばん下の従姉が僕の3つ上)、物心つく前からよく遊んでもらっていました。そういうのって、当たり前にそうなっているので、なんでそうなのか(なぜよく遊びに来るのか、なんで親切にしてくれるんだろ)、わからないというか、理由を考えることすらしないんですよね。。
ふだんは内弁慶してたのが、従姉たちと会うと子供なりに、また違う自分を見せていた気がします。
大人になるとどうしても疎遠になります。従妹同士のつきあいというのも、うちはあまり盛んではなかった。父方の従兄たちはみんなかなり年が離れていたし。。
日曜に伯母を見送ったとき、久しぶりに従姉たちにも会いました。
僕が1~2歳の頃のことも、よく覚えていて懐かしそうに話してくれた(僕は泣き虫だったのだそうです)。
そういう親族に囲まれて話をしていると、僕はそういう中の僕(おじさんちの、あの泣き虫のうさぎくん)になってしまう。
色々な人との間の、相対的な関係のなかで、そこにいる「僕」が定義される。
幼馴染、小学校の同級生同士で集まったときの僕、前職の同僚と会ったときの僕、音楽やってる人と会うときの僕、それぞれ少しずつ違う。
そういうの、うまく言い表す言葉はないものか。
それで、「世界面」という言葉を拾ってみました。
世界面、という言葉も、もともと相対性理論の用語らしいですけどね。
例えば、「父方の親族という世界面における僕」、とか。。
世界線はある仮定の延長線上にある、という感じがいかにもそれらしいけど、世界面じゃ、ちょっとわからないかな。。